この世に生きる神の民

マタイによる福音書28章16〜20節
2005年11月20日 経堂緑岡教会
代々木上原教会牧師  村上 伸先生


 主にある兄弟姉妹に心からご挨拶申し上げます。

 今日は「この世に生きる神の民」ということについて、つまり教会の在り方について、マタイ福音書の最後の言葉から教えられたことをお話したいと思います。
 ここには、主イエスが復活された時のことが書いてあります。この一大事件の最初の証人となったのは、「マグダラのマリアともう一人のマリア」(1節)でした。使徒たちは、主イエスの逮捕の際逃げ出してしまいましたから、そこには居合わせなかった。そこで、この二人の女性には重要なメッセージが託されます。復活された主イエスは「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(7節)というのです。彼女たちはこれを使徒たちに伝えました。「11人の弟子たちはガリラヤに行った」(16節)とあるのは、それを受けています。
 ですから、このガリラヤ行きは、指導者を失った弟子たちが「仕方なく田舎に帰った」というようなことではありません。そこで復活の主イエスに「お目にかかる」という重要な意味を持っていたのです。
 そもそも、ガリラヤとはいかなる場所でしょうか? 都エルサレムから見れば遥かなる辺境の地であり、マタイ福音書4章によれば、「異邦人のガリラヤ」・「暗闇の地」・「死の陰の地」などと呼ばれていたところです。だが、それだけではない。ガリラヤは、主イエスが宣教を始められた所です。渾身の力を込めて「神の真実の支配が近づいている」と語り、この福音をさまざまな奇跡や愛の業によって証しされた所です。「死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(マタイ4章 16節)と言われるのは、そのためです。弟子たちは、そのガリラヤに行ったのです。「原点に立ち返った」と言ってもいい。
 私たちの教会も、繰り返し「ガリラヤに」立ち戻らねばなりません。
 歴史を振り返ると、教会は残念なことにしばしば原点から逸脱しました。主イエスは貧しい馬小屋の中で生まれ、虐げられた人々の友となり、自らを低くして苦しむ人々と共に生き、遂には愛のためにその命を捧げられたのに、その後の教会はいつしかこの主イエスを見失い、神の栄光は壮麗な大伽藍や巨大な権力機構、美々しい儀式・典礼の中にだけ現れると勘違いしました。そういうものにも意味はあるでしょう。しかし、最も大切なのは、主イエスの心を心とし、彼に従って歩むことです。
 私は今、13世紀のイタリヤに登場したアッシジのフランチェスコのことを考えています。彼はただ主イエスに倣い、すべての人を愛して生きました。人間だけではありません。すべての動物や植物、いや、神のすべての被造物を愛したと言われます。彼の単純で美しい祈りは、私たちの心を揺さぶります。

神よ、私をあなたの平和の道具としてお用い下さい
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところに赦しを
分裂のあるところに一致を
疑いのあるところに信頼を
誤りのあるところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとして下さい
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを私が求めますように
私たちは与えるから受け
赦すから赦され
自分を捨てて死に
永遠の命をいただくのですから

 教会が原点から逸脱した時、フランチェスコのように主イエスを見上げて初心に立ち返ろうとする人が必ず現れました。ルターやカルヴァンのような宗教改革者もそうです。感謝すべきことに、これが教会の歴史なのです。

 さて、ガリラヤに行った弟子たちは、「イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)と書かれています。「山」とは何でしょうか? 日常の暮らしを超えて、神の言葉を聞くことによって自分の人生や世界の問題を見直すことができる「高み」のことです。ガリラヤには目ぼしい「山」はないといいますが、それは問題ではありません。神の言葉の高みから自らを見直す所。それが「イエスの指示する山」なのです。経堂にも「山」はありませんが、「緑岡教会」という高みがあります。日曜朝のこの時間、教会は「山」になるのです。私たちはこの山に登り、そこで、復活の主イエスに会い、その「高み」から世界や人生を見直すのです。
 その山の上で、主イエスは弟子たちに「近寄って来た」(18節)とあります。弟子たちはついこの間、十字架につけられる主イエスを見捨てて逃げ去りました。主に対して合わせる顔もないと感じていたでしょう。しかし、そのように弱い存在である弟子たちに対して、主イエスは「よそよそしく」なさいません。近寄って来られます。彼は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ書4章15節)方です。
 そして、この方が、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(18節)と言われました。これは高ぶりではありません。主イエスは、決して偉ぶらない方でした。

「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ20章25-27節)

と言われた通りです。
 しかし、自らを低くする者は、実は、力づくで他人を支配しようとする人よりも強いのです。謙虚な人だけが、人の心を真に深く動かす力を持っています。これは、逆説的な真理です。パウロも、キリストは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2章8〜9節) と言ったではありませんか。
 「だから」とイエスは言われます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19〜20節)。ここには、私たちの教会が果たすべき使命が示されています。しかし、これらの言葉は、真に謙虚であった主イエスの御心を基準として理解されなければなりません。

 最近、キリスト教の思い上がりがしばしば他宗教から批判されます。理由のないことではありません。16世紀に始まったキリスト教の海外宣教は、ヨーロッパこそが文化的にも宗教的にも世界の最高峰であり中心であるという考えから出発していましたから、他の文化や宗教を未発達段階の原始的なものとして軽蔑するようなところがありました。善意から行われた場合でも、宣教地の人々を見下して「助けてやる」というような姿勢があらわでしたし、ひどい場合は、ラス・カサスが報告しているように、武力攻撃や大量殺戮を伴うことさえありました。
 だが、こういうことは、断じて主イエスの御心ではない!「すべての民をわたしの弟子にしなさい」というのは、改宗を強制することでは決してありません。あらゆる差別を超えた主イエスの愛がすべての人の胸にしみ入り、溢れるようにしなさい、という意味です。「あなたがたに命じておいたこと」とは、「互いに愛し合う」ことであり、「それをすべて守るように教える」とは、共に謙虚に学ぶように、という意味に他なりません。従って、「洗礼を授ける」という言葉も、キリストの謙虚から理解されなければならないでしょう。

 私には一人のドイツ人の親友がいました。ナチス支配下で体験したことを話してくれたことがあります。彼の父は牧師でした。ある夜遅く、牧師館の玄関を遠慮がちにノックする音が聞こえた。母親がドアを開けて見ると、数人のユダヤ人が立っていました。「ゲシュタポに追われている。助けてくれ」というのです。母親は真っ青になりました。あの時代、ユダヤ人を匿うことは、それだけでもう重大犯罪です。バレたら大変なことになる。しかも、牧師館の真ん前は警察署です!この家には年寄りもいるし、子供もいる。教会の仕事に差し障りがあってもいけない。いろんなことを考えて、彼女は一旦それを断りました。この気持ちもよく分かります。
 しかし、奥でこのやり取りを聞いていた父親が、「あの人たちを匿ってあげよう」と言い出したのです。そして、「私たちは洗礼を受けているではないか」と言ったというのです。この言葉は、息子に深い印象を与えた。彼はそれを終生忘れず、20年前に天に召されるまで、何度も私に話してくれました。
 後で、父親はその言葉の意味をこう説明したといいます。―-― 洗礼を受けるということは、「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」(ローマ6章4節以下)ことに他ならない。死は既に背後にあり、前にあるのはキリストの復活の命なのだから、もう何も思い煩うことはないのだ、と。
 こう決心した彼の家族は、このユダヤ人たちを守り通しました。そして、隣に住んでいた弁護士、「告白教会」の熱心なメンバーであった人の適切な助けもあって、遂には彼らを極秘裏にスイスに逃がしてやることに成功したのです。この弁護士こそ、後にドイツ連邦共和国大統領になったグスタフ・ハイネマンその人です。
 洗礼を授けるということには、他宗教と張り合ってクリスチャンの数を増やすということ以上に、重要な意味を持っています。それは、キリストと共に死に、キリストと共に生きる人、何事も思い煩わず、主イエスの愛に倣って生きる人を育てなさい、ということでしょう。「すべての民をわたしの弟子にし・・・彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」という主イエスの命令には、このような意味が含まれているということを心に刻みたいと思います。
 最後に、主イエスはこう言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。この慰め深い約束!これを信じて歩むのが、この世に生きる神の民の在り方に他なりません。


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