民族の壁をこえて

イザヤ書11章6〜9節
マルコによる福音書7章24〜30節
2005年1月16日
ブラジル、デイ・サロン「シャローム」牧師 小井沼眞樹子先生


(1)はじめに

 私たちは1996年4月に松本敏之先生、かおりさんの後任の宣教師として教団から派遣されまして、この3月をもって丸9年になるところです。小井沼はサンパウロ福音教会の牧師を務め、私は教会を会場にお借りして、日系高齢者の方々にデイサービスを提供する奉仕をしております。
 ブラジルにいると言っても、普段の生活は「小日本にいる」という方があたっているかもしれません。教会のメンバーは昔の日本を思い出させてくださる折り目正しい日本人ですし、毎日、日本食を食べ、最近ではNHKの衛星放送がはいりますから、ニュースや天気予報や首都圏の道路交通情報まで見ているわけです。
 でも一歩教会から外へ出ますと、そこは人種のるつぼ多民族国家のブラジルです。肌の色、髪の毛、目の色、服装など実に様々な姿形の違う人々に出会います。文化的背景も経済的レベルも様々で、話される言葉はポルトガル語です。

(2)イエスと外国人女性との出会い

 そのように日本とはまったく異なる多民族国家の中で今日のマルコの記事を見てみますと、とても意味深い物語だという風に思います。イエス様と出会ったこのギリシャ人の女性はシリア・フェニキアの生まれということですから、ギリシャからの移住者の子であったといってよいでしょう。二世なのか三世なのかわかりませんが、人種も文化的背景も、言葉も宗教も異なる一人の外国人女性とユダヤ人のイエス様が出会って対話している場面です。
 彼女には「汚れた霊に取り付かれた」幼い娘がいました。たぶん貧しく困難な状況で他に行き場のないこの母親は、自分の娘を助けたい一心でイエスのところにやってきたのでしょう。そしてひれ伏し、「どうか娘から悪霊を追い出してください」と懇願します。
 この母親の行動は、ユダヤ教の戒律の中で生きている者では考えられないことでした。
 ユダヤ教のラビは女性と接触する事は禁じられており、普通女性の話を個人的に聴く事などありません。しかもこの女性は異邦人で、その上汚れた霊に憑かれている娘と接触しているので、自分もその汚れがうつっている状態です。つまり、三重にユダヤ教のタブーを犯して近づいているのです。この大胆な行動は、彼女が異教徒でユダヤ教の宗教的枠組の内側に生きていなかったからできた、あるいは異教徒だったことが幸いしたと言えるのではないでしょうか。もっともイエス様ご自身も、福音書のいたるところで女性たちと親しく交わり、従来の宗教的枠組みを覆す行動をされたラビでした。

(3)イエスの反応

 ところが、この女性に対するイエス様の言葉は大変冷たくそっけないものでした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(27節)。
 ユダヤ人は異邦人のことを「犬」と呼んで軽蔑していました。人間扱いしていない差別的態度です。しかし、イエス様はここで「小犬」と言っておられるので、「それほどあからさまにこの女性の事を軽蔑しているわけではない」と、少し肯定的な響きを感じ取る解釈もあるようです。ブラジルでも単語の語尾にインニョという音を付けると、形が小さいという意味になりますが、時にそれは、親しみや愛情表現としても使われることがあります。
 また、ユダヤ人の文化には犬などの小動物をペットとして住居に一緒に住まわせる生活習慣がなく、家の外にいる犬にパンを与える時にはパンを投げました。「やる」と訳されている動詞は、犬にパンを投げ与えるという荒っぽい感じがあるようです。イエス様もユダヤ人としての文化的背景の中で言葉を使っておられることが解ります。

(4)女性の返答

 ところが、ギリシャ人の文化では、犬を家の中に飼い、一緒に暮らして親しんでいたようなのです。イエス様の素っ気ない言葉に対して、この女性はすかさず「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパンくずはいただきます」(28節)と応答したのです。イエス様に小犬呼ばわりされてもひるまず、同じ言葉を使ってやり返しています。ここで異なる文化に属する者が出会っています。この女性にとっては、小犬が時には子供と同じ食卓の下にいて、おこぼれをもらって食べることは、ごく日常目にしている光景であったのです。
 また彼女が使った「小犬」「子供」「パン」という単語は、いずれもイエス様が使われた言葉そのままです。この二人がいったい何語で対話したのかはわかりませんが、もし、イエス様の使っておられたアラム語でやりとりしたとすると、この女性は言葉の不自由さを感じながら言い返したと想像させられます。イエス様の用いた単語をそのまま利用してたどたどしい口調で、自分の切実な願いを精一杯表現したのではないかと思うのです。
 私は1ヶ月間泊まり込みの聖書講座に参加したことがありますが、私の拙いポルトガル語でシンプルに表現した言葉が、ブラジル人の宣教師たちに却って深い響きを持って伝わることがありました。きっと松本先生も、宣教師時代の最後に日本語の全然通じないオリンダで働かれた時、似たような体験を沢山されたのではないかと思います。
 文化の違う外国人女性の精一杯の訴えはイエス様に深い感動を与えたに違いありません。何よりも幼い娘を抱えて行き場のない母親の必死の懇願に心動かさないイエス様であるはずがありません。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」(29節)。こうしてついに女性の願いは聞き遂げられたのでした。

(5)この物語の意味合い

 イエス様の初期の宣教姿勢は明らかにイスラエルの民族主義の枠内にとどまっていたと思われます。しかし、外国人女性との出会いによって初めは多少しぶしぶとではあっても、この女性の熱心な求めに応じて関わり合いに引き込まれていくのです。イエス様は決して教義や教理のように固定した真理ではありません。どんな人とも「私とあなた」という応答関係に立ってくださいます。そして、時にはご自分の意向を変えて弱く小さないのちの側に自らを添わせていかれる柔軟さに「神の子性」を見出すように思います。
 こうしてこの異邦人女性との出会いによって結果的にイエス様の初期の民族主義的宣教姿勢が打ち破られ、より普遍性を帯びていく契機となったというところにこの物語の重要性があるのです。

(6)弱く小さないのちとつながって生きること

 ところでこの福音書の物語の中で、中心人物は一体誰でしょうか。民族や文化の違いを乗り越えてここでイエスと女性が人格的に出会っていくために、何が鍵になっているのでしょうか。それはこの場面の陰に隠されている、この異邦人女性の幼い娘ではないでしょうか。悪霊にとりつかれて苦しみながら家に伏していた幼い女の子です。男の子ではありません。将来成長して大人になれたとしても人口の数に入れられない女の子です。つまりもっとも価値の低いとされるいのちが重要な役割を担っていたことを私たちに示しているのです。
 もしこの娘がいなかったら、この女性はイエス様のところへわざわざ出向くこともなかったでしょう。イエス様もゆっくり休んで疲れをいやし、また次の宣教地へ出て行かれたかも知れません。イエス様の宣教の枠組は依然としてユダヤ民族にとどまっていたかも知れません。この痛み苦しむ小さないのちを中心に、周りが動かされているのです。小さな者を内臓が痛むほどに憐れみ見つけ出して救われる神の働きが、この箇所を通してもまた透けて見えてくるようです。世界の様々な民族が出会い、連帯するために鍵を担うのは、こういう小さないのちなのだと思わされます。
 イザヤの終末預言の言葉をもう一度読んでみましょう。

「狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く」(イザヤ11:6)

(7)アルト・ダ・ボンダーデ教会の現状

 松本先生ご夫妻が奉仕されたオリンダのアルト・ダ・ボンダーデ・メソジソト教会に、昨年7月、二人の日本から来た牧師先生をご案内しました。松本先生が講師として奉仕された東京教区千葉支区教会学校の献金を、そのアルト・ダ・ボンダーデの子供たちへ届ける目的もありました。行ってみると丁度教会のチャペルの横に、牧師室と教会学校で多目的に使う部屋を建設中で、日本の子供たちからの献金はその建設材料を買うためにとても良かったと喜ばれました。
 その地区を案内してくれた神学生の家庭は、家族6人に誰にも収入がなく、障害を持つ姉に政府から支給されるわずかな支援金に家族全員が頼って生きていると言っていました。信徒リーダーのジャニーの話ですが、教会員の家庭は皆似たり寄ったりで、失業者ばかり。どうやって生きていくのか、希望を与えるのが難しいということです。神様の力にしか頼るものがない人々です。
 トインニャという女性は17人子供を産んで9人が育ったという生活体験の持ち主ですが、今は足が腫れて歩くのが困難になり、教会の礼拝にも出られないようです。彼女の質素な住いを訪ねますと、壁に松本先生と肩を並べて映した写真が貼ってありました。それを見て胸が熱くなりました。先生を思い出し祈り続けておられるのでしょう。何も持たない人の持っているもの、それは強い信仰と愛情深い心です。
 駐在員だった小井沼と私が、宣教師となってブラジルへ行くことになった、その原動力となったのも、やはりブラジルで苦しみを負う人々の存在を通してイエスさまの福音にもう一度出会ったということでした。

(8)おわりに

 今日、私たちの住む世界はグローバルな経済競争によって弱肉強食の世相が勢いを増し、戦争とテロの応酬の泥沼化によって、南でも北でも、弱い立場の人々のいのちが死に追いやられている状況です。
 今日のみ言葉から、苦しみを負う小さい人(=隣人)の存在が、私たちが民族や文化の壁を超えて連帯し、助け合って生きていく鍵になっていくことを教えられました。隣人を見失って自己目的的に生きるならば、教会もまたこの時代に猛威をふるう死の力に足下をすくわれてしまうのではないでしょうか。
 世界のどこにいようとも、またどんな形であれ、私たちはいのちへの暴力に対抗し、いのちを愛する神様の側に与して働きたいと思います。東京の住宅街の教会もサンパウロの日系教会もそれぞれの存在意義を与えられています。それぞれの負うべき部分を担って、主の宣教のグローバルな働きに参加していきたいと心から願っています。


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