あなたはどこに立つのか

創世記 3章8節〜9節
エフェソ 2章14節〜22節
2003年6月29日 特別伝道礼拝説教
東洋英和女学院院長   船本 弘毅 先生


(1)はじめに

 2年前に起きた大阪教育大学付属池田小学校の児童殺傷事件は、8人の児童が亡くなり、15人が傷つくといういたましい事件でした。数年前迄わたしの住んでいた宝塚の家とは近く、わたしにとっては、極めて身近かな事件でした。6月26日にこの裁判の最終弁論が行なわれました。宅間守被告からは一切謝罪のことばがなかったと新聞は報じました。死刑の求刑を受けながら、「死ぬことは、全くびびっていません。幼稚園ならもっと殺せたと今でも考えてしまう」と述べたそうです。
 恐ろしい言葉です。わたしたちの住む社会は暗く、その暗さは年毎に深まり、光が見えて来ないと言えるかも知れません。こうした状況の中で、わたしたちはどこに立つのかということを、今朝は御一緒に考えてみたいと思います。

(2)どこにいるのか

 先程読んで頂いた創世記の個所は大変有名です。神によって創造された男と女、アダムとエバはエデンの園で何不自由なく生活していました。しかし蛇(サタン)の巧みな誘惑に乗せられ先づエバが、次いでアダムが、神から食べてはいけないと言われていた園の中央に生えている木の実を取って食べて罪を犯したというのです。
 創世記は今から2500年程前に完成したと思われますが、古い資料は3000年前には書かれていたと言われています。そんな昔の古文書でありながら、今生きるわたしたちに生き生きと迫って来る名文で、心を打たれます。
 蛇は女に言いました。

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善恵を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(3章4〜5節)

 その木はおいしそうで、賢くなるように唆していたので女は取って食べ、男も同様にしたのですが、神の命令にそむいて罪を犯した時、彼らはお互いを見ることを恥じ、また神の目を避ける者となりました。
 そのアダムとエバに、神は「どこにいるのか」と呼びかけられたというのです。「どこにいるのか」、何気ない問いのようでもあります。しかしこれは厳しい重い問いです。そしてわたしたちも常に問われている問いです。あなたは何を基盤として生きているのか。何を大切に、何のために生きているのか。わたしたちは「問われている存在」であります。

(3)責任をもって生きる

 ハーヴィ・コックスというアメリカの神学者がいます。『世俗都市』という書物で有名になった学者ですが、その著作の前後にコックスが書いた論文をまとめた書物を1969年に翻訳出版したことがあります。日本訳の題は『世俗化時代の人間』としましたが、原題は "On Not Leaving It to the Snake"で直訳すると「蛇の言いなりになってはいけない」ということです。すなわちコックスは、禁断の実を食べたということの前に、神の命令に従うか否かを自分の責任で決断せずに、蛇の言いなりになったところに先づ人間の罪が始まると主張するのです。ですからこの後、何故言いつけに背いたのかと神から問われると、アダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにして、自分の責任を他に転嫁しているのです。コックスは責任を他者に転じて自分で取ろうとしない所に、そもそも人間の罪があるという大切な問題提起をしているのです。
 安藤忠雄という大阪出身の建築家がいますが、朝日の日曜版に4回連載した「仕事について」というエッセーの中で、判断を人に依存するなと述べていたのが印象に残りました。彼はこう書いています。「若いうちは迷うものなのです。大切なのは進路や自分の将来で迷っても、人に判断を頼らないで苦しくても自分で考えぬくこと。人が指し示した方向へ何となく歩いて行ってもワクワクする日々は訪れない。」このことは、今わたしたちの間に欠けていることではないでしょうか。

(4)キリストの上に

 今日読んで頂いたもう一つの聖書エフェソの信徒への手紙2章14節以下に注目しましょう。パウロはここで、キリストの十字架により、ユダヤ人も異邦人も一つにされ、共に生きるものとされたと語ります。聖書に出て来る「異邦人」は外国人ではなく、神に選ばれたイスラエル人に対し、「神なき民」という宗教的意味の用語です。しかしそれに対しパウロは、キリストの十字架によって異邦人もイスラエルの民と同じになったのではなく、異邦の民もイスラエルの民も共に神から離れた存在であったが、イエス・キリストのゆえに救われて一つにされたと言うのです。イスラエルの民は家畜と共に、水と草を求めてさまよい歩く放浪の生活をしていました。この生活は外面のことに留まらず、その内面生活においても同じことだったのではないでしょうか。土台のない、よるべもない寄留者のような生活をしていたのです。そのような者が、キリストによって一つにされ、使徒や預言者という土台の上に建てられる者となった。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身だと言うのです。
 イエスのたとえ話のうちで最も良く知られているものの一つは「ほうとう息子」のたとえでしょう。町に出た弟は、ほうとうに身をもちくずして財産も無くし、食べることにも窮し始めます。死に直面する限界状況の中で、彼は父の家を思い出します。父から離れた所、すなわち神なき所に自由を求めたことが根源的な誤りであったことに気付いた弟は、父の家すなわち神との正しい関係にもどろうとします。彼は帰り行くべき原点を見出したのでした。帰りゆく原点を持つこと、土台を持つことは、何物にも勝る確かなことであり、幸せなことです。
 信仰とは、あなたが神によって受け入れられているという恵みの事実を、受け入れることだと言った神学者がいます。わたしは信仰とは、自分のよって立つ土台の上に生きることだと思っています。少しぐらい金があっても、少しぐらい地位があっても、少しぐらい有名であったとしても、危機の中でわたしたちを支えてくれる力にはなりません。しかしイエス・キリストの十字架によって示された神の愛は、どんな時でもわたしたちを支え、励まし、生かす力です。
 マザー・テレサの『祈り』という書物の中に、次のような祈りが記されています。

苦悩の中にある時
孤独な時
問題を抱えている時
この事を思い出してくださると励まされます
忘れないで下さい
あなたは神の手の中にいるということを
そしてあなたが苦悩の中で
最も苦しんでいるまさにその時
神のまなざしがあなたに注がれていることを

 わたしたちは問われている存在だと申しました。「どこにいるのか」「あなたはどこに立つのか」とわたしたちはいつも問われている存在です。しかしこの問いがわたしたちに向けられる時、あなたのいる場所はすでに神によって備えられていると聖書は、わたしたちに告げているのです。ですから、厳しい主の問いは、同時に、温かい主の招きの言葉でもあるのです。
 時代はゆれ動いています。思いがけない事件がわたしたちを暗い気持にします。しかし十字架の主がわたしたちを受け入れて下さっているのです。この主に信頼し、支えられて生きる者でありたいと思います。