通ったことのない道

ニューヨーク・ユニオン神学大学名誉教授 小山晃佑先生
2002年9月8日


 キリスト教は、日本憲法九条と非常に似ていることを言っています。喧嘩、国と国との争いを解決するのに、戦争という概念を最初から抜いて考えるということです。無防備とか、ノン・バオレンスというのはキリスト教が本家本元なのです。

 教会には十字架があります。これはキリスト教の中心になるシンボルです。「キリスト教とは何か」と言えば十字架そのものです。これはアカっている姿です。こんなにして良いのかなと思われるほどアカっているのです。

 聖餐式というのがありますね。キリストが十字架にかかる前夜、弟子達との最後の晩餐でパンを裂き、「これは私の身体である。あなた達は通ったことのない道を歩きなさい」と、言ったのです。パンを裂いて手を広げたら、そこに新しい場所、広場ができました。

 今、六〇億の人間が小さな地球に生きています。その中で、二億八千万のアメリカ人が世界の三〇%の資源を使っていますが、そのうち巨大なお金を軍事費に使っています。そのアメリカが戦争をやったら、残り五八億の人々の具合が悪くなりますね。こんなことをしてはいけないというのが、キリスト教の二一世紀のメッセージです。

 もう一つ、聖書の中に足を洗う話があります。イエスは弟子たちの足を洗いました。弟子たちは「先生に足を洗っていただくのは困ります」と言った。そしたらイエスは「私が洗わないと、お前たちは私と関係ない」と激しいことを言うのです。そして「お前たちは六〇億の人間の足を洗いなさい」と再出発を呼びかけるのです。「今まで歩いたことのない道を歩け」とおっしゃいました。

 「われらの罪を許すごとくわれをも許したまえ」。これは再出発ですよ。「われらに日ごろの糧を与えたまえ」。これも再出発です。自分の国だけ食えれば、よその国が餓死しても関係ないというのではありません。アカっていて再出発する人は、通ったことのない道を歩みます。

 第二イザヤはすごいことを書きます。

「偶像に依り頼むもの、鋳た像に向かって、あなたたちがわたしたちの神、と言う者は甚だしく恥を受けて退く」(イザヤ42章17節)。

 像は良いものです。奈良の千年前の仏像、フローレンスのダビテの像は素晴らしいですね。しかし「像」の前に「偶」がつくといけないのです。偶像と言えば、スターリンの像が倒されました。偶像と言うのは、一見いいことを言うのです。例えば「備えあれば憂いなし」という言葉があります。響きが良いですね。なるほどと思う。しかしよく考えると、これは偶像なのです。「私は問題ないが、あいつが問題だ」と言う意識です。この考え方で人間は、五千年戦争してきました。

 皆さんよく記憶してください。二〇世紀に人間は、一億八七〇〇万人を殺しました。ライオンがシマウマを殺したのではありません。ライオンは殺したら食べるのですが、人間は食べません。今地球上に二六〇の国がありますが、その国が全部「備えあれば憂いなし」で軍備を計り、戦争したらどうなりますか。全部、滅びてしまうでしょう。

 だから私は本当に現実的に考えるのです。宙に浮いた話ではありません。本当の現実主義というのは、憲法第九条です。そうでないものは偶像です。いずれ「甚だしく恥を受けて退く」のです。
 皆さん、「キリスト教とは何」と聞かれたら、「アカっていて再出発だよ」と答えればよいのではないでしょうか。


(小山先生は、日本だけではなく、アジアを代表する世界的神学者であり、これまでタイ、シンガポール、ニュージーランド、そして最後は米国ニューヨークのユニオン神学校で神学教育に携わってこられました。
 小山先生は、松本牧師のユニオン神学校時代の恩師であり、留学中は、小山先生宅にホームステイをさせていただいた親しい間柄です。)