福音の種まきへの召し

イザヤ書52章7〜10節
マタイによる福音書13章1〜9節
2006年1月22日 経堂緑岡教会
大泉ベテル教会牧師  小倉和三郎先生


(1)種まきのたとえをどう聞くか

 主イエスがお語りになったこのたとえ話は、教会では小さい子どもも知っている最も親しまれてきたたとえです。そして日本の教会では、このたとえを、種がまかれた土地の側に自分を当てはめて聞く習慣があります。その理由は日本の教会が欧米の教会の伝道地域で、宣教師から種をまかれてキリスト教を受け入れた経緯があったためと思います。
 私も初めはそのように聞いてきました。30代の後半、北米のテキサス州に留学する機会があり、その間、近くの教会の礼拝に出席していました。ある主日の礼拝でこのたとえに基づく説教を聞きました。その時、説教者が種をまく人の側で語りました。私は初めて、まかれる側でなく、まく側を中心にして語る説教を聞いたわけです。正直言って牧師になって8〜9年もたって、ああそうかと気がついた次第です。その後、注解書を調べて、このたとえが、種をまく人、まく側のたとえであることを確かめました。

(2)まかれる側で聞く問題性

 この経験があって後、私はこのたとえを土地の側に自分を当てはめて聞く場合に、いくつかの問題があると気付くようになりました。例えば、悪い地と良い地が並べられて、あなたはどの土地ですか?と問いかけられる問題です。悪い地が不信仰で良い地が信仰的とするなら、信仰はその人の宗教的な熱心さや性格によって決まることにならないか、という疑問です。
 私は東京の下町に生まれ、およそキリスト教とは無関係な環境で育ち、少年時代はクリスマスが誰の誕生日かも知りませんでした。道端や石地のような私が信仰を持ち、伝道者になるに至ったのは、ひとえに主なる神の選びと聖霊のお導きと言うほかありません。
 明治時代の初め、日本に伝道にきた宣教師たちは信仰的な熱心さとともにピューリタン的な生き方を身につけた人々で、彼らがこのたとえを語る場合に道徳的、倫理的な要素が強かったと思います。そのため、聞く側の日本人には、悪い地にならないように、心清らかな、良い行いをするようにと教えられていると響いたのだと想像します。メソジスト派の伝統のある教会は、特にそうだったのではないでしょうか。そのためこのたとえを、受け入れる側の自分の生き方として聞くことによって、自分のあり方に関心が傾き、自己完結の方向に進む問題があるのではないでしょうか。

(3)福音の種まき

 以上のことを前提として今日はこのたとえを、受け入れる側ではなく種をまく側を中心にしてご一緒に聞きましょう。
 まず気付くことは、主イエスがお語りなる種まく人のまき方の異常さです。この人は当たりかまわず種をまき散らします。日本の昔の農家の人は、こんな無駄なまき方はしなかったはずです。たとえのまく人はヘリコプターで空中から散布しているようです。
 何故こんな無駄なまき方をするのでしょうか?その理由は、この種が福音の種であり、福音をまく種まきだからです!福音とは神の愛の現れであり、神の愛そのものです。イエス・キリストご自身が福音です。神の愛は惜しむことを知りません。報いを求めません。だから人間の目には無駄に見えます。また神の愛は相手を選びません。道端であろうと石地であろうと茨の地であろうとかまわずまくのは、相手を選ばないからです。相手が良い実を結ぶかどうか予断をしません。
 私たちの愛は相手を選びます。相手が信用できるか、能力があるか、こちらの愛に十分答えてくれるか、慎重に吟味します。人間の愛はいつも報いを求め見返りを期待しますから、相手を品定めします。しかし、神の愛はその反対です。主イエスは弟子たちに「何も当てにしないで貸しなさい」(ルカ6:35)とお命じになりました。これが神の愛であり、キリストによって身をもって示された愛です。

(4)忍耐強い愛

 福音の種まきですから、労を惜しまず、報いを求めません。さらにこの種まきは極めて忍耐強いのです。蒔いても蒔いても、なかなか良い地に出会いません。しかしあきらめず、営々としてまき続けます。神の愛は忍耐強いからです。パウロが神の愛を賛美したコリント第一の13章で「愛は忍耐強い。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」と語ったのは、まさに福音をまく人の愛の忍耐を言い表しています。忍耐は希望があるから力を発揮できます。いつかきっと芽を出し育ってよい実を結ぶと信じて、そこに希望を託して耐えるのです。 
 旧約聖書のコヘレトの言葉(前の伝道の書)11章1節
  「あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日の後、あなたはそれを得るからである」。(口語訳)
この聖句も福音の種まきを証ししています。

      『讃美歌21』566番(『讃美歌第一編』536)の1節
 報いを望まで 人に与えよ こは主のとうとき み旨ならずや
  水の上(え)に落ちて 流れしたねも いずこのきしにか 生いたつものを

 この讃美歌も愛の忍耐をもって種をまく人を美しく唱っています。

 この種まきの姿に比べて、今の私たち日本人の生き方は正反対ではないでしょうか。すべての面で報いを求める。それもすぐに効果を期待する。便利さと能率の向上を追い求め、無駄はしたくない。とくに自分にとって利益にならないものを全て損と思って嫌います。戦後60年が過ぎましたが、明治時代から敗戦までの期間も日本は近代国家を目指し、欧米のいわゆる列強に追いつくため、豊かさと強さを追い求めてきました。その果て無謀な戦争を仕掛け、近隣諸国に大きな罪を犯し、自らの悲惨な経験を味わいました。それからの60年間はどうだったでしょうか。日本人は殆ど変わっていないではないでしょうか。相変わらず豊かさと強さに憧れ、能率を求め、目先の利益を追求しています。21世紀の日本の歩みは大いに心配です。しかし、主なる神の忍耐強い慈しみは日本人の上に注がれていると信じます。

(5)種まく人、イエス・キリスト

 さて、この福音の種をまく人は誰でしょうか。それはこのたとえの語り手である主イエスご自身です。主イエスは惜しまない神の愛をこの世にあって実行してくださいました。最後の十字架は神の愛の極みでしたが、それも報われず、すべてが徒労に終わったかに見えました。しかし主イエスは復活なさいました。復活は十字架の死が神の愛の現れであり、すべての人を罪から解放し救う神の力であることを啓示しました。復活は、主イエスの犠牲的な愛が豊かに実を結んだ証しでした。
 主イエスは福音の種まく人であられると共に、福音の種そのものでもあられました。主イエスはこうお語りになりました。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。  だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)

 聖書の時代の人々は、種は地にまかれると本当に死ぬと考えていました。ですから発芽は文字通り、いのちの甦りであり、キリストの復活の比喩として適合していました。
 種が蒔かれる土地について少し触れておきます。種が実を結ぶためには良い地にまかれる必要がありますが、良い地は初めからあるわけではありません。初めは荒地であっても農夫が丹精こめて耕すことによって時間をかけて良い地に変えられていきます。主イエスが「わたしはぶどうの木。わたしの父は農夫である」(ヨハネ15:1)と言われたように、私たちが初めは不毛な地であっても、父なる神の忍耐強い愛が注がれることによって、やがて良い地にされ多くの実を結ぶ土地に変えてくださるのです。パウロが「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださるのは神です」(コリント一3:6)と語ったように、愛と忍耐の神が伝道者をお遣わしになり、聖霊を注いで限りない忍耐と愛によって、不毛な地を豊かに肥えた地にしてくださいます。

(6)種まく人の証人。

 福音の種まきの筆頭はキリストですが、その種を実らせた人々がキリストに倣って、種まく人になり、この循環によって、福音は世界に広がっていきました。その種まきに加わった一人の女性をご紹介します。
 私の2番目の任地は信州の松本教会でした。その会員だった故高山澄子さんの家は、北アルプスの麓、安曇野として知られる山紫水明の田園にありました。高校の教員の夫と2人の娘さん、そして夫の高齢の両親の3世代の家族でした。義母が長い間、リュウマチのため不自由で、澄子さんは義母の介護に明け暮れていました。その義母が天に召され、1年後に義父が安らかに召されました。澄子さんは介護を全うされ、その重荷から解放されて、教会の奉仕や友の会の活動に参加し始めました。
 その矢先、彼女は不治の難病にかかったのです。その病気は進行性筋萎縮症でした。彼女は40歳の若さで二人の十代の子どもを抱えて、死と向き合わなければならなくなりました。発症後1年間は自動車の運転も可能で自宅でほぼ普通に生活ができましたが、2年目にはいって、筋萎縮が進行し、信州大学付属病院に入院しました。
 私はしばしば病室を訪問し一緒に聖書を読み祈りました。初めの頃は『ハイデルベルク信仰問答』を読みました。次にヨハネ福音書を読みました。私が聖書を読むと、澄子さんは聞きながら、一句一句にうなずきながら、その通りという気持ちを表し、その表情は本当に喜びと平安に溢れていました。
 人は死に向かい合うと心が研ぎ澄まされます。余分なことは考えず、最も大切なものを慕い求めます。澄子さんがまさにそうでした。私は彼女の信仰に圧倒される思いがしばしばでした。そして聖書を読んでいる時、そこに主イエスが臨在して語りかけていることを実感するという貴重な経験を味わいました。
 病は日に日に進み、次第に呼吸も困難になっていきました。澄子さんは肉体の苦しみに耐えながら、信仰の目は主イエスの方にぴったりと向いて、揺るぐことはありませんでした。彼女は、死を復活のキリストの招きとして受け止めていました。教員の夫は日頃、信仰は弱い人に必要であって、自分は自分の力で生きていくと言う生き方のようでした。しかし妻の死に直面して、それまでの自信が崩れていきました。死の力には誰も勝てません。そして妻の心の強さと平安の秘密がキリスト教の信仰にあると知り、彼も求道を始めました。その後は病室の枕辺で3人で聖書を読み祈るようになりました。
 澄子さんは今から丁度30年前の春、家族と親しい教会員に囲まれて、平安にしかも実に堂々と眠りにつきました。夫はまだ求道中でしたが、自分で聖書のなかから聖句を選んで、彼女の墓碑銘としました。それは「主のために生き、主のために死ぬ」(ローマ14:8)でした。私は主なる神の不思議な導きを深く感じました。
 間もなく夫の美玲(みれい)さんは受洗しました。その後間もなく二人の娘さんが受洗し、高山家はクリスチャンホームになりました。澄子さんは結婚当初から、家族の入信を心から願い祈り続けてこられましたが、生きている間は実現しませんでした。しかし彼女の死後、程なく、祈りは叶えられました。澄子さんは難病と戦い死と向かい合うことによって、信仰を燭台の灯火のように輝かせ、福音の種をまく人になり、その種は豊かに結実しました。

(7)種をまきに出て行こう

 主イエスはこのたとえを「種を蒔く人が種まきに出て行った」というお言葉で語り始めました。私たちは主の日に教会に召集され礼拝を捧げ、み言葉を聞き、福音の種をまかれます。そしてその種を携えてこの世に派遣されていきます。この世は良い地とは言えないでしょう。しかし福音の力は圧倒的です。私たちは福音に信頼して、主イエスと主に続いた多くの信仰の先輩たちに倣って、愛と忍耐をもって福音の種をまき続けましょう。高山澄子さんのような種まきは素晴らしい証しですが、私たちはもっと平凡な日常生活の中で、身近な人に福音のたねをまくは働きを主から託されています。
 感謝と喜びをもって、福音の種を携えて出て行きましょう。

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、 良い知らせを伝える者の足は。」(イザヤ52:7)

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