天に栄光、地に平和

ルカによる福音書2章8〜14節
2002年12月24日(経堂緑岡教会クリスマスイブ礼拝)
2002年12月19日(恵泉女学園園芸短大クリスマス礼拝)
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之



(1)暴力克服の10年

 世界教会協議会という組織があります。WCC(World Council of Churches)というのですが、これは世界中の多くのプロテスタント教会とギリシャ正教会によって構成されております。この世界教会協議会が2000年の終わりに(つまり今から2年前に)、これからの10年(2001〜2010年)を「暴力克服の10年」と定めました。世界教会協議会のコンラート・ライザー総幹事は今から2年前のクリスマス・メッセージで、このように述べておりました。

「本物の暴力文化が、人道的な法律のすべての規則を公然と侮りつつ、根付き広がっている。この力を止めることができるのか。……多くの場所で、人々が立ち上がり、そして暴力という文化に抵抗する同盟を組織し始めた。……今2001年の始めにあたり、WCCはその努力を強化し、『暴力克服の10年』に着手する。これからの10年は、キリスト者とその教会が『正義に基盤を置いた平和、和解、公正という明確な証を世界に向かって果たすよう』求められているという信念に根ざしたものとなる。暴力に代わる平和と和解の文化が成長する場を開くことが、この10年の目的となるであろう。」

 私は今、改めてこのメッセージを読んでみて、ため息が出るような思いがいたします。「暴力克服の10年」の最初の年はどうであったか。2年目はどうであったか。私たちは少しでも暴力克服に向けて前進したであろうか。いや、私たちの世界は、2年前、つまりこのメッセージが語られた時よりもずっと後退してしまったのではないか。2年前、私たちはまだこの21世紀というものを、そのように希望をもって語ることができたのかと、とても2年前とは思えないほど、遠い遠い過去の話のように思えるのです。2001年9月11日を境に、世界は全く変わってしまいました。
あの9・11の同時多発テロ事件以降、世界は暴力克服に向けて進むどころか、アメリカは「やられたらやり返せ」とばかりにアフガニスタンに爆撃を加え、タリバーン政権を倒して一段落すると、今度は今にもイラクを攻撃しようとしています。しかしその一方でテロ事件は減るどころか、世界中のあちこちで頻発しております。アメリカがどこかを押さえつけようとすればするほど、その反動のように全く別の地でテロ事件が起きるのです。暴力をなくすには、暴力をもって制裁を加える、つまり武力行使しかないという考えが根底にあるのですが、それでは決して暴力はなくならず、世界はどんどん暴力の連鎖という泥沼にはまりこんでいくであろうと思います。9・11以降、しばしば語られてきたことですが、私たちは、この暴力の連鎖をどこかで断ち切っていかなければならないと思います。今日は、クリスマスの物語に心を留めながらそのことを考えてみましょう。

(2)神様を勝手に持ち出す

 夜中に野宿しながら羊の世話をしていた羊飼いのところに天使が現れ、イエス・キリストの誕生を告げた時、天の軍勢がこのように歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)。この天使の歌は、まさに、イエス・キリストが一体何のために、この世界に来られたのかということをよく表しております。それは、神に栄光が帰せられ、地上に平和が実現することです。この二つを切り離してはならないと思います。つまり神に栄光を帰し、神を神として立てることなく、まことの平和はありえないということです。
 私たちの直面している事態は、一見それと反対のように見えます。確かに今日の世界の対立は、深く宗教に関係しています。それぞれが自分の信じる神に栄光を帰するために戦争をする。イスラム教世界と、キリスト教およびユダヤ教世界が対立している。こちらでは「アラーの名を汚す者に対しては、とことん戦う」と叫び、あちらでは「ゴッド・ブレス・アメリカ」と歌う。それぞれが自分の神、自分の信仰、自分の宗教にこだわっているから、戦争なんかするのだ。「聖戦(ジハード)だ」「十字軍だ」と言い合う。宗教戦争。みんなが宗教にこだわらなければ、こんなに戦争などしないのに。そのように思うのではないでしょうか。特に多くの日本人のように宗教に無頓着な人はそう考えるのではないかと思います。しかし私は、本当はそうではないだろうと思っています。本当は、何かしらこの世の利害が絡んでいて、それで戦争をするのです。必ずそうです。それを言わないために、神様を勝手に持ち出して、戦争を正当化するのです。人は、本当は、信仰のためには戦争をしないものだと思います。最前線に送り出される者の中には、純粋に神様のために思いこんでいる人もあるかも知れません。しかしそれは洗脳です。マインドコントロールされているのです。そういう誰かのこの世的打算と洗脳によって戦争が遂行されていく。
 このようなことは、一見、神を神として立てているように見えて、実はそうではありません。むしろ反対です。自分の都合で神を持ち出し、神の名をみだりに語り、神に対して自分の都合のいいように祝福を願っているのです。神の正義ではなく、自分の正義のために、神にご登場願う。ある人が、皮肉っぽく、「人はしばしば神よりも宗教的になる」と言いました。

(3)毒麦のたとえ

 みなさん「毒麦のたとえ」というのをご存じでしょうか。マタイ福音書13章24節以下に出ております。ある人が畑に、麦の種を蒔いたはずだのに、いつの間にか、それに混ざって毒麦が生えてきました。「さては、これは敵の仕業だ」ということで、僕たちがいきり立って主人のところへ行って、「だんな様、行って抜き集めてまいりましょうか」というのです。正義感に満ちあふれた僕たちです。ところが、その主人は何と言ったかと言いますと、「いや毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」(マタイ13:29〜30)と答えられました。私はこの問答は非常におもしろいし、示唆的だと思います。しもべの方がいきり立っているのに、それを主人の方が、「まあまあ、落ち着け。そういきり立つな。まちがえて、関係ない麦を抜いてしまったらどうするのだ」と言われる。毒麦を集めることよりも、それによって間違って、よい麦に被害が出てはならない、ということを優先されたのです。
 このしもべの正義感は、まるでアメリカの正義感のようです。「だんな様、とんでもないテロリストは一人残らず、退治してまいりましょうか」。しかし神様なら、どうお答えになるでしょう。「ピンポイント爆撃で正確にやると言っても、まちがって他のところにあたったらどうするのだ」。そのようにお答えになったかも知れません。「少々の犠牲はやむを得ないな」とは決して言われなかったのではないでしょうか。
 ただ誤解のないように言っておきますが、私は対立のどちらかが毒麦であると決めつけている訳ではありません。それは攻撃する側の意識の問題です。だからこそまた、慎重でなければならないのです。
 「人はしばしば神よりも宗教的になる」。あるいは「人はしばしば神よりも正義をふりかざす」と言ってもいいかも知れません。私たちの方が、神さまを追い越してしまうのです。そうした時、神を神として立てているように見えながら、実は、この世界に正義の神がおられるということを、もはや信じていないのではないでしょうか。信じていないから、神が正義を貫いて下さることを待っていられなくて、自分でそれをもたらそうとするのです。そしてそこには、実に巧妙に自分の打算、思惑が入り込んでくる。自分の国の打算と思惑が忍び込んでくる。それは、時には自分でも気づかないほどです。もしかすると、悪魔が私たちに知らないうちに麻酔の注射を打っているのかも知れません。だからこそ、私たちは地上に平和を祈りつつ、同時に、いやそれに先だって、「いと高きところには栄光、神にあれ」(イン・エクセルシス・デオ)と歌わなければならないのです。

(4)平和の王キリスト

 次に、この「平和の王」として来られたイエス・キリストの姿に心を留めたいと思います。その方は、馬小屋の飼い葉桶の中に、布にくるまって寝かされている乳飲み子の赤ちゃんでした。王様の宮殿の豪華なベッドの上に、ふかふかの羽布団にくるまっていたわけではありません。あるいは、護衛の番兵がついていたわけでもありません。みすぼらしい羊飼いたちが、ノーガードで近寄ることができました。セコムがあったわけでもありません。力強い姿で、頼りがいのある姿で登場されたわけでもありません。よろいかぶとで身をおおっていたのでもありません。彼をおおっていたのは、ただの布きれ、しかも恐らくぼろ布であります。無力で、無防備なキリスト、救い主。この姿は、彼のその後の歩みを象徴するものでありましたし、彼がどのようにして平和をもたらされるのかということを象徴するものでもありました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」「これがあなたがたに与えられるしるしである」(ルカ2:12)。この姿こそが、救い主のしるしであったのです。こんな姿であったにもかかわらず、というのではありませんでした。この姿でなければならなかったのです。
 そのお方は、力で敵を封じ込めて平和をもたらそうとするのとは正反対のやり方をなされました。その究極の場所が十字架であったわけです。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、このように述べています。「イエス・キリストは二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、……双方を御自分において一人の新しい人に造り上げられて平和を実現されました」(エフェソ2:14〜15)。私たちは今こそ、イエス・キリストが一体どのようにして平和を実現されたのかをしっかりと見据えなければならないと思います。

(5)ラテンアメリカの視点

 朝日新聞は、昨年「テロは世界を変えたか」という題で、連日さまざまな人の意見を紹介しておりましたが、その中で私には、アリエル・ドーフマンという人の言葉が、心に残っております(2001年11月28日)。アリエル・ドーフマンは、アルゼンチン生まれの劇作家であります。一度アルゼンチンを出国した後、米国を経て、チリで市民権を得、チリの民主政権であったアジェンデ政権の文化顧問を務めました。その後、チリでクーデターが起こり、悪名高きピノチェト軍事政権となり、再び米国へ渡りました。その日の「テロは世界を変えたか」欄には、「他者の悲しみへの理解を」という副題が付けられておりました。
 彼は「あの9月11日に、ニューヨークの現場で『米国は世界に尽くしているのに、なぜこんな仕打ちを受けるの』と泣き叫んだ女性の声が耳に残っている」と書きつつ、同時に「米国が嫌われる理由は、まさにその疑問の中にある」と続けます。「米国が何をしてきたかを、彼女は知らないのだ。チリの人々に聞いてほしい。米国はチリに干渉し、ピノチェトのクーデターを助け、選挙で民主的に選ばれたアジェンデ大統領を倒させた。ピノチェトは、合法的にはできないことを暴力でやったテロリストだった。米国はテロと戦うというが、ニカラグアでテロリストを武装させ、エルサルバドルのテロリスト政府を助けたのも米国だ。強者は忘れるが、敗者は忘れない」。
 このことは、ラテンアメリカの歴史を少しでも知っている者には、誰にでもわかることです。米国はラテンアメリカの共産主義化を恐れて、ラテンアメリカ各国の極右政権、軍事政権を軍事的にも経済的にも最大限に援助してきました。その軍事政権がやってきたことというのは、まさに国家テロに他なりませんでした。アメリカ合衆国は、しきりに「テロもテロ支援国家も許さない」とうたい、アフガニスタンの次に、イラクを攻撃しようとしていますが、ラテンアメリカの民衆にとっては、テロ支援国家というのはアメリカ合衆国に他ならなかったわけです。私は7年間ほどブラジルに宣教師として住んでいましたが、つくづくそのことを思います。

(6)他者の悲しみを理解する

 このアリエル・ドーフマンは、二つの「9月11日」ということを語っています。一つはもちろん昨年の「9月11日」ですが、もう一つの「9月11日」とは、今から29年前、1973年の9月11日のことです。それは、先ほど述べました、チリで公式に選挙で選ばれた民主政権であったアジェンデ政権に対する軍事クーデターが起きた日でありました。その後、ピノチェト軍事政権によって愛する人を失い、行方不明にされ、数十万人が拷問されたのでした。そのことを、チリの人々は決して忘れません。しかしこの9月11日は世界を変えませんでした。ルワンダで数十万人が殺されても、世界は変わらなかったのです。昨年の9月11日は世界最強の国(アメリカ)に恐怖を与え、暴力と報復を誘い込むことで世界史が変わったのだ、とドーフマン氏はつけ加えています。
 そしてドーフマン氏は、こう語ります。「ニューヨークで行方不明になったままの家族の写真を胸に掲げて歩く人々がいた。(それは)チリで、軍事政権に連れ去られたままの家族の写真を掲げて歩く女性たちと同じ光景であった。米国ではそんなことが起こるはずがなかった。いま米国の悲しみに世界は同情し、共感している。だからこそ、他にも数多くの9月11日が存在していること、世界には他にも多くの悲劇があることをわかって欲しいのだ」。
 「他者の悲しみを理解する」。これはとても大切なことであります。私たちは自分に悲しみが降りかかるときに、その悲しみはどんな人にとっても同じものであることを理解しなければならない。私たちに悲しい出来事が降りかかるときに、それを起こしたかも知れない人間を憎むよりも前に、それがもしか他の人に降りかかったら、どうなるかということを重ね合わせてみる想像力を養わなければならない。今、私たちがその悲しみを経験していないならば、自分の愛する人が奪い去られたら、一体どうなるなのかと、本気で想像してみなければならないのだと思います。
 イエス・キリストは、とりわけ他者の悲しみに敏感な方でありました。コンパッションという言葉があります。通常「同情」と訳されることが多いのですが、それだけでは入りきらない深い意味をもった言葉です。言葉の成り立ちから言えば、「苦しみを共にする」ということです。私はどちらかと言えば、「愛情」あるいは単純に「愛」という日本語の方があうのではないかと思っております。聖書で言うところの「愛」というのは、このコンパッションにかなり近い意味です。イエス・キリストはこのコンパッションに満ちあふれたお方でありましたし、イエス・キリストの存在そのものが神のコンパッションの証でありました。「他者の悲しみを理解する」という時、私たちにはそのような大きな模範が与えられていることを思います。そのようなことを深く心に留めつつ、私たちは「暴力」という誘惑に負けずに、「暴力克服の10年」の三年目を迎えたいと思います。