主イエスの家族

マルコ福音書3章31〜35節
使徒言行録 1章12〜14節
2006年7月16日(日) 経堂緑岡教会全体修養会開会礼拝
熱田教会牧師 小林 光先生


(1)家族の絆とは

 「家族」から連想する言葉は、「絆」という言葉です。親子の絆、家族の絆とよく言います。「絆」を
辞書で調べますと、「つなぎとめるもの」と記されていました。親と子をつなぎとめるもの、家族の一人ひとりをつなぎとめるもの、その絆とは一体何でしょうか。
 一般的に言えば、それは血のつながり、「血縁関係」なのでしょう。
 「血は水よりも濃い」と言います。これは、いざという時はよその人よりも親や兄弟などの血のつながりのある者の方が強く結びつく、という意味です。ですから家族などのごく親しい人たちばかりで、よその人が混じっていないことを「水入らず」と言います。これは水(他人)が血の中に入らないこと、つまり血縁関係ばかりでという時に、「家族水入らず」と言うのです。
 確かに親子、兄弟、親戚などの血のつながりは親しさや、時には強さ、美しさを感じることがあります。しかし、私たちの現実は意外にもその反対の方が多いのではないでしょうか。義理や人情が絡んで最も醜い、それこそ「骨肉の争い」を見ることがあります。遺産相続のごたごたで心身共に疲れ果てた家族を知っています。家族の争いは、他人との争いよりも時として遠慮や容赦がなく、エゴがむき出しになる場合が多いのです。他人であるならば時間と共に、「水」に流すことができる場合でも、「血」のつながりにおいては簡単には流せずに、後々までシコリが残るのです。
 このように考えてまいりますと、血のつながりが家族の絆とは言えません。では、本当に家族の一人ひとりをつなぎとめるもの、結び合わせるもの、それは一体何でしょうか。血のつながりよりもはるかに確かなものがあります。私たちをしっかりと結び合わせるものがあります。御言葉はそのことを示しています。

(2)身内の誤解

 「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」(31節)
 イエスの母と兄弟たちが来たのは身内からの要請があったからでしょう。21節に「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」とあります。身内の者たちは主イエスの言動が理解できませんでした。「身内」ですから、主イエスのことは幼い時から、それこそヨチヨチ歩きの頃からよく知っているのです。しかし、その「知っている」という自分たちの固定観念、思い込みがかえってじゃまをして、狭い枠の内でしか主イエスを理解できなかったのです。身内の者たちの目には、家族を捨てて放浪し、気が変になっているとしか写らなかったのです。そして、自分たちでは取り押さえられなかったので、主イエスの母と兄弟姉妹たちを呼んだわけです。

(3)身内意識

 ここで少し、主イエスの家族についてお話しします。母マリアは夫ヨセフとの肉体的な関係によらず、聖霊なる神の力によってイエスを身ごもり、出産いたしました。しかし、その後は夫ヨセフとの間に4人の男の子、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンを産みました。また女の子も2人与えられたようです。そのことはマルコによる福音書6章に出てきます。ですから、この世的にはイエスは長男として、父ヨセフが亡くなった後、母マリアと6人の弟たち、妹たちの生活を支えるために、ヨセフと同じ大工職人として額に汗し、懸命に働いて家族を支えました。主イエスは家族を愛したのです。
 その家族がやって来ました。久しぶりの再会です。ところが主イエスの母と兄弟たちはなぜ「外に立ち」、中に入って行かなかったのでしょうか。なぜ、自分たちで主イエスを呼ばずに、「人をやって」主イエスを呼ばせたのでしょうか。それは大勢の人がいて、中に入って行けなかったのかもしれません。あるいは遠慮したのかもしれません。でもそれ以上に、自分たちは大勢の人々とは違う、特別なのだ、身内なのだ、家族なのだ、という思いがあったからではないでしょうか。
 大勢の人々は主イエスの周りに座って話を聴いているのです。ところが家族はその中に入って行こうとはせずに、カヤの外にいて、その外に主イエスを呼び出そうとしているのです。これは血のつながりがかえって主イエスとの距離を離してしまっていることを表しています。

(4)共聴関係

 「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、」(32節)
 主イエスの周りに座るというこの姿勢は明らかに、主イエスを中心にして神の御言葉を聴く姿勢です。そういう中で、何人かの人々の伝言によって伝えられたのです。それを聞いた主イエスは驚くべきことを語られました。
 「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、」(33節)
 人々は驚いたと思います。私たちも驚きます。しかし主イエスはここで、母マリアや兄弟姉妹たちを否定されたのでは決してありません。自分の母ではない、兄弟でもない、姉妹でもないと言っているのではありません。そうではなくて、このチャンスをとらえて、この機会を用いて、私たちと神さまとの関係を語られたのです。そして母マリアにも、兄弟姉妹たちにも、その一番大切なことを知ってもらうために、あえてこのような言い方をされたのです。
 「周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(34節〜35節)
 これは、「人類はみな兄弟、同じ地球に住む家族」という意味ではありません。ここで大切なのは、「主イエスの周りに座っている人々」という言葉が32節にも34節にも繰り返されている点です。主イエスを中心とし、その御言葉を共に聴く時に、そこにわたしの母がいる、わたしの兄弟姉妹がいる、と言われたのです。この御言葉は聖書の中でも、特に恵み溢れる御言葉の一つです。なぜならば、この時以来、主イエスを信じる者は皆、この家族の一員となる、その約束が語られているからです。主イエスを中心にして、御言葉を聴くために集まる「主イエスの家族」がここに誕生したのです。これは血のつながりによる「血縁関係」ではなく、共に主の御言葉に聴く「共聴関係」による主イエスの家族です。

(5)外から中へ

 母マリアも兄弟姉妹たちもこの時は、そう言われてもポカンとして何のことだか分からなかったかもしれません。自分たち家族は何なのだ、と思ったことでしょう。しかし主イエスが十字架にかかり、3日目に復活し、主イエスこそ神の独り子、救い主であることを知った時に、母マリアも兄弟姉妹たちも本当に変わりました。人々の「外に立つ」肉的な家族から、人々の中に入り、一緒に祈りを合わせる霊的な「主イエスの家族」に変えられたのです。使徒言行録1章13節〜14節に次のように記されています。

 「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の屋根に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」

 ここに本当の「主イエスの家族」がいます。そして、この祈りを共にする家族の上に聖霊が降り、教会が誕生したのです。それゆえに教会ではお互いに主イエスの兄弟姉妹と呼び合います。母と呼ぶ場合もあります。たとえばマザーテレサのマザーは、主イエスの母テレサです。

(6)主の赦しの中に

 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(35節)
 神の御心とは何でしょうか。それは、御言葉を聴くことです。主イエスを信じることです。そして互いに愛し合うことです。私たちは時として礼拝に出席しながらも人を嫌ったり、憎んだりいたします。しかし、主イエスはその人のことも、わたしの兄弟、わたしの母と呼んでくださいました。主イエスの十字架によって、罪を赦していただいた同じ兄弟姉妹として、憎んでいる相手を赦し、嫌っている相手を受け入れていく時に、そこに血のつながりよりもはるかにまさる主イエスによるつながり、赦し、赦される関係が生まれるのです。主イエスの赦しの中に、真の「主イエスの家族」が形づくられていくのです。


HOMEへ戻る