ローマで開催された
国際ボンヘッファー協議会
に出席して

牧師 松本 敏之 


 私は、6月6日〜11日、イタリア、ローマにおいて開催された第九回国際ボンヘッファー協議会に参加した。これを主催する国際ボンヘッファー協会は、ドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906〜1945)の生涯と著作についての情報と研究を分かちあい、促進することを目的として設立され、1972年以来、4年ごとに、ジュネーブ、オクスフォード、アムステルダム、ニューヨーク、ケープタウン、ベルリンなど、世界各地で協議会を開催してきた。
 ボンヘッファーとは、ナチス政府に抵抗したドイツ告白教会の牧師、神学者である。告白教会運動などの挫折を経て、国防軍内部の抵抗派に接近し、ヒトラー暗殺をも辞さない政治的抵抗地下組織の一員となる。1943年に逮捕され、ドイツの敗戦直前、1945年4月、フロッセンブルク収容所で絞首刑となった。弱冠、39年の生涯であったが、彼の生涯と神学的著述は、戦後のキリスト教世界に計り知れない影響を与えている。
 さて今回の会議には、世界14カ国から約100人の人々が集まった。日本からの参加は私1人であり、図らずも日本ボンヘッファー研究会を代表する形になった。会場は、教育で有名なラサール修道会の施設。ローマの中心ではないが、街の北西部にあり、ヴァチカンまで地下鉄で2駅と便利なところにある。6月4日、空港から市街へ直行するレオナルド・エクスプレスと地下鉄を乗り継いで、無事にここへたどり着いた。広い敷地内には街の喧騒とは打って変わって、閑静な美しい庭園がある。部屋はシンプルで、十字架とベッドと机があるだけ。(テレビも無いのでちょっとがっかり)。
 ボンヘッファーとローマというのは、意外な結びつきなようであるが、ボンヘッファーにとって、ローマは特別な地であった。ボンヘッファーは、ギムナジウムを終えた1924年(18歳)、両親からイタリア旅行をプレゼントされ、ローマに2ヶ月間滞在した。彼はそこで初めて生きたカトリック教会と出会い、告解をする真摯な信仰者を見て、「これは本物だ」という認識をもつ。彼は、後に世界で最初のエキュメニカル運動のリーダーの一人になるが、その背景にはこのローマ経験を通してのカトリック理解があったに違いない。
 彼はまた、ローマで「古代」と出会った。コロセウムを見て感動し、「古代は全然死んではいない」と日記に記した。ヴァチカン美術館で、古代ギリシャ彫刻、苦しむ人の像ラオコーンを初めて見た時のことを、「私の体内を実際に身震いが通り過ぎた。それは信じられないほどだった」と記している。彼はその後も何度もラオコーンを見るためにヴァチカン美術館を訪れ、獄中書簡集でも、このラオコーンについて言及している。私には、このラオコーンが彼の生涯を暗示しているように思えてならない。
 また彼が獄中にいた時、親友で後に『獄中書簡集』を編集出版するE・ベートゲはローマで兵役に就いていたのであるが、ボンヘッファーはベートゲ宛ての手紙で、何度も愛しいローマについて触れている。
 逆にローマの側から見れば、ボンヘッファーは、戦後のイタリア・カトリック教会にとって、最も早く、最も真剣に読まれたプロテスタント神学者なのだそうである。ムッソリーニのもとで、むしろファシズムに協力的であったイタリア・カトリック教会にとって、ドイツにボンヘッファーのような牧師がいたことは大きな衝撃であった。それはカトリックが圧倒的に支配的な国において、プロテスタント教会に対する理解と尊敬をもたらし、エキュメニカル運動を促進させるものであったという(G・ロング、イタリア・プロテスタント連盟会長の挨拶より)。
 さて協議会は、「ボンヘッファーとキリスト教ヒューマニズム」を主題に、8回の講演、10回のセミナー、ボンヘッファーゆかりの地ツアー、貧しい人々の間で活動するカトリックの共同体とユダヤ教シナゴーグ(会堂)への訪問、毎朝の美しい礼拝、聖餐式を伴う閉会礼拝など、豊かなプログラムであった。
 今回、基調講演を行ったジョン・デ・グルーチー氏は、私がニューヨークのユニオン神学校に留学中、南アフリカから客員教授として招かれ、偶然、同じ教会に通ったなつかしい先生である。再会を感謝した。
 デ・グルーチー氏は、「今日におけるキリスト教ヒューマニスト」としてのボンヘッファーの重要性を際立たせ、次のように語った。
 「ボンヘッファーのヒューマニズムは、イエス・キリストの生と死と復活に深く根ざしている。それは教育によってだけではなく、『他者』との真の出会いによって形成され、非人間化する力に抗して真実と正義を求める闘いの中で培われ、苦しみを通して深められたヒューマニズムである。そのヒューマニズムは今もなお、邪悪に対する人間の善良さ、絶望に対する希望、死に対する生を肯定し続けている」と語った。
 なお私は、日本ボンヘッファー研究会について発表する機会を与えられた。私たちが韓国ボンヘッファー研究会と交わりを深め、今年2月には、ソウルにおいて初めて日韓合同協議会を開催したことを、画期的なこととして報告した。その際、私の人形シューシャとペレも英語でトークショーを行った。ペレが「マイネーム・イズ・ディートリッヒ(ボンヘッファーの名前)」と言うと、それだけで大喝采。「それじゃ彼女はマリア(ボンヘッファーの婚約者)だろう」ということになった。日本人よりも大げさに喜んでくれるので、私も調子よくトークすることができた。
 会議の前日、また会議の合間を縫って、それなりにローマ観光もすることができた。ヴァチカン美術館は2度訪ねた。システィーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの「天地創造」や「最後の審判」、ラファエロの間の「アテネの学堂」や「聖体の論議」などは想像以上の大きさに驚かされた。
 カトリック教会の総本山サン・ピエトロ大聖堂もとてつもなく大きい。神を想うよりも、カトリック教会の威力に圧倒される。ミケランジェロの手による大聖堂の丸屋根は高さ120メートル。「おのぼりさん」の私もこの上から気持ちよくローマを一望した。
 南部郊外の旧アッピア街道にまで足を延ばし、初代キリスト教徒たちが隠れて礼拝をしていた地下埋葬所カタコンベを訪ねた。古代ローマの遺跡群のあるフォロ・ロマーノやコロセウムは圧巻であった。もちろん、映画『ローマの休日』の舞台となったスペイン広場、トレヴィの泉、「真実の口」広場へも行った。イタリア人が大好きなジェラート(アイスクリーム)も毎日食べて大満足。実りの多い会議と旅行であったことを、心から感謝したい。


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