「開かれた教会」

詩編22編23〜32節
マタイ福音書5章13〜16節
2003年4月6日
経堂緑岡教会   牧師 松本 敏之


(1)年間標語

 今年度、私たちは「開かれた教会」という年間標語を掲げました。この言葉を標語にしましたのには、幾つかの理由があります。第一はホームページの開設ということです。数年前から教会のホームページ開設に向けて準備をしてまいりましたが、どうやら今年度中にそれが実現しそうであります。
 第二の理由は、電車から見える看板の取り付けを検討していることです。「看板によってはかえって教会の品位が落ちる」「環境問題も考えなければならない」という意見もありますので、慎重に検討しなければなりませんが、やはり看板を取り付けることは経堂緑岡教会が小田急線沿線の方々に開かれた教会となる、ひとつのきっかけになるのではないかと思っています。
 しかしながらホームページを開設し、教会に看板をつければ、それで開かれた教会になれるのかと言うと、決してそうではありません。何よりもまず、私たち自身が開かれていなければ、どんなに外面的に開いていくことを整えていっても開かれた教会にはならないでしょう。

(2)あかっている

 このことを考えるに際して、私は、昨年特別伝道礼拝に来られた小山晃佑先生の言葉を思い起こすのです。

「教会には十字架があります。これはキリスト教の中心になるシンボルです。これはあかっている姿です。こんなにして良いのかと思われるほどあかっているのです」。

 小山先生はもう日本を離れて50年になられるので、時々変な日本語を使われます。この「あかっている」という言葉も辞書にはありません。「開いている。開かれている」というような意味でしょう。しかしながら独特の味わいがあると思いました。イエス・キリストの十字架の姿は、まさにそのように開けっぴろげです。この人に向かっては開き、あの人に向かっては閉じる、というようなことではありません。イエス様は誰か特定の人、例えばクリスチャンのためだけに死なれたのではないのです。イエス・キリストの手はすべての人に対してあかっており、イエス・キリストはすべての人のために死なれました。
 「開かれた教会」ということを考える時に、私たちは何よりもまずイエス・キリストご自身が、ご自分を開けっぴろげに開かれたお方であった、ということを心に留めなければならないと思います。イエス・キリストがいっぱい手を広げておられるのに、それを宣教する教会が、自分の好みや都合でそれを狭めてしまってはならないでありましょう。私たちの目から見て、教会とは場違いに思えるような人が教会に来るようになるとすれば、それは一歩イエス様に近づいたしるしであるかも知れません。イエス様のまわりには、どうも場違いに思えるような人たちがたくさん集まっていたからです。イエス様が大きくあかっておられたように、私たちの教会も、本当の意味で、深い意味で、「開かれた教会」になりたいと思います。

(3)伝道と礼拝

 さてこの教会標語にあわせて、旧約聖書と新約聖書から二つの聖句を選びました。まず旧約聖書からは、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」という聖句です(詩編22:23)。ここには「御名を語り伝えること」「主を賛美すること」という二つのことが語られています。これを私たちに馴染みのある言葉で言えば、「伝道と礼拝」ということになるでしょうか。
 教会が開かれた教会であるために、ただ開いて待っているだけではなく、やはり積極的に伝道する教会でなければならないと思います。この言葉は旧約聖書ですが、御名と言えば、私たちにとっては、やはりイエス・キリストの御名でしょう。御名を語り伝えるということは、ただ単にイエス様の名前の宣伝をすることではありません。「イエス・キリストが一体どういうお方であり、何をしてくださったか」という中身がかかわってきます。伝道というのは、社会の事柄に遊離して成り立つものではありません。むしろ今社会で起きていることに即して、「イエス様ならきっとこうなさったであろう」ということを示すのです。そこでは私たち一人一人の実存がかかってきます。「私」を抜きにした伝道というのはありえません。
 もう一つは「礼拝を大切にする」ということです。伝道する教会であるためには、礼拝を大切にする教会でなければなりません。伝道と礼拝というのは、反対の方向性をもったものですが、一体です。礼拝は内に向かうものであり、伝道は外へ向かいます。礼拝は求心的であり、伝道は遠心的です。しかしこの両方が必要なのです。礼拝で私たち自身がしっかりと信仰的に養われることによって、初めて伝道する活力を与えられますし、また伝道そのものが礼拝への招きになるのです。この二つがしっかりと結びつき、バランスよくなされるのが健全な教会であると思います。

(4)世の光であること

 新約聖書からは、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ5:16)という聖句を選びました。この聖句は、私たちをどきっとさせます。「私たち自身が光であるように思うのは傲慢だ。本当の光はイエス様ご自身だ。」確かにその通りでしょう。イエス様ご自身も「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言われました。しかしそのことを十分にわきまえながら、今年度は、主イエスが「あなたがたは世の光である」と言われたことに注目したいのです。もちろんこれは、イエス・キリストが「世の光」であるというのとは、随分次元が違うでありましょう。質的にも違うでしょう。しかしそれをご承知の上で、イエス・キリストは「あなたがたは世の光である」と言われたのだと思います。

「ともし火をともして、升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中もすべてを照らすのである。そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:15〜16)。

 ここには幾つか示唆的な言葉があります。それは「あなたがたの光」というのは太陽のような光ではなくて、ともし火程度のものであること、そしてそれを輝かせる目的は、私たち自身があがめられる(尊敬される)ためではないということです。その「立派な行い」によって、「天の父があがめられるようになるため」だというのです。そこにこそ「あなたがたは世の光である」と言われることの真の意味があるのです。

(5)地の塩との関係

 私は「あなたがたは世の光である」という言葉が「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)という言葉と対比的に使われていることは、興味深いことであると思います。「塩」は目立たないところでこそ真価を発揮しますが、「光」は目立たなければ意味がありません。
 この地の塩と世の光は補完関係にあり、両方の言葉がそれぞれに都合良く解釈されるのを防いでいるのではないでしょうか。ある人が、「地の塩でありたいと思う者は、『あなたがたは世の光である』という言葉を聞かなければならない。世の光でありたいと思う者は、『あなたがたは地の塩である』という言葉を聞かなければならない」と言いました。なるほどと思います。私たちが目立ちたくない、隠れていたい、と思う時にこそ、世の光として召されているのだということを聞かなければならない。私たち自身が輝きたい、尊敬を受けたいという思う時にこそ、私たち自身ではなく、天の父があがめられるためなのだということを知らなければならないということです。
 この新しい年度、イエス・キリストの光を全身に浴びつつ、「ここにイエス・キリストの教会あり」と、喜んで宣べ伝え、開かれた教会形成をしていきたいと思います。