武力への信仰か、それとも、苦難の贖罪か

〜秋の特別礼拝〜
ペテロの手紙一2章21〜24節
2004年9月26日
経堂緑岡教会
木村 公一先生(日本バプテスト連盟福岡国際キリスト教会牧師)


(1)はじめに

 インドネシアの経験を踏まえて。2000年12月24日のクリスマス・イブの教会爆破事件で罪なき多くの人々が犠牲となって死に傷ついた。その事件に対し、ナハドゥラトゥール・ウラマ代表のワヒド氏の言葉「キリスト教徒に対するイスラム教徒の犯罪はイスラム教徒が償わねばならない」と発言し、翌年のクリスマス・イブにNUの青年部が教会の警備を担当してくれた出来事。

 わたしはアジア・バプテスト連合(ABF)の「アジア・バプテスト平和ネットワーク」の代表をしていました。2001年9月11日に起きた「同時多発テロ」事件の三日後に、アジア・バプテスト平和ネットワークは、この国際事件を法的手段で解決するよう要請する公開書簡をブッシュ大統領と小泉首相に送りました。そんな書簡を書いたからといって、ブッシュさんがそれを読むはずもないのですが。書簡を書いた訳は、ブッシュ大統領が「報復」という言葉を用いて、戦争を始めようとしていたからでした。その要点は次のようなものです。

「アメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュ氏、
日本国首相小泉純一郎氏
および、両国も民衆への申し入れ」

「......米国政府は近日中にも中東のある国に空爆を実行するであろうという情報が世界を駆け巡っています。軍事的暴虐と軍事的復讐の繰り返しは、文明の退行以外のなにものでもありません。軍事的復讐は正義と法への背信であり、人類の英知への裏切りです。諸大国の政府と国民は、今こそ世界に対して、平和の決意を提示すべきであります。他方、小泉純一郎首相が、この事件を政治的に利用することによって、日本を戦争のできる国(「有事法制化」)を仕立てることは、「国権の発動たる戦争を ...永久に放棄した」日本国憲法第9条を踏みにじる言動であり、取り返しのつかない道徳的過ちです。
 ここで、過去に学ぶことは有意義であると思います。太平洋戦争の末期、米国空軍機によって広島と長崎に投下された原子爆弾は、15万人の民間人を虐殺しました。犠牲者の多くは、老人、女性、子どもたちでした。この原爆投下は、日本軍が犯した「南京大虐殺」と同様に、米国による明らかな国家テロでした。ここで私たちが学ぶべきことがあります。それは、広島と長崎の人々が、その悲劇を、復讐へと増幅させず、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(日本国憲法前文)歴史です。 ......」

 世界のキリスト教は自らの生存をかけたラディカルな応答を迫られています。それは、私たちキリスト者の信仰が拠って立つ「贖罪信仰」を、現代に向けて、ラディカルに応答することではないでしょうか。
 贖罪信仰とは、人間実存の奥底に潜む深い罪の自覚と結びついています。それは、宗教史的には人間が神のみ前に犯す罪は、罪なき清いいけにえの供え物によってはじめて贖われるという、イスラエルの宗教思想から生まれた信仰です。新約聖書において、それは、神の御子イエス・キリストの一回限りの十字架の犠牲死であるとされています。イエスは罪なき犠牲として、十字架の拷問と犠牲の死へご自分を投げ与え、和解の業を成し遂げられました。教会が2千年間語り継いできたこの贖罪のメッセージは、今日の世界における≪罪なき人々の犠牲と苦難≫の贖罪的意味を明らかにするのです。
 使徒パウロはその問題をローマの信徒への手紙3章23〜24節で次のように語りました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵により無償で義とされるのです」。
 この贖罪信仰はキリスト教信仰が二千年にわたって保持し続けてきた奥義(mystery)です。この信仰が起こるところで、神と人、人と人との和解の実現を阻む罪の現実への深い洞察がなされ、悔い改めが起こるのです。それは徹底した倫理的・責任的決断においてこそ、示されるのです。
 もしそうだとすれば、この信仰は、「テロ」と報復戦争との犠牲となった幾千万の人々といかに関係するのでしょうか。それは世界に対する教会の務めと深く関連しているに違いありません。それだけではありません。この贖罪信仰のゆえに、無辜の民の犠牲死の中に、つまり、故なき死をとげた人々のなかに、今こそ私たちに徹底的な悔い改めを促す贖罪的な意味を見いだすべきではないでしょうか。

(2)新しい贖罪信仰

 わたしにこの視点を自覚するのを助けてくれたのは、マルティン・ルーサー・キング牧師の徹底した贖罪信仰でした。キング牧師は、1950年代から60年代末にかけて、米国の公民権運動を指導した霊的指導者でした。そして彼は、60年代後半にはベトナム反戦運動の闘いの中で暗殺されました。
 キング牧師の贖罪信仰の特徴を梶原寿(ひさし)氏は次のように述べています。「伝統的贖罪信仰を歴史的・社会的文脈の中で実践的に徹底・深化することを通して伝統的贖罪信仰の閉鎖性を突破したことにあります」。
  1963年8月28日のワシントン大行進における有名な演説 「わたしには夢がある」I Have a Dream の中で、キング牧師は、黒人たちの自由と人権のために闘う過程で受けた「自ら招かざる苦難」には、人を救う贖罪的な力があることを指摘しているのです。ここで言う、「自ら招かざる苦難」とは不条理の苦難、不当に受ける苦難です。この贖罪に関するキング牧師の理解には高度な倫理が含まれています。
 この贖罪についての理解は当時の一般的な白人教会の贖罪観と大きく異なっていました。どのように異なっていたかというと、当時の一般的な白人教会は、キリストの贖罪から普遍性を取り除いて、それを霊的な問題に限定することによって、世界の問題には関与すべきでないと説いていたのです。
 分かりやすく説明すると、次のような理解になります。キリストの贖罪は個人的な罪を対象としているのであって、国家が犯す罪や、社会制度が犯す罪については妥当しない、という考えです。たとえば、ある個人が人を憎んだり、嘘をついたり、他人に暴力をふるったり、人殺しをすれば罪になります。そういう罪についての贖罪がキリスト教の贖罪なのであって、国家権力の発動で戦争をして、爆弾やミサイルを使って人殺しをしても、それは罪にはならない。それはキリスト教の贖罪とは関係ない、この世の問題なのだと考えるのです。こういう理解を持っていた南部の白人教会にとって、人権や平和の問題は第二義的な務めか、教会とは何の関係もない問題であったからです。 わたしはこれを便宜上「閉ざされた贖罪信仰」と名づけておきます。
 キング牧師のこの説教は、右翼団体の復讐を呼び起こしました。この演説の二週間後、アラバマ州バーミンガムの「第16番通りバプテスト教会」が何者かによって爆破され、4人のいたいけな少女たちが殺されました。キング牧師はこの少女たちの告別式で遺族を前にして「アメリカの魂を贖うため」という有名な説教をしています。その説教でキング牧師は、犠牲死と苦難とを被った罪なき人々の犠牲がアメリカを贖うという真理を解き明かしたのです。すなわち、邪悪によって被った亀裂と損傷は、その犠牲となった者たちの傷によってしか癒されないのだ、という真理を静かに語ったのです。
 この五年後、今度は自らが暗殺の銃弾によって39歳の短い人生を閉じることになるのですが、キング牧師はそれをも「アメリカの魂を贖うため」の贖罪死として受けいれていました。教会の壁を突破して、社会的文脈の中で、「全世界に」開かれる贖罪信仰、それこそ、今、世界が最も真剣に受けとめねばならない緊急課題であるはずです。

(3)苦難の贖罪の力

 不信と恐れ、無知と偏見は全世界に深刻な亀裂や憎しみをもたらしています。人と人との関係(夫婦関係、親子関係)から社会集団と社会集団との関係、民族と民族の関係、宗教と宗教との関係は、いまや、信頼の危機を過ぎて、破壊へと向かっている様にすら見えます。
 一体、誰が、何が、この世界を破壊から救うのでしょうか。それは犠牲死と苦難とを被った罪なき人々の犠牲です。なぜなら、犯罪による亀裂と損傷は、その犠牲となった者たちの傷によってしか癒されないからです。その真実をペテロは「そのお受けになった傷によって、あなた方は癒されました」(第一ペテロ2:24)と証言しているのです。しかしながら、「閉ざされた贖罪論」は、癒すことのできるお方は、ただイエス・キリストのみである、と主張することによって、歴史的現実を自分たちの都合に合わせて飛び越えてしまうのです。この仮現主義(グノーシス)は「閉ざされた贖罪論」の独特の論理です。閉ざされた贖罪論は、第一ペテロ2章21節に記された重要な真理を忘却の彼方へと置き去りにするのです。
 第一ペテロは次のように教えています。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。「足跡に続くように」と召されているのは、すべての人々なのです。それはすべての人々のために「残した模範」です。ペテロは、贖罪の平和と和解の行動を教会に求めているのです。
 ここでペテロは、その人がイスラム教徒であろうとキリスト教徒であろうと、仏教徒であろうと、世俗主義者であろうと、そのような宗教や信条の違いを問題にしていません。そうではなく、わたしたちが多くの人々の和解として、歴史の苦難と犠牲を、イエスと共に負うのかどうかが問われているのです。
 ここで少し問題を整理しましょう。確かに私たち罪びとである人間は神の恵み無しに、救われません。しかしながら、神の恵みは私たちにイエス・キリストによる贖いを準備してくれました。その贖いとは「その足跡に続くようにと、模範を残された」贖罪でした。「閉ざされた贖罪信仰」はこれを無視するのです。無視するだけでなく、聖霊が今日、神の民を通して、世界の罪を贖い、癒そうとされていることを信じようとしないのです。
 25年前、ルービン・カーターという名のミドル級ボクサーが冤罪で終身刑を言い渡された。彼は服役中に、The Sixteen Roundという自伝を書きました。その自伝を読んだ人々が中心になって再審を求める運動が盛り上がったのですが、再度有罪が確定されて終身刑を言い渡されてしまうのです。それから、絶望の中にあったルービン・カーターに一条の光が射しはじめました。警察・検察側の人種偏見による経過が、裁判記録の徹底的な再審査によって露になり、さらに、冤罪を証明するほどの強力な新証拠が発見されたのです。裁判はルービン・カーターに無罪を確定しました。その時、記者会見に応じたルービン・カーターに記者たちは次のような質問しました。
 「カーターさん、あなたはこんな目に合わせた人々を恨んでいないのですか?」。ルービン・カーターは答えました。「私はこれまで何度も、そのように尋ねられたし、これからもきっと訊かされ続けるだろう。でも、すべては済んだことだ。確かに私には恨む権利がある。恨むことは容易いことだ。しかし、恨みに身を任せることは、私の22年を奪った連中に、さらに私の人生を蹂躙させることになる。わたしはそのような形で彼らの犯罪に荷担し、自らを貶めるわけにはいかないのだ。」
 罪なき人々の犠牲と苦難には、その悪に加担した者たちによってもたらされた亀裂と損傷に、癒しと裁きと和解をもたらす力があるのです。世界はいま武力の力を信じるのか、それとも苦難の贖罪の力を信じるのか、その決断を迫られているのです。

(4)むすび

 イエス・キリストにあって神は、神と人間との間に、わたしと私自身との間に、人と人との間に、民と民の和解の道をお創りになりました。世界はその恵みを知りませんが、教会はその恵みを知らされているだけでなく、その恵みと憐れみによって建てられ世界に派遣されています。
 和解を受けた人々の群れである教会は、この世界を神の恵みに相応しい形態へと変えていく奉仕(ディアコニア)の務めに召されているのです。奉仕(ディアコニア)の目的は、自由を奪われた人々の人生に尊厳を回復し、人間の歴史に正義と平和を取り戻し、共同社会から失われた法的秩序を回復することにあります。したがいまして、教会の奉仕(ディアコニア)の中には、国家や社会に構造的に働いている罪の現実と闘うことが含まれているのです。
 けれども教会は、それを単なる闘争とか裁きにおわらせず、和解をもたらす方向に向かわなければなりません。和解と裁きというふたつの福音があるのではありません。ひとつの福音が和解と裁きを告げているのです。D.ボンヘッファー牧師は語りました。「キリストのゆえに神の恵みによって義とされたのは、罪人パウロであり、罪人ルターであって、彼らの犯した罪ではなかった」(D.ボンヘッファー,111頁)。真の裁きは、平和と正義を回復させ、あらゆる罪の形態によって苦しめられている人々を解放し、神の国に向けた巡礼へと人々を招くである。Ω


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