「努力・根性・忍耐はひと休み…がんばらないで」

コヘレトの言葉3章9〜15節
マタイによる福音書6章25〜34節
明治学院宗教センター長 金井 創先生

(1)前とはどちら?

 私は日常大学生と関わることが多いのですが、彼らと話していると時々このようなことを聞きます。大学生活を送る中で、いわゆる五月病に限らず、それまで順調だった歩みが行き詰まり、何をしていいのかわからなくなるときがあります。
 一歩も前へ進めず同じところをぐるぐる回っているような日々が続くときに、「ものごと悲観的に考えずに前向きに考えなさい」というようなアドバイスはつらいというのです。なぜなら今の自分にとって、そもそも前とはどちらなのかが分からないのですから。
 分からないままにとにかく「前」へ進まなければと、もがくのはつらいことです。

(2)立ち止まってみれば

 私も大学時代には同じような経験をしました。受験に合格することが目的でしたから、それを達成してしまうと何をしていいかわからなくなったのです。やっとするべきことを見つけるまで半年はかかったでしょうか。その間はほとんど大学にも行かない日が続きました。
 ところが、二つ目の大学である神学校に編入したときは、牧師になるという目的がはっきりしていましたから、立ち止まることもなくまっしぐらに卒業までこぎつけました。
 その当時は、やはり目的を持っているとこんなにも違うのだと思ったものです。
 しかし、牧師になってから気づきました。まっしぐらに走るような神学生時代、もしかするとすぐ足元にある大切なものに目もくれず前だけ向いていたのではないかと。
 どうしてこういうことを神学生時代にしっかり考えておかなかったのだろうということが、牧師になってから実に多くあることに気づかされたのです。
 目標に向かってひたすら進むというのは、勇ましいようですが、反面大切なものを見落とし、切り捨ててしまう危険もあります。
 人生の途上で立ち止まらざるをえないとき、実はそのようなときこそ今まで気づかずにいた大切なことを発見する機会ともなるのです。

(3)野の花に気づくこと

 イエスは言いました。野の花を見なさいと。イスラエル王国最高の繁栄をもたらしたソロモン王よりも、この小さな野の花のほうが美しく、素晴らしいと。
 これは徹底的な価値の逆転です。より強いもの、高いもの、前にあるものだけを求めていてはこのような花に気づくことはありません。弱いもの、低いもの、かたわらにあるもの、そこにも神はこんなにも心を込めて創造された素晴らしい価値が存在しています。
 前に進めずにもがくとき、それは実はそのような素晴らしいものとの出会いをもたらすときでもあるのです。進めないことを恐れることはありません。むしろ、そこに立ち止まり続ける勇気を持ちましょう。
 野の花をこの上なく装ってくださる神は、私たち一人一人をも心を込めて命あるものとして世に送り出してくださいました。その自分のかけがえのなさに気づくのも、そんなときなのではないでしょうか。

(4)戦争の後始末

 私の友人に榎本 恵さんという人がいます。彼は同志社大学の神学部を卒業しましたが牧師にはならずに平和のための活動を続けてきた人です。
 彼は十数年前、沖縄・伊江島の阿波根昌鴻という人物に惚れ込んで家族ごと伊江島に移り住みました。阿波根さんは沖縄のガンジーとも言われた人物で、米軍に取り上げられた農地を何十年もかかって徹底した非暴力運動によって、少しずつ取り戻してきた農民の指導者です。
 その阿波根さんのもとで平和運動をしたいと、榎本さんは沖縄に住むことにしたのです。阿波根さんは榎本さんを毎日外に連れ出して平和のための働きをしました。それを阿波根さんは「戦争の後始末」と呼んでいたそうです。
 実際に何をするかといえば、荒れた石ころだらけの土地に行って、土中の岩を掘り起こし、耕してそこに木の苗を植えていくというのです。毎日汗水たらして重労働をしながら榎本さんはこれのどこが平和運動なのかと思ったそうです。
 そんな単調な日が続いたとき、榎本さんはふと、今まで自分が地面に刺しただけの棒のようなものから小さな芽が出てきているのを発見します。それを見たときに彼は気づきました。戦争の後始末ということの意味が。
 戦争は大きな力をもって命を奪い尽くします。人間の命だけでなく、自然にあるもろもろの命をもです。しかも、その破壊する力は戦争が終わってもずっと続くのです。
 そのような戦争の後始末をするとは、小さな命を育てることなのだと気づきました。戦争が命を破壊するものならば、平和運動とは命を育み、命をいとおしむことです。
 この小さな命のしるしである芽を見てから、榎本さんは旅行かばんの奥底に放っておいた聖書を取り出して読み始めたといいます。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。……今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」
 かつて、何度も読み教会で聞かされたこの聖書の言葉が、今は自分に直接語りかけてくる神の言葉として迫ってきたというのです。平和のことや人権のことに目も向けない教会に幻滅して平和運動に従事するようになった榎本さんは、このときから再び聖書を読み直し、祈りと平和を結びつける働きを始めました。そして、数年前、彼は牧師になったのです。いま彼は牧師として精神科病棟で働きつつ、阿波根の遺志を継いで平和を実現するための様々な活動を意欲的に行なっています。

(5)止まるときこそ愛されるとき

 努力や根性、忍耐というとたいてい美徳としてあげられるものです。しかし、人はそうできないときがあります。それができないとき、その人はだめになってしまったのでしょうか。決してそんなことはありません。これ以上がんばれないとき、そのようなときこそ、神は人生においてもっと違う価値を私たちに発見させてくださるのです。
 私たちがだめになってしまったときも、神はこの上なく私たちを愛し続けてくださるのですから。