天の父の子となるために

マタイ福音書5章43〜48節
2005年9月25日
中部学院大学宗教総主事 梶原 寿先生


(1)リタ・ラサールの投書

 2001年9月17日、ニューヨークタイムズ投書欄に次のような投書が載った。

  編集長殿
  弟のエイブ・ゼルマノウィッツは、最初の飛行機が世界貿易センターに衝突したとき、その27階にいました。彼はそのビルから脱出することもできたのですが、そうしないで、脱出できなかった彼の四肢麻痺の友人と共に留まる道を選びました。ブッシュ大統領はナショナル・カテドラルでの演説で、彼の勇気について語りました。
  どうか弟とわたし自身の名において、かくも深く傷ついたわたしたちとこの国が、取り返しのつかないような力を、解き放つことがないように祈ります。
                          リタ・ラサール

 リタ・ラサールは、夫のテッドを失った後もニューヨークの世界貿易センターすぐ近くの賃貸アパートに住む、70代の普通の寡婦だった。彼女はあの日(9月11日)に、二機目の自爆機が同センターに激突するのを目の当たりに見た後、余りのショックに何日もアパートのブラインドを閉めたまま、一人で部屋に閉じこもっていた。
 その彼女が突然勇気を振り絞ってこの投書を書く気になった動機は、事件三日後の9月14日に、ブッシュ大統領がワシントンDCのナショナル・カテドラル(米国聖公会教会)から全国民向けに行なった演説のせいだった。
 大統領は極度の疲労の中を働き続けている救急隊員や、献血のために列をなしている市民たちの犠牲的精神を褒め称えた後、リタ・ラサールの弟ゼルマノウィッツについて、「あの世界貿易センターの中で、一人の人物が自分は助かろうとすれば助かったのに、四肢麻痺の友人の傍らに留まり続けた・・・」と言って、「だからこのような人々のためにも、われわれはテロリストを送り出しているアフガニスタンに報復攻撃を加えなけれればならない」と結びつけたのである。
 この言葉を聞いたときリタはとっさに思った。「わたしの国は弟の勇気を、ここから遠く離れた国の罪なき人々を殺すことの正当化のために利用しようとしている。・・・それはまさに弟の死を悪しきものにすることだ」と。
 こうして彼女は同じような思いを抱いている犠牲者たちのNPOグループ、「平和な明日を求める9・11犠牲者家族の会」(September 11th Families for Peaceful Tomorrows)の創設者の一人となり、数ヵ月後には直接アフガニスタンを訪れて現地の犠牲者たちと「涙の交流」をし、2002年8月には日本母親大会に招かれて日本をも訪問して、「広島」について次のような感想を述べている。

 広島のこの新しさと美しさは実際には醜いものです。・・・なぜなら全市が破壊されて、再建されなければならなかったのですから。

 さらには2003年2月にはイラク開戦を前にして、リタ・ラサールはワシントンDCの国会議事堂突入を試みる<市民的不服従運動>に参
加し、警官に手錠をかけられて逮捕されている。

(2)牧師である私が、やらなければならない

 私は2003年8月、この<ピースフル・トゥモロウズ>の共同代表デイヴィッド・ポトーティ(David Potorti)氏が、このNPOの活動記録集を一冊の本として出版していることを知り、直接邦訳・出版の意志を伝えて許可を取り、3ヶ月かかって翻訳を終え、翌2004年3月19日、イラク戦争開戦日(20日)に合わせて、岩波書店から『われらの悲しみを平和への一歩に――9・11犠牲者家族の記録』(September 11th Families for Peaceful Tomorrows: Turning Our Grief into Action for Peace)として出した。
 その際、私が「どうしても邦訳・出版しなければ」という意欲に駆られた動機は、この本の中に登場する人々(遺族)がそれぞれの近親者の<死者>(犠牲者)の<名誉>を必死になって守ろうとしていることであった。それは第2章のタイトル「わたしたちの名前を使わないで欲しい」(Not inOur Names)によく言い表されている。先ほどのリタ・ラサールの言葉では、「どうか弟とわたし自身の名において、かくも深く傷ついたわたしたちとこの国が、取り返しのつかないような力を解き放つことがないように祈ります」と表現されている。
 しかもその意志表示を著者のポトーティ氏は、「はじめに」において以下のように、キリスト教信仰の核心的(中心的)な用語を用いながら言い表していた。

 わたしたち遺族の大部分は、悲しみに対処するために、テレビやラジオのスイッチを切った。しかしながら、ある者は、悲しみの公的性格を認識して、犠牲者の家族が抱かなければならない伝統的な感情とはしばしば相容れない声明を発することによって、死者を贖い出す道を選んだ。つまりそのような声明を発することを通して、わたしたちは出会い、戦争に代わる道を選び、暴力の悪循環を断ち切るために、非営利団体「平和な明日を求める9・11家族会」を結成することになったのである。

 私はこの「死者を贖い出す」=<贖罪信仰>の言葉一つのために、「これは牧師である私が、何としてでもやらなければならない」と心を決めた。正直のところ、東京でのポトーティ氏を迎えての「ピースフル・トゥモロウズ講演会」実行委員の中には、私がこの言葉にこんなにこだわることに違和感を抱いた人もいるし、"redeem them"にはそんなに強い意味はないと考えた人もいたと感じている。また岩波書店には他の邦訳申し出者もいた。しかし私はこれこそ、現代における<贖罪信仰>の最も適切な信仰告白であると信じて、わざわざ次のような訳注を付して「強引に」この翻訳を進めた。

※死者を贖い出す[redeem]=キリストの十字架に因み、自己犠牲を通して他者を救うとの意。ここでは9・11テロの犠牲者の死には贖罪死の意味があるゆえ、そのような存在者として位置づけるとの意

(3)真理の<普遍的次元>

 私が以上のような<こだわり>を持った、そして今も持つ理由は何か。それはイエス・キリストの福音が持つ真理の<普遍的次元>が余りにも無視されている世界の現実があり、キリスト教信徒を標榜している人々までも「現実主義の名の下に」その流れに押し流されている現実があるからである。このまま流れに流され続けていくと、世界も(そして日本も)神の裁きによって滅亡の悲劇に到ってしまうからである。
 真理の<普遍的次元>とは何か?普遍的(universal)とは、いつでも、どこでも、遍くあてはまる、ということである。自分の仲間にだけ当てはまる、ということではない。換言すれば、公平性・公正性、ということである。
 具体的に言うと、その一例は、去る5月ニューヨークで開かれた「核不拡散条約(NPT)再検討会議」が、世界のスーパーパワー米国の「単独行動主義」(一国利益主義)によって、何らの合意事項なく終わってしまったということである。
 核不拡散条約(NPT)というのは、30年前に核保有の先進国の核廃絶の方向で努力するから、発展途上国もこれから核兵器を持つようなことはやめよう、ということを合意していた。しかしその後も事態は進展していないので、このたび再検討会議が開かれたのである。
 ところが最近の米国は、そんな約束には縛られない、自分の安全のためには地下貫通型核実験もやるし、小型核兵器による危険な国(北朝鮮やイラン)への先制攻撃もやると豪語してやまない。この傲慢な態度、不公平さ、普遍性喪失のために世界諸国の批判を浴び、<合意>に達することができなかった。
 ところが、現代の状況というのは、このブッシュ政権を多くの米国クリスチャンたちが支持しているし、その米国に日本政府も盲従しているという状況である。そして日本政府は、アジアの国々に対しては、戦争被害者の心の傷を平気で踏みにじって、首相の靖国参拝は日本人自身の問題であって、内政干渉するな、という傲慢な態度を取っているのである。

(4)キリストの足跡に続くように

 私はこの事態に、本当に心を痛めている。しかし今日の聖書の御言葉に目を向けてみよう。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」隣人(仲間)を愛し、敵(気にいらない相手)を憎め、――これは人間自然の感情である。いわゆるナショナリズム(民族主義)である。しかし、主イエスは敢えて「敵を愛せ」と言われる。「自分を迫害する者のために祈れ」と言われる。これは私たちの<自然性に抗して>しなければできないことである。だがしなければならない。なぜなら、 「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
 これは難しい命令である。しかし今、人類は、世界は、この難しい命令に従わない限り、滅びの運命にある。だから<生き残るために>この難しい道を歩まねばならない。クリスチャンとは、<キリストに従う者>、<先駆者>の言いである。ペトロの手紙一 2章21節には次のような勧めの御言葉がある。

  あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと模範を残されたからです。

 私は現代のクリスチャンが一番耳を傾けなければならない御言葉は、これだと思う。服従は、私たちが一番<いやな事柄>である。しかし主イエスは一人で重荷を負えと言っているのではなく、<一緒に負おう>と言っておられるのである。
 マタイによる福音書11・28〜30――

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 私たちにはこんな誤解があるのではないか。私は余りに罪多く、不完全だ。そんな私が<主の足跡に続く>ことなどとてもできない。むしろ<足跡に続くことができる>などと考えることこそ、傲慢である。キリストにしか出来ない贖罪の業を、自分もできる、という思い上がりである。私に出来ることは、ただただ謙遜に<贖われたこと>、<罪の赦し>に感謝することだけである。だから教会の礼拝に出席することだけが、私にできる唯一の神礼拝である。・・・
 だがこの論理こそ、あの奴隷制と人種隔離を米国のクリスチャンが黙認し、支持したた論理であり、今日のブッシュ政権を支持するクリスチャンの論理である。また日本でも、こういうキリスト教論理が大手を振ってまかり通っているのではないか。
 確かにわたしたちは罪人であり、キリストの足跡に続くことなどできない。しかし、それは「自分一人では」とぃう条件のもとでだけ言えることである。そこにもし、「主イエスが一緒にくびきを追いながら、お前がどんな罪人であろうとも、お前はすでに贖われている、だからどんな小さな仕方でもいいから、わたしの後についてこい!」と言われているとしたら。
 そしてそれが、まさに正しい信仰告白なのである。私は言いたい。自分の弱さを売り物にするな!それは主の名を辱めることなのだ、と。  ピースフル・トゥモロウズのメンバーの一人、クリスティナ・オルセン・タインズは、最愛の姉をあの世界貿易センターに激突したアメリカン航空11便で失った遺族であるがアフガニスタン訪問の手記に、次のように書いている。

  アメナという8歳になる少女は16人の拡大家族を失っていた。・・・わたしには、彼女の苦しみとわたしたちがアフガニスタンで会った大抵の人の苦しみは、総じて私自身のものより遥かに大きいものだということが分かった。

 この感覚なくしては如何なる<和解>もありえない。この感覚こそが、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」の意味である。


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