恐れるな 小さい群れよ

申命記7章6〜8節
ルカによる福音書12章22〜34節
(引用聖句は口語訳)
森野 善右衛門先生


 今日とり上げる聖書の個所は、マタイ福音書にも平行記事があり(マタイ6章25〜34節、19〜21節)「山上の説教」(マタイ5〜7章)の一部分に入っています。しかしルカでは、イエスがガリラヤを離れてエルサレムに向かう旅の途上でのこととされ、32〜33節はルカ特有の句です。ここにルカの伝えようとしたイエスの福音のメッセージの核心が示されていると思われるので、今日はこの個所を中心に、主の御言葉に聴きましょう。

 ここで四回繰り返される「思いわずらうな」(思い悩むな)という言葉は、思いわずらうことなしには生きられないわたしたちの生の現実をうつし出しています。この前に記されている愚かな金持のたとえ話(13〜21節)もこの「思いわずらい」に関係がある話です。
 この金持の思いわずらいは、将来の生活の確保にあり、そのために彼は新しい倉を建て、そこに長年分の食糧を貯えて、「さあ、これで安心だ」と自分に言い聞かせる。しかしそこに神の使いが現れて、「あなたの魂は今夜のうちにも取り去られる。そうしたら、将来のために備えて用意した物は、だれのものになるのか」と告げます。「思いわずらいが富(宝)を生むが、その富(宝)がまた新しい思いわずらいをつくりだすのである」とボンヘッファーが『キリストに従う』という本の中で言っている通りです。

 「備えあれば憂いなし」と言われますが、しかし「備えあれば憂いも多い」(朝永振一郎)とも言えるのです。問題は、何が将来のための真の備えであるのか、ということです。それは「有事」をつくらないこと、お互いの間に真の信頼関係をつくり上げること、それこそが最良の備えではないでしょうか。
 思いわずらいは、多くのことに気をつかって、心が分裂することによって起こります。主イエスは、マルタに向かって、「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている」(ルカ10章41節)と言われています。自信過剰と自信喪失は、同じメダルの表と裏の関係にあります。「がんばれ」と励ますだけでなく、心の重荷を取り除いて安心感を与えることが大切です。
 ここで「野の花」「空のからす」が、人間の前に教師として登場します。花(百合ではなく、アザミかアネモネ)や烏(からす)のようなつまらない、価値がないと思われるものの上にも、神の配慮が注がれている!だから、人間は思いわずらう必要はないのだ、と主イエスは言われるのです。

 「ただ、御国(神の国)を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう」(31節)

 ここで問題とされているのは、求めるものの優先順位です。自分の都合や持ち物のことを第一とするのではなく、神の招きと求めに応じることを先にすべきです。なぜなら、「人のいのちは、持ち物にはよらない」(12章15節)からです。
 この世の多くの人は、見えないものはないのだ、と考えています。しかし「いのち」は見えないけれども存在している。この見えないいのちのたいせつさが、失われ、軽んじられているところに、昨今のいろいろな社会的事件の根原があるように思われるのです。

「見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ」(金子みすヾ)。
 「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。自分の持ち物を売って、施しなさい。」(32〜33節)

 「小さい群れ」―それは、当時のイエスの弟子たちのグループ(教会)をさしていることは明らかです。彼らはローマ帝国の支配する世にあって、文字通り一粒のからし種のような、無力で少数の群れでした。しかし「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」(ルカ9章48節)とイエスは言われる。ここに、世界を革新する福音のメッセージが示されています。