わたしをおいて神はない

イザヤ書44章6〜8節
ガラテヤ書4章811節
2003年3月8日
聖学院大学助教授   菊地 順先生


(1)唯一神への信仰

 主なる神は、第二イザヤを通して、「わたしをおいて神はない」と大胆に語られました。そして、この言葉こそ、唯一神を告白する言葉として、人類の歴史に永遠の精神的支柱を打ちたてることになったのです。
 ところで、この言葉が生まれてきた背景には、壮絶な信仰の戦いがありました。このときイスラエルの民はバビロニアとの戦いに敗れ、その地に捕囚として連れて行かれていました。しかもそのことは、イスラエルの民が負けたというだけではなく、イスラエルを支配される神が負けたということもあったのです。しかし、そうした困難な中で、イスラエルの民は、ヤハウェへの信仰を堅持しただけではなく、さらに一歩進んで、ヤハウェこそ唯一の神であるとの信仰に至ったのです。その大きな理由の一つは、イエスエルの民が、というよりも預言者が、真実の神と偶像とをはっきりと見分けることができたからなのです。第二イザヤは、46章の初めに記されているように、偶像の最も偶像たるゆえんとして、偶像には如何なる救済の力もないということを見て取ったのです。それに対して、イスラエルの神ヤハウェは、イスラエルの滅亡のただ中においてもイスラエルを担い、捕囚という苦境のどん底においてもこの民を支え、そして最後には救済の力を発揮される方であることを見て取ったのです。46章の3節と4節に記されているように、真実の神は、生涯にわたってわたしたちを担い、背負い、そして苦境の中から救い出してくださるのです。そうした神こそ、活ける真の神であることを、第二イザヤははっきりと見たのです。

(2)隠れたる神

 ところで、この神の救済において重要なことは、神はしばしば人間を裸にし、無力さの中に置かれるということです。なぜなら、そのことを通して、御自身こそ救い主であることを告げ知らせるためなのです。しかしそれは、人間の側から見れば、あたかも神が存在しないかのような状況でしかなかったのです。しかし、このような状況を第二イザヤは、「まことにあなたは御自身を隠される神」(45:15)であると語っています。すなわち、神がおられないのではなく、人々に決定的な救いをもたらし、ご自身こそ救い主であることを告げ知らせるために、神は御自分を隠しておられるだけである、そして神が隠れているような暗闇こそ、実は神御自身が備えられたものだと言うのです。
 「御自身を隠される神」という表現は、聖書の中でもここにしか出てきませんが、キリスト教の歴史の中で、この言葉に非常な関心を寄せた人がいました。それは、宗教改革者のマルティン・ルターです。ルターは、この言葉に深く捉われ、そして「隠れたる神」という大変有名な言葉を語るようになりました。おそらくそこには、ルター自身が経験した同じような体験があったのではないかと思います。ルターもまた深い闇の中で「わたしをおいて神はない」との主の御声を聞いたのです。そうであるならば、わたしたちは恐れることなく、大胆に、この神に信頼していく者とならなければならないのではないでしょうか。そしてそのとき、わたしたちは主の証人とされていくのです。

(3)主の証人として生きる

 今日の聖書の箇所で、第二イザヤは、「あなたたちはわたしの証人ではないか」と語っています。全くの無力の中から、神の贖いの救いを経験するとき、わたしたちは神の証人とされていくのです。そして神は、わたしたち一人一人がその証人となることを望んでおられるのです。わたしの同僚にアメリカ人の宣教師がいますが、この人から最近大変興味深い話を聞きました。それは、ドイツのある教会の話です。その教会には、その庭にイエス・キリストの象が立っているそうですが、第二次世界大戦のとき爆撃を受け、その手の部分が破壊されてしまったそうです。しかし、その教会は、戦争が終わってからもそれを修復しようとはせず、ただその下に短い言葉を記したプレートを付けたというのです。そして、そのプレートには、次の言葉が記されているとのことです。それは、"Jesus has no hands, without yours"という言葉です。直訳すれば、「イエスは手を持っておられない、あなたの手を除けば」となります。すなわち、主イエスは、御自身の手をお持ちにならないのです。見える仕方では、お持ちにならないのです。しかし、主は、あなたの手をお持ちなのです。あなたの手を用いて、その御業をなさるのです。そして、わたしたちの手だけではなく、目も、耳も、口も、その存在のすべてを用いて、主はご自分の御栄光を現されるのです。そのような器として、神はわたしたちを用いようとされているのです。そしてそのとき、わたしたちは神の証人とされていくのです。

(4)主の十字架を見上げて

 ところで、わたしたちの最大の苦境とは何でしょうか。それは、突き詰めて言えば、罪の現実ではないでしょうか。ただ神がわたしたちを闇の中に置かれるというだけではなく、実は、そこには人間が自ら招いた罪の闇があるのです。しかし、幸いなことに、その最も無力を感じ、絶望へと突き落とされるところで、神はその独り子を十字架に掛けられ、わたしたちの贖いとなってくださったのです。ですから、わたしたちは、何よりも主の十字架において、「わたしをおいて神はない」との神の御声を聞くのです。ガラテヤの諸教会のように、偶像崇拝へと逆戻りしてはならないのです。主の十字架の死と復活において、真の神を見上げ、「わたしこそ神である」との御声を聞き続けなければならないのです。そして、この御声を聞くとき、わたしたちは真実の神の証人とされ、神の御前に力強く歩む者とされていくのです。


(菊地順先生は、東北大学人文学部、同大学院で学ばれた後、東京神学大学で牧師になる研鑚をされました。さらに米国エモリー大学でも学ばれました(Th.D.)。現在は聖学院大学人文学部助教授、緑聖教会協力牧師です。
松本牧師、一色牧師とは、東京神学大学におけるクラスメートです。)