忠実な管理者として

詩編50編15節
使徒言行録18章5〜11節
2005年4月24日 創立75周年記念礼拝
青山学院院長
元経堂緑岡教会牧師(第五代) 深町正信先生


(1)はじめに

 ある人が若い人に向かって次のように語りました、「人間にとってなくてならないのは『言葉』である。たくさんの言葉を浴びて,その中から真実な言葉を獲得していく、それが人間として育つということではないか。どれだけ質の高い言葉に触れることができたか、それが人が育つ上で大変に重要である。質の高い言葉にたくさん触れるうちに、やがて、たった一つの言葉からでも、実に多くのことを創造する力が養われていく」と。このある人とはノーベル賞作家の大江健三郎氏のことで、時は昨年11月6日に開催されました青山学院創立130周年記念シンポジュームの時のことであります。そして、大江氏はさらに、「人間にとって言葉が大事である」と同時に、人間として育つ上で、「どれほど良い言葉と出会ったか」ということがとても重要な鍵であると強調されました。
 聖書も、言葉が人間の生き死に直結することを語っています。主イエス様はまず「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8章3節)とあるように、人間にとって、肉の糧だけでは生きていけない、「主の口から出る言葉」が必要であると語っています。聖書は神の真実な言葉であり、イエス・キリストのご生涯を見るとき、神の言葉が何であるかが明瞭に分かるのであります。聖書は神の言葉の人間的証の書と言えるのであります。したがって、私達は食物をよく噛んで味わうように、聖書の言葉を、信仰をもってよく読み、聖霊の導きを受けて、正しく味わうとき、人の言葉が神の言葉となるのであります。
 聖書は旧約聖書39巻と新約聖書27巻の合計66巻からなっている書物です。旧約聖書は誰に負うところが多いかと言えば、モーセであると思います。ギリシャ人は知識、知恵の民であり、ローマ人は律法の民であるとすれば、ユダヤ人は正義の民でありました。その正義とは何によっているかと言えば、モーセのたてた律法によってであります。
 この偉大な信仰の人、モーセを、ヘブライ人への手紙3章5節は「モーセは将来語られる筈のことを証するために、仕えるものとして神の家全体の中で忠実でした」と言っています。ここに示されているようにモーセの偉大さとは、神の家に対して、忠実であったからであります。
 次に、新約聖書においては、ペテロが偉い、パウロが立派である、ヨハネが偉いと表面的には思われていますが、その人たちもイエス・キリストが居なかったならば、彼らの偉さはなかったのであります。新約聖書の主人公は言うまでもなくイエス・キリストであります。
 このイエス・キリストのことを聖書はたとえば、へブライ人への手紙5章6節で「あなたこそ永遠にメルキゼデク、正義の王に等しい祭司である」と言われています。このように聖書全体は旧約聖書の偉大な預言者モーセも「仕えるものとして神の家に対して忠実でした」と言われ、又、新約聖書の中心であるイエス・キリストは最後まで父なる神の前に従順で、「御子として神の家を忠実に治められるのです」ということを表わしています。
 この神に対して忠実であったイエス・キリストは、私たちにも常に忠実であることを強く求めておられます。たとえば、マタイによる福音書24章45節を見ますと、主イエスは「忠実で、賢い僕はいったい誰であろうか」と言っています。そして、マタイによる福音書25章21節以下の「タラントン」の例え話に、「良い忠実な僕」のことが書かれていますが、この箇所を読んでみますと、少しのものに忠実であった人に「主人が良くやった」「もっと多くの物を管理させるから一緒に喜んでくれ」と言われています。つまり、主イエスが最も喜ばれることはやはり「忠実である」ということが判ります、その反対に、私たちが神に対して忠実でないことくらい、イエス・キリストを悲しませることは他にないということであります。

(2)忠実であるために

 私達はどのようにしてイエス キリストに対して忠実であることが出来るのかということを聖書から学んでみたいと思います。使徒パウロは、コリント信徒への手紙一の4章1〜2節で「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです」。「この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」と言っています。
 「管理者」とは今日の言い方で言えば、「支配人」とか、或いは「マネージャー」にあたる者でありましょう。「管理者」とはその家を守り、また、その家の財産を管理する責任者のことであります。聖書によれば、私達キリスト者はそれぞれ、そのような者であると言われているのです。その管理者の立場にある人間に求められている最も重要なことは、主なる神に対して「忠実である」ということであります。
 この「忠実」とは、どういう意味であるのかを考えてみますと、ここでは二つの事柄が私たちに勧められているように思います。第一に、この自分自身がイエス・キリストによって、神の救いに入れられた者として、果たして神の家の財産を本当に預かっているかということです。あなたは忠実に管理しなさいと言われても、管理すべき財産が何であるのかを全く知らず、又、その財産をもっていることを自覚していなければ何の意味もないことになります。したがって、わたしたちはその神の家の財産を自分の中に預かり、それをしっかりと管理しなければならないということです。その神の家の財産がどのように尊い価値をもっているかを知れば知るほど、私達は自然に心をこめてそれを忠実に守ろうとする筈であります。
 では、私たちキリスト者に管理を委ねられている神の家の財産とは具体的に言うと、それは一体何であるのでしょうか? それは一言で言えば、「キリストの福音」であります。この「キリストの福音」という財産を忠実に管理しているならば、キリストの福音それ自体が、私たちの心と体、生活の中に生きて働くのであります。そして、キリストの福音が自分だけでなく、いつか家庭を隅々まで潔め、自分の周囲を新しくし、又、その人の人生の中に、どんな時でも、常に義と愛、希望と喜び、感謝と忍耐がそこに炎のように熱く燃え上がるのであります。
 コリントの信徒への手紙二の4章7節で、使徒パウロは「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と言っています。そして、その少し前の2章15節で、「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」と言っています。ここに明らかに示されていますように、キリストの福音を宝として意識し、また、神の家の財産として意識した使徒パウロは、その行く先々でキリストの香りを周囲に放っていました。彼は忠実にキリストの福音を管理していたのであります。
 信仰、信仰と口で言いましても、それが私たちの血となり、肉となっていなければ何の力にもなりません。信仰が生活化すること、その人の中で実践されることが大切であります。キリストの福音は口先だけの言葉でなく、いのちであり、力です。私たちがいくらたくさん美味しいご馳走を食べても、それらが良く消化されていなければ、血にも、肉にもなりません。それと同じように、キリストの福音の言葉をいくらたくさん聞いても、それを真剣な魂の渇きと飢えとをもって忠実に聞いて、日常生活の中でキリストの福音によって生きなければ、わたしたちを霊的に生かす血となり、肉となることは出来ないのであります。キリストの福音は、その人が知識があり、賢いから判るとか、又、賢くないから判らないというものではないのです。その人がキリストの福音を多く聞いたから理解し、少しの言葉しか知らないから判らないというものでもないのです。
 その人がイエス・キリストによって謙虚にされて、真実な心で、それを真剣に求めるならば、又、その真理の言葉を真剣に聞くならば、たとえ語る人の言葉はつたなくても、キリストの良き音信そのものが聞く人の心の中にぐんぐんと入っていくのです。そして、キリストの福音が掛け替えのない宝となって、その人の心の中で、又、その人の生活の中で力強く、生きて働くのであります。この神の奥義である、キリストの福音を恵みとして受け取ることが、管理者に要求されている「忠実さ」を守る第一の道であります。

(3)伝道

 第二に、私たちが本当にキリストの福音を体験しますと、これを他の人々に宣べ伝えずにおられなくなるのは当然のことになります。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一の9章16節で

「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずには居られないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」

 と言っています。それほどイエス・キリストに出会ったことは、パウロにとって大きな喜びの体験であり、それまでの彼の生死観や人生観からの解放であり、又、180度の人生転換の出来事となったのであります。そこで彼はキリストの福音を述べ伝えないことは、私にとって不幸なことであり、恐るべき禍であるとさえ言っています。顧みて、私達はかってそして、今、伝道について、どのような理解と実感をもって参加しているでしょうか?
 私達はとかく伝道することなど、私には到底力も時間もないことであり、それは牧師や教会の役員と一部の人たちがすることであって、私にはそのようなことは無理だと考えたことはないでしょうか?しかし、キリストの福音を伝道することは、誰でも、この私もキリストの十字架の恵みにより無条件に救われ、教会の尊い枝とされて、信徒の一人となった、その日から、実は、イエス・キリストから与えられている大切な仕事であるのです。それは私達キリスト者にとり最も大切な使命であり、生きる道であり、キリスト者として最も大事な聖なる義務ともなるのです。
 使徒パウロは愛する弟子の一人であるテモテに次のように言っています。テモテへの手紙二4章1〜2節で

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くためにこられるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」

 と勧めています。
 伝道することは私達キリスト者にとり聖なる義務だと先に言いましたが、もう少し言えば、いわゆる、社会的制約としての義務というような少し重苦しい、肩のこるようなことではないのです。それはそうせずに居られない内から突き上げられるような喜びであり、また、楽しみでさえあるのです。しかし、この楽しみは、この世の与える快楽の楽しみや喜びと比べることは出来ません。神の喜びたもうことを喜び、神を楽しむことであります。それゆえ、イエス キリストは確かに伝道に生きる道を祝され、また、そのすべての重荷は軽いとさえ言われたのです。そして、伝道することにより、父なる神に仕えることの真実の道を最後までご自分の身をもって示されたのです。
 ヨハネによる福音書4章30〜34節によれば、ある日、主イエス様の周囲には大勢の群集が集まり、主イエス様は食事を取る暇さえありませんでした。それを見かねて、弟子たちが「先生、ちょっと休んで、食事をとってください」と申し上げました。しかし、主イエス様は「私には、あなたがたの知らない食物がある」、そして「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業をなしとげることである」(34節)とお答えになりました。ここでも、主イエス様は食事を取るのも忘れるほど積極的に伝道されていたことがよくわかります。
 主イエスの弟子たちもまたそのように伝道の生涯を送りました。特に、使徒パウロにとり、伝道することが如何に喜ばしい仕事であったことかは、彼の書いた手紙の色々なところに書かれています。彼が心をこめて語っている言葉により、私達はそのことを十分に知ることができます。
 外から見ると,使徒パウロの生活と伝道は何時でも、何処でも困難と苦難の連続でした。彼はコリントの信徒への手紙二1章8〜9節で「兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていて欲しい。私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」と語っています。そのうえ、彼は生まれつきの持病に悩まされていました。その点から言えば、彼は本当に悲しみの人であり、その上、多くの誤解と迫害の苦しみを経験した悲劇の人でありました。何度もその苦しみのことで、彼は神に助けを祈っています。それにもかかわらず、彼は伝道することを喜んでおり、また、彼の生き甲斐としていたと思います。その理由は何であったのでしょうか?それはパウロ自身が彼自身のうちにキリストの福音をもち、それを彼の中で生き生きと確認してキリストとともに生活していたからであります。

(4)主の励ましとともに

 使徒言行録を見ますと、使徒パウロは何度も幻の中で、主イエス様から「恐れるな」「しっかりしなさい」「私はあなたとともにいます」という強い励ましの言葉を語りかけられています。彼はこの主の御言葉に支えられつつ、どのような状況のなかでも、キリストの福音の宣教に喜んで励んだのであります。それにひきかえ、今の私達はお互いに神様から与えられた伝道の使命をいつも常に喜びと感謝をもって果たしているでしょうか?そのことを考えますと、私達は残念ながら、一人の例外もなくそうではないことを率直に告白せざるを得ないと思うのです。
 私達はいつも色々な意味で自信を失い、自分の弱さを実感し、時には、人生に失望さえしがちな者であります。このような弱い私達をよく知っているからこそ、主イエス様は嵐の中で恐れる弟子たちに語ったように「恐れるな」「しっかりしなさい」「私はあなたと共にいる」という励ましの言葉を私たちにも語りかけていてくださるのです。
 聖書の御言葉により、私達は主イエス様の御声を聞くことが出来るとき、私達は慰められ、又、励まされるのであります。そして、主イエス様の力を頂いて、私達もまた喜んで、感謝して伝道の業に励まなければならないと決意を新たにされるのであります。
 今朝の聖書の箇所の少し先で、使徒パウロは使徒言行録18章9〜10節を見ますと、主イエスは「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私はあなたとともにいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない」と言っています。更に10節では「この町には、わたしの民が大勢いるからだ」という言葉がありました。このことが使徒パウロをして、「1年6ヶ月の間、ここにとどまって」(11節)、人々に神の御言葉を伝えることになったのです。「この町」とあるように、主イエス様は具体的に使徒パウロに伝道の場所を指示し、又、彼に伝道の使命を与えられているのです。「この町」とは、今、私たちにとり何を意味しているのでしょうか?
 これは私達それぞれが今、生活し、住んでいる場所、地域であり、又、自分が働いている職場や学んでいる学校、大学のことであります。次に「1年6ヶ月」という言葉は一体何を意味しているのでしょうか?
 経堂緑岡教会は世田谷の経堂の地にあって、創立当初から今日まで75年間の歩みを続けてきました。その間に歴代の牧師、伝道師の方々、多くの信徒の方々の信仰が与えられ、祈りと献金と奉仕により、75年間にわたり伝道を続け、キリストの福音を宣教して来ました。私自身も在職中、多くの教会員の皆様の信仰生活、教会生活に、また、日々の祈りと奉仕等の姿に出会ったことを一人一人のお名前とともに懐かしく思い出します。そして、本日もこのように多くの教会員や新しい方々がこの教会により、キリストの恵みにより、信仰により、救われて、キリストの福音を基盤として信仰共同体、礼拝共同体としての教会を形成しておられることは、感謝と喜びであります。
 このキリストの福音の真理は私たちの生命を真に生かす真の力であります。したがって使徒パウロはローマの信徒への手紙2章16節でその力を「私の福音」と呼んでいます。それはどこまでも、イエス キリストの福音が彼のものになっており、彼の血となり、肉となり、生きる力となっていたのであります。
 私達の経験は決して完全なものでありません。しかしそれがたとえどのように不完全なものであっても、「私はイエス キリストの十字架により、罪を赦され、復活の出来事によって、永遠の希望に生きるものとされました」又、「わたしはイエス キリストの福音によって救われました」という真実な救いの体験ほど尊いものはないのであります、すべてはここから始まるのであります。イエス キリストは私達一人一人をただ天国へ導くために十字架に苦しまれただけでなく、その十字架の道を通じて、神の栄光を現され、私達を罪の闇から救い、忠実なキリストの福音の管理者として生かしてくださり、永遠の生命を約束し、神の国に招きいれてくださるのであります。
 へブライ人への手紙3章1節には「だから、そこで、パウロは天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエス キリストのことを考えなさい」と言います。私達には今、経堂緑岡教会に招かれ、教会の枝とされている者として、この大祭司イエス・キリストに忠実に仕える「聖なるもの」となる自覚をもつことが大事な務めであります。教会創立75周年にあたり、私達は教会の大祭司であるイエス・キリストに仕える信仰とキリストの身体である教会に対し忠実である決意を新たにされたいと思います。
 主に祝福された泉からコップに注がれる水は絶えることなく注がれて、それはやがて一杯になり、コップから溢れ出て、多くの人の渇きを潤します。そのように私達はキリストの福音に正しく聞き続けるとき、その喜びが溢れて他の人々に伝えられます。そのように私達は、この福音の忠実な管理者として、自分の使命を果たしたいものであります。

(5)試練の日について祈ること

 しかしながら、本日のテキストにあるパウロのように、私達も人生の途上において、キリストの福音に出会い、喜びに満たされましても、必ず試練に会うものであります。その時、「あなたがたの苦難の日に、私を呼びなさい」と、主は私たちにも呼びかけておられます。他の誰でもなく、ただ天の父なる神に助けを呼び、その助けを祈り求めなければなりません。
 信仰生活は実は、私たちが「天の父なる神様」に語りかけることによって深められます。苦しい時、悲しいとき、神に助けを求めることが大事であります。パウロは、はじめキリスト者を迫害する者でありましたが、主から語りかけられることによって、キリストを証しするものとなり、主にある心の平安を与えられました。しかし、沢山の試練に会って、信仰を磨かれ使命をまっとういたしました。
 私達の人生も教会においても、様々な失敗や苦しみがあります、時には自分の力ではとても解決できない大きな悩みや苦しみがあります。そのとき、私達は誰に向かって助けを呼び求めるでしょうか?私たちが苦しい時、悲しいとき、呼び求める相手が一人もいない、或いは、何かを訴えたいとき、誰も相手が居ないとしたら、こんな惨めで、辛いことはないでしょう。
 しかし、今、私達が人生の悩みのとき、呼び求める真実な相手が居る、苦しい時に、相談できる相手がいるということはなんと幸いなことでしょう。教会生活においても色々な出来事が起こるものですが、そのときにも、天の父なる神様がイエス キリストに」あって、私達に「わたしを呼ぶが良い。苦難の日、私はお前を救おう」と約束していてくださるのです。経堂緑岡教会の75年間の歴史は、まさに主に守られ、導かれ、助けられて今日の教会の働きがあるのであります。
 天の父なる神様はこの教会に人々を招き、生きる力と教会の使命とを与えておられます。神様は誰よりも私達一人一人のことをよく知っておられる方であります。聖書の証しする父なる神様は柔和で、どのような小さな悲しみ、問題であっても決して見過ごしにされない方であります。「わたしを呼ぶが良い、苦難の日、わたしはお前を救おう」と呼び掛けていてくださるのです。英語では電話をかけることを「コール」といいますが、相手を呼ぶことです。父なる神様は私達それぞれの心の祈りの部屋の電話番号を知っているのです。したがって父なる神様の方から私たちに電話をかけてこられるのです。
 弟子たちは主イエス様にむかってお願いしました。「主よ、私たちにも祈りを教えてください」。すると、主イエスはこうお答えになりました。「祈るときには、こう祈りなさい。父よ」と(ルカ11章2節)。「先ず呼びかけなさい」と、正しい電話のかけ方、祈りの作法を示してくださいました。いや、実は、私達にとって大事なことは、主イエス様ご自身が神を呼ぶ正しい電話番号であるということです。そして、私達は、この主イエス様の十字架の執り成しという道によって、忠実な僕、忠実な管理者となることができるよう、父なる神様に直接に祈ることが出来るのです。
 顧みて、経堂緑岡教会のはじめの日、木原外七牧師はこの地に立って、このような父なる神様に向かって、祈って、伝道を開始されました。戦中、戦後は、今は亡き、高橋豊吉牧師や都田先生、東方先生、三和先生、本間先生、医師の早川先生、渡辺先生、川端さん、小林さん、鈴木さん、竹内さん、多くの方々が、ここに居られる皆さんとともに、苦難の日、試練の日、「父よ」と呼びかけ、主に祈り求めつつ、上からの導きと助けをいただいて、奉仕の生活の中で、キリストの福音を喜んで伝道に励まれました。どうかこの教会が80年目、百年目を目指して、主イエス様とともに喜んでキリストの福音を力強く、熱心に伝道する教会であってくださることを祈るものです。
 経堂緑岡教会がますます神の栄光を現し、福音を力強く前進させ、教会の徳を高め、そして神の愛を教会の内外で力強く証しすることを祈念して、終ります。


HOMEへ戻る