喜びの日々へ

詩編第100編
ヨハネ福音書第3章16節
2004年3月21日(音楽礼拝)
説教とチェロ演奏 むさし小山教会牧師 井上とも子先生
ピアノ伴奏           朝川 万里姉

(1)愛の挨拶

 私は普段、チェロの演奏家として、様々なジャンルの演奏活動をさせていただいておりますが、今日のように礼拝において、自分に与えられた楽器の音色を通して、神様に向かって心いっぱいの賛美を捧げられること、そして神様に導かれて歩むことの喜びを、皆様にお証しできることが、何よりもの幸せであると感じております。まず一曲、賛美させていただきます。エルガー作曲の「愛の挨拶」。音楽をもって、神様と皆様に御挨拶をしたいと思います。

(2)黄金のエルサレム

 次に、ユダヤ民謡の「黄金のエルサレム」という曲を演奏いたします。この歌はユダヤでは知らない人はいないほど、民族を代表する愛唱歌です。故郷エルサレムに対する切々とした望郷の念が歌われています。
 エルサレムは、私たちキリスト者にとりましては、イエス・キリストがすべての人間の罪を贖うために十字架にかかられた場所、救いの拠り所、信仰の出発点となった場所でもあります。私たちは、何の取り繕いもなく、安心して過ごした幼い日の自分からいつしか遠く離れてしまい、帰りたくてもなかなか戻れない故郷に思いを寄せるものです。そこへ帰れば、ありのままの自分を受け入れてもらえる。本来の自分を取り戻せる。魂の故郷、エルサレムに帰りたい、帰りたい、という人間の深い心の叫びが表わされた曲です。

(3)無条件で受け入れられる

 私たちが、自分自身を受け入れて生きるということは、当たり前のことのようであって、なかなかできることではありません。親から愛されること、それも何か条件つきで、良い子にならなくては愛してもらえないというのではなく、あるがまま無条件に、その子の全存在がまるごと受け入れられるという、生まれて最初の経験が、私たち人間の健全な人格形成の必要不可欠な第一歩であるということは、今更申すまでもありません。
 親の愛というのは、人間の様々な愛情の形の中では、一番「神の愛」に近いと言われております。親の愛ほど深く、献身的で、見返りを期待せず、しかも長い間変わらずに続く愛というものは、他に見当たりません。本当に海のように広く、深いものであります。ただしもちろん、「神の愛」と親の愛が同じであると言うのではありません。

(4)ぞうさんの歌

 子どもの頃によく歌った「ぞうさんの歌」、「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね。そうよ、かあさんも長いのよ」という歌を、皆様よくご存知のことと思います。私は、この歌は、ぞうさんの親子が、日溜りの中で仲良く並んで草を食べているような、ただただ平和でほのぼのとした様子を歌っているものだと、ずっと思っておりました。でも、この歌詞を書かれた詩人、まどみちおさんのお話では、そうではなく、よその人から悪口を言われた時の歌だというのです。「ぞうさんたら、ずいぶんお鼻が長いのね。」「みんなと違って、あなただけお鼻が長くて変ね」。でもその時、ぞうさんの子どもはこう答えました。「そうよ、かあさんも長いのよ」。けなされたのに、褒められたように喜んで、明るく答えたのです。みんなと違っても、「変なヤツ」と笑われても、ぞうさんの子どもは、大好きなお母さんと同じ長いお鼻が本当に嬉しく、喜んでいたのです。
 若い頃から熱心なクリスチャンであった、まどみちおさんは、「ぞうさんの歌」を通して、神様から与えられたそれぞれの個性、ありのままの自分を喜んで受け入れて、明るく胸をはって生きていくことの大切さを訴えているのではないでしょうか。

(5)神様に愛された存在

 私が私らしくあることを、喜んで受け入れて生きることができるのは、神様が、自分を、今あるように創ってくださったからであり、誰が何と言おうとも、まわりがどんな状況になろうとも、神様は、「これでいい」と、ありのままの私をかけがえのない宝物として愛してくださっているからです。神様は、その独り子イエス・キリストを十字架にかけてまで、取るに足りない私という一人の人間を愛し、救おうとしてくださいました。理想通りの生き方ができていなくても、自分が社会から、家族から必要とされない疎外感を味わったとしても、年をとって体も弱って、誰の役にも立てないばかりか、家族のお荷物になって、これ以上生きていく希望が持てないという状況に陥っても、神様の愛は変わりません。親も子どもも友だちも、皆いなくなっても、神様の愛だけは変わりません。自分で自分の命に価値があると思えなくなっても、それでも神様は片時も休むことなく私たちを愛し続け、「わたしの目には、あなたは何にも比べられないほど貴く、必要なのだ。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43・4参照)と言ってくださっている。聖書はこのように「神の愛」を伝えております。
 それほどまでに深く愛されているという自覚を得た時、私たちはどのような状況に置かれていても、その愛に応えて生きてみようという力が湧いてまいります。ひいては自分と同じように神様から愛されている他の人々のかけがえのない価値をも見出して、お互いに尊重しあい、受け入れあう人間関係を築いていく者とさせられるのです。
 私は音楽大学在学中に、この「神の愛」に出会いました。そして自分のありのままの存在を受け入れて、人との競争に明け暮れる焦り、不安、自己嫌悪の日々から、喜びと平安の日々へと変わることができました。幼い頃から勉強してきた音楽ですが、全く新しい音楽の意味と目的を得ました。この楽器を使って神様を賛美し、神様の愛を皆様と分かち合うこと、これに優る喜びはないと確信して、大学卒業と同時に神学校に入り、御言葉と音楽をもって神様を礼拝する、この道を歩ませて頂いております。

(6)ああ感謝せん

 次に、神様の愛に支えられ、導かれる人生に、心から感謝を捧げる歌を演奏いたします。ヘンデル作曲の「ああ感謝せん」という曲です。先程お読みいただきました詩編第100編のほか、いくつかの詩編を元にした、このような歌詞がついています。「ああ感謝せん、感謝せん。我が神、今日まで我を導きませり。」私の神様が今日まで私を導いてきてくださいました。感謝します、ありがとうと歌っている歌です。この曲はチェロの長い音符で始まり、その長い音が繰り返し何回も出てまいりますが、その音にはドイツ語で「ありがとう」という意味の「ダンク」という歌詞がついています。
 神様によってありのままの自分が愛され、どんな時も離れずに導かれていることを感じる時、言いようもない感謝と喜びが湧き上がってきて、喜びがもはや胸にしまいきれずに、歌になって溢れ出てきたような曲です。

(7)主の祈り

 最後に、祈りの時として、マロット作曲の「主の祈り」という曲を演奏いたします。新約聖書の中で、主イエスが弟子たちに「あなた方はこのように祈りなさい」と言って教えられた祈り、「天にまします我らの父よ」で始まる、この祈りの言葉に、そのまま音符がつけられた曲です。
 皆様お一人お一人のかけがえのない人生が、神様の愛によっていつも支えられ、平安と喜びのうちに有意義な毎日を送られますように、特に色々な心配事や、苦しみに悩み、疲れている方がおられますならば、神様の特別な慰めと導きがありますように、心からの祈りを込めて演奏いたします。