新しい歌を歌おう

詩編98編1節
ローマの信徒への手紙14章17節
2002年8月4日 平和聖日説教
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


 今年度、私たちに与えられました教会標語は、「礼拝に集い、祈り、世に遣わされる教会」という言葉であり、それと同時に今年度の聖句として、旧約聖書から「新しい歌を主に向かって歌え」(詩編98編1節)という言葉と、新約聖書から「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマの信徒への手紙14章17節)という言葉が与えられました。牧師交代期にあって、教会も新しくなって、前進していきたいという思いが込められた聖句であると思います。

(1)新しい曲

 「新しい歌を歌う」という言葉にはどういう意味があるのでしょうか。一つには、文字通り「新しい歌」、新しく作られた歌ということであると思います。私たちはこの五月の教会総会において『讃美歌21』を礼拝において正式に採用することを決定いたしました。この『讃美歌21』には、従来の『讃美歌』や『讃美歌第二編』にはなかった新曲がたくさん含まれております。従来の『讃美歌』が発行されたのは1954年ですから、今年で48年になります。私たちの世界は、この間に大きく変わり、その間に新しい賛美歌もたくさん生まれてまいりました。
 教会というところは、伝統を守っていくことと、新しくされていくことの緊張の中を歩んでおります。その両方が必要なのです。教会が伝統を守っていくことだけに固執する時、教会はそこで聖霊を受け、その都度新しく導かれることを忘れ、過去のものになってしまいます。逆に、新しくされることばかりに気を取られてしまいますと、時に破壊的になり、糸の切れたたこのようにどこへ飛んでいってしまうかわからないということが起きてまいります。伝統と刷新という両方を見据えつつ、今年度は、新しくされる方にアクセントをおこうということでありましょう。

(2)形式が新しい

 「新しい歌」ということの第二は、形式が新しいということです。新しい形式の歌は、最初はとまどいがあるかも知れませんが、私たちの気持ちを新しくし、新鮮な驚きと喜びをもたらしてくれるものではないでしょうか。詩編を読んでいてはっとさせられるのは、詩編の時代の人たちは、意外にも今日の私たちよりもずっと大胆な形で主を賛美していたということです。この詩編98編と同じく、「新しい歌を主に向かって歌え」という言葉で始まります詩編149編には、「踊りをささげて御名を賛美し、太鼓や竪琴を奏でてほめ歌を歌え」とあります。実は2500年前の人々はすでに、賛美歌を踊りながら、そしてドラムやシンバルの伴奏で歌っていたのです。

(3)メッセージが新しい

 第3のこと、そしてこれが最も大事なことですが、それは内容・メッセージが新しいということです。ここ30年から40年の間に世界の教会は、「神がこの不正な、不公平な社会の変革にかかわっておられる」ということを強く語るようになってきました。「神様はこの現代の不公平な世界、つまり持てる者はより強くなり、持たざる者は、今持っているものまで奪われていくような世界、その差が決定的になるまでどんどん広がっていき、それが固定化されていくような世界を、決してそのままにはしておかれない。必ずや力を持ってこの世界を変革される時が来る。」従来の『讃美歌』には、そのようなメッセージをもつ歌が非常に少なかったのですが、今はそのようなメッセージが盛り込まれた歌がたくさん生まれています。先ほどの「新しい歌を主に歌おう」(『神の時は今満ちて』第一番)の三節にも、「争いをやめてひとつとなれ。正義と平和の主は来られる」という言葉がある通りです。
 そのようなことを心に留めながら、賛美歌に限らず、私たち自身が新たにされて、「主に向かって新しい歌を歌う」ような教会生活を送りたいと思います。

(4)聖霊による義

 さて、今年度もう一つの聖句は、「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」という言葉です。この味わい深い言葉を少し区切って読んでみましょう。
 まず神の国は、「聖霊によって与えられる義」(正義)だということです。今日の世界において、「正義」ということがしばしば語られます。しかしそれは、人間中心の、そしてそれを語っている人の都合によって左右される正義ではないでしょうか。私たちは自分たちを正当化するために、しばしば神の名を語りつつ、正義を振りかざし、その正義によって、相手を攻撃するのです。聖霊によって与えられる正義とは、そのようなものではないだろうと思います。

(5)聖霊による平和

 それと同様に、神の国は、「聖霊によって与えられる平和」だということを思い起こしましょう。この世が実現しようとする平和というものは、しばしば武力、暴力を伴います。力で相手を屈服させることによって、平和を実現しようというのです。古代ローマ帝国の時代に、ある時期、戦争のない平和な時代がありました。パックス・ロマーナと呼ばれます。なぜそこで一時、平和が実現したのかというと、ローマ帝国が非常に強大な力をもって、他の国々を押さえつけていたからです。それになぞらえて今日は、パックス・アメリカーナの時代であると呼ばれることがあります。それはアメリカ合衆国が圧倒的な軍事力をもって、世界を押さえつけることによって実現する平和という意味であります。聖霊によって与えられる平和とは、そのようなものではないでありましょう。

「私は、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ福音書14章27節)。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、…(中略)…双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2章14〜16節)。

 イエス・キリストによって与えられる平和、またイエス・キリストが遣わされる聖霊によって与えられる平和とは、力で誰かを支配するのではなくて、むしろ自分自身を引き裂き、敵意を滅ぼすことによって実現される平和なのです。

(6)聖霊による喜び

 人間が自分の都合で振りかざす「正義」と、相手を屈服させて実現された「平和」のもとには、喜びがありません。一見平和と正義があるように見えて、実は怒りと不満が渦巻いております。私は今まで述べてきたような聖霊によって与えられる義と平和の中にこそ、同時に「聖霊によって与えられる喜び」があるのだと思います。その喜びを味わいつつ、神の国の実現ために、聖霊によって与えられる義と平和のために働く者となりましょう。
 私たちはそのような者となるために、かえって礼拝を大切にし御言葉に聞く者とならなければなりません。先ほどの詩編も大きな神様のご計画、歴史のことを語っておりましたが、それが語られ、歌われたのは礼拝において、でありました。私たちはそのことを礼拝において確認して、この世へと出ていくのです。そのようにして、神様が平和を実現される担い手として、私たちも世に遣わされて、働くようになるのです。それは、私たちが今年度の教会標語そのものが指し示していることです。もう一度、その教会標語を読んで、終わりにしたいと思います。「礼拝に集い、祈り、世に遣わされる教会」。礼拝を大切にしながら、この世へと遣わされる一年を過ごしていきましょう。