平和のあいさつ

マタイによる福音書10章1〜15節
2003年8月3日 (平和聖日礼拝説教)
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


 イエス・キリストは以下の12人を弟子として召し集め、派遣されました。

「まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである」(2〜3節)。

 何でもない名前の羅列のようですが、よく見ると興味深いリストです。おなじみのペトロやアンデレ、ヨハネやトマスの名に並んで、後にイエス・キリストを売り渡してしまうイスカリオテのユダの名前もあります。
 ここに二人だけ肩書きが記された人がいます。徴税人マタイと熱心党のシモンです。徴税人と熱心党員というのは、実は全く相容れない水と油のような存在でした。
 徴税人は、ユダヤを占領していたローマ帝国に納める税金を徴収し、しかもローマの権力を背に、自分の取り分を上乗せして、何倍ものお金を巻き上げていました。一方、熱心党というのは、ローマ帝国の支配に対して、武力を持ってしてでも対抗し、いつかローマの権力を追い出してやる、と意気込んでいたグループです。超愛国主義者だと言ってもいいでしょう。熱心党の人々にとって、徴税人は憎きローマにこびへつらう絶対に許せない存在でした。
 しかしながら、イエス・キリストはここで、そのような超愛国主義者と、いわば国を売って生きているような人間をひとつのサークルの中に召されたのです。これは常識では考えられないことでしょう。私は、このイエス・キリストの弟子選びそのものが、すでに和解の福音、平和の福音を語っていると思うのです。
 しかもイエス・キリストは、ここで安易で無責任な仲介をしようとされたのではありません。まさにご自分の痛み、犠牲の上にそれをなそうとしておられるということを忘れてはならないでしょう。イスカリオテのユダまでも弟子として召されたということそのものが、それを証ししていると思います。

「実にキリストは、私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊……されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2章14〜16節)。

 違った者、敵対している者が、共にイエス・キリストの弟子として生きる。これは悔い改めを必要とすることです。主イエスは、まずご自分の弟子集団においてそれを実現し、さらにその集団を用いて、和解と平和の福音を広げていかれたのでした。

 主イエスは、弟子たちを派遣されるにあたって、「誰かの家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。もしも相手がそれを受けるにふさわしければ、その平和は彼らに与えられるし、ふさわしくなければ、その平和はこちらに返ってくる」と言われました(12〜13節)
 報復が報復を呼び、一層頑なになって、争いがエスカレートしている今日の世界にあって、とにかくどんな相手に対しても平和のあいさつをもって臨む、ということは、とても大事なことであるように思います。
 私たちもこのようにイエス・キリストの弟子として和解へと召され、平和の福音をたずさえて派遣されていることを覚えたいと思います。