愛の挑戦と応答

〜教会全体修養会開会礼拝説教〜
ホセア書11章8〜11節
マタイによる福音書20章1〜16節
2004年7月18日
青山学院大学教授  東方敬信先生


(1)神の愛の出撃

 パレスチナ地方には、ぶどう畑が多く、収穫期になると、猫の手も借りたいほどになります。朝早くから、労働者を探しにかけずりまわる農園主、それは、秋の収穫期にはどこにでも見られる光景だったと思われます。「天の国は、次のように譬えられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った」。主人は毎朝早くに出かけていったのです。この譬えは、「天の国」のことを語っています。「天の国」というと、現実と関係ないように考えられますが、主イエスのたとえ話は、けっして、夢のような状景を描いているのではありません。天の国のたとえも、地上のことが書かれています。地上で、福音の喜びに目を開かれた人間が、いかに新しい生き方を始めるか、まさにそのことが書かれているのです。したがって、天の国とは、何かある静止した状態や悟りすました境地ではないのです。新しい価値観でダイナミックに生きていくことです。
 聖書は、朝早く夜明けに出かけていくと始めます。神の愛が最初に動き出す。もともと愛とは、じっとしていることができないものです。どうしても行動せずにはおれない。またどうしても語りかけずにはおれない、そういった性質をもっています。最初に記しているのは、神の愛の出撃であり、地上の世界への神の愛の攻撃であると、言えます。もともとヘブル語の「神の国」という言葉には、理想郷とか桃源郷を連想する場所的な意味ではなく、むしろ「神の支配」、神の働きをダイナミックにあらわす意味が強いのです。それは、神の愛に新しく目覚めた関係です。
 言葉をかえて言えば、神の働きかけとは、人生の価値とは何か、人間の生き甲斐とは何か、ということについて新鮮にチャレンジしてくる力です。そして、その神の愛の対象は、仕事もないままに市場でボンヤリ立っている人です。これは、人生に生き甲斐、価値を見出すことができないで悩んでいる人と言えます。この人生の無意味に悩む人と、そのような人を愛の対象とされる神、それに生き甲斐を与え、人生の意義と生きる喜びとを教え、神のぶどう園での働きを通して、新しい生き方をしめすのです。この生きた関係の中に、天の国が存在するのです。
 ここでは、労働者よりも先に農園主の方が朝から、労働者をもとめています。つまり、人生の価値は、私たちの側から始まらない。神が、人々のうごめいている市場に出てくる、そこから始まる。このことが大切です。神の愛が、この地上の舞台に出てくる。神の姿はイエス・キリストとして、地上を歩まれた。収税人、遊女、罪人の友として一緒に食卓につかれた。そこから始まる。主イエスは、わたしたちのような敗れた者のために十字架の上で命を投げ出された。そこから始まるのです。わたしたちがではなくて、神がまず私たちを愛し、御子を、私たちの罪のために犠牲の供え物として贈って下さつた。ここに、本当の愛がある。聖書のヨハネの手紙一の4章7節にはそう記されています。わたしたちの人生の価値は、この先手を打った神の愛の出撃に基づいている。これが聖書の世界にある神の愛です。

(2)忙しさの中で空しくないか

 これに対して、わたしたちはどのような姿でしょうか。3節「何もしないで広場に立っている」。これが今あるわたしたちの姿。神の愛の攻撃を受けたときの、私たちの姿です。あたかも大軍の総攻撃の前に、弾丸もなく、なすすべも知らない子供のように、ぼんやりしている。これが激動の中でもまれているわたしたち人間の姿です。わたしたちは、ボンヤリしているのでしょうか。いや反対に、わたしたちは忙しい毎日を送っていると言えるでしょう。職業人は職業人でそれほど意味があるとも思えない仕事の忙しさで追いまくられ、学生は、受験のために忙しいし、この社会の激しい競争の波にもまれ、モウレツに忙しい。私たちの姿は、見た目には、何もしないで広場に立っている人とは、正反対であるかもしれない。それにもかかわらず、聖書は、この神の攻撃の前に、私たちをあたかも何もしていないように譬えるのです。振りかえって、胸に手を当てて、考えてみたいと思います。わたしたちは、はたして本当に確かな永遠の価値のために忙しいのだろうか。それともただ空しい事のために忙しいだけなのであろうか。いまの時代は、ただみんなが忙しい。「忙」という字は「心を亡う」と書く。多忙ということが現代の特徴であるとすれば、それは同時に、わたしたちが本当の自分を見失っている姿であるとも言える。パスカルは、「永遠を思うことなしに、自己を深く考えることは人間には恐ろしい」と言いました。ただ自分の人生を忘れさせるための気晴らし。近代社会の入り口に立ったパスカルはそういいました。「王は、彼の気をまぎらわし、彼に自分を省みさせまいと専念する人びとに取り囲まれ、狩をしたり、政治をしたり、無駄な時間を浪費している」。
 ところが、永遠なる神は、まず主イエスを、先手をうって遣わされたのです。そして、主イエスの招きは、深い意味を持った人生に招くことです。しかし、それは、特別な仕事をやりがいとするのとは違います。一見して隣人愛の実践をしているという社会福祉の仕事とか、物に働きかけるのではなく人間の育成に関わる教師になるとか、そういった特殊な仕事にかかわることではない。そうではなくて、夕方の一時間しか働かなかった人物のように、週に一度、午前中一時間だけ、神様との出会いに集中して生きる生活であります。そこで主イエスの世界を思いみて、一週間の旅路に歩むのです。聖書の中にはわたしたち人間の本当の姿が描かれています。そこには、人生の破れが記されています。しかし、永遠なる神の愛による癒しがあります。わたしたちは、人間の破れを赤裸々に味わい、さらに本当の人間らしさを与えられて、それぞれの地上の歩みに遣わされるのです。つまり、神の愛の運動に私たちも巻き込まれて生きるのです。

(3)価値観の変革

 主イエスの譬えには一箇所だけ当時の価値観と非常に異なっているところがあります。それは、賃金の支払い方法が変わっていることです。初めから行った者も、後から行ってわずか一時間働いた者にも、同一賃金を支払うのです。そんな雇主があるだろうか。ふつうの世間の労働契約から見れば、これは不合理です。一体、この話しは何を語っているだろうか。この譬えによって、主イエスは、人問の「価値観の変革」を語っている。したがって、これは賃金の支払い方法について述べたものではありません。むしろ、わたしたちの生活を支えている考え方、何がすばらしいことであり、何が恥ずべきことであるか、この価値観の転換を語っている。神の愛の前で自分は神の評価に相応しいとだれが言えるでしょうか。駄目な人間だったのです。にもかかわらず、愛されたのです。感謝もひとしおなのです。だからこそ、そのときその時に溢れる応答が生まれるのです。
 この1デナリは、夕方行って、わずか一時間しか働かなかった者にも、同じように支払われる。これこそ、十字架の血の価、神の子の命を注がれた者の値を決める神の愛です。神の愛は、あなたの生を営業成績のように評価しないで、そのままで愛する目的とされる。その人生もまた、神の愛の対象、目標である。わたしたち人間の働きや価値から出発するとき、一日汗水たらし働いてきたのに、と不平不満も出てくる。ばからしいと思う。しかし、その時自分の命を投げ出す必要はないのにあえてわたしたちの罪を背負って十字架にご自分の命を投げ出された十字架の主イエスを思い起こすのです。これが神の愛の凱旋なのです。各自の人生の旅路において、主イエスとの出会いが心に刻まれるような仕方で、感謝が沸き起こってきます。何よりも、そのことによって、教会は力を与えられているのです。
 たとえ、日本で少数であっても、コンプレックスをもつことなく、一粒のカラシ種、地の塩、世の光としていきる志しをもって一つとなるなら、わたしたちの教会は大変力強いことになります。岩波文庫で、『植村正久文集』という小さな書物があります。富士見町教会の牧師で、また文筆活動もなし、多くの明治時代の文学者などにも影響を与えたキリスト者ですが、福沢諭吉の亡くなった記念の文章があります。そこでは福沢諭吉先生が独立自尊、常識に富み、時と勢いを察知する力にたけていたと尊敬の念を記しているのです。しかし、人間を超えたものに対する態度に欠けたる面がある、つまり、嵩敬の念の欠如、人間を超えて感嘆すべきものをもたない欠点は、いわば人間の乏しさがあると堂々と言っているのです。ここに、私たちは、一粒のカラシ種、地の塩、世の光としていきようとした日本のキリスト者の姿をみることができます。キリスト者であることを遠慮したり、キリスト者の用いるべき証しの生活や証しの言葉を避けたりするのでなく、むしろ堂々とその姿勢を示しています。この志しで一致するなら、心の教育が課題とされている時代に、新たな力となるでありましょう。


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