行くべき道

神学校日・伝道献身者奨励日礼拝
イザヤ書30章8〜17節
使徒言行録9章1〜19節
20006年10月8日
経堂緑岡教会  柳元宏史神学生


(1)礼拝の喜び

 神学校日・伝道献身者奨励日にあたり、み言葉を取り次ぐ機会を与えられたことを感謝いたします。
 さて、私が伝道者を志すのはこれが初めてではありません。以前、大学を卒業してすぐに夜学の神学校に入学しましたが、様々な出来事や、牧師になることへの不安と焦り、周りの神学生との比較から生じる劣等感のために、長年自分の進むべき道と信じていた伝道者の道を、簡単に放り投げてしまいました。求道中の頃から、あれほど熱心に礼拝に出かけていた私が、神学生として半年過ごす間に、全く教会に行けなくなりました。日曜になると具合が悪くなりました。登校拒否ならぬ、教会恐怖症とでもいえるのでしょうか。追い討ちをかけるように不規則な生活が続き体調を崩し、行く道をすっかり見失ってしまいました。教会からも離れ、神学校は退学しました。
 その後、就職し結婚もしました。その間、様々な経験と出会いに恵まれ、後で振り返ると、あの時の自分は狭い視野で、取り越し苦労ばかりしていたように思います。
 そして、さまざまな現実を背負い集う兄弟姉妹と共に、同じ場所、同じ時間に、同じ神様を仰いで、礼拝を捧げることができる。そして聖霊によってみ言葉が心に染みわたる。礼拝全体の出来事が、「今や、恵みのとき、今こそ、救いの日」(コリントU6:2)と思えるようになり、生きる本当の支えはここだった、と改めて気づかされました。み言葉から生きる希望が与えられました。そして、毎日祈る中で、この喜びと希望を、多くの方と共有したいと思うようになり、再び神学校に入学する決意が与えられました。

(2)黙して待つ

 本日の招詞、詩編62編の冒頭にこうあります。

「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは決して動揺しない。」

 神様の御心はどこにあるのかと、悩み、迷う時、「黙して待つ」ことはとても重要なことです。しかし、たとえ信仰があったとしてもそう信じきれずに、しばしば結論をいそいで自分で先走って行動してしまいます。神学校を辞めた時の私がそうでした。これからの将来に、目に見える確証を求めて、人生に焦り慌てていました。
 今朝与えられたイザヤ書30章には、そのような人間の弱さが指摘されると同時に、私が祈る中で再び伝道者を志す促しが与えられたように、祈りの中にこそ本当に進むべき道が備えられることが語られています。

(3)見える確証が欲しい

 現在のパレスチナ地方にあるユダ王国は、北はアッシリア、南はエジプトという大国に挟まれて、政治的に危機的な状況でした。ユダ王国はアッシリアに貢ぎ、隷属して蜜月関係を保ち、安全保障を確保しようとしました。しかしアッシリアは逆にユダ王国に攻め込もうと狙っていました。そこで一転、ユダ王国はエジプトと同盟を結んで、エジプトの王ファラオによってこの難を避けたいと考えました(1〜2節)。
 国を救うためには、これまで困難な中でも道を開いてくださった神よりも、エジプトの王と同盟を結んだほうが外交上必要だ、と思ったのです。
 しかし、預言者イザヤは「エジプトに頼ってもエジプトは動きっこない。かえって空しい」と言います(7節)。
 ユダ王国の指導者はこんなイザヤの預言は聞きたくありません。
「彼らは……預言者に向って『真実を我々に預言するな。……道から離れ、行くべき道をそれ、我々の前でイスラエルの聖なる方について語る事をやめよ』と言う」(10〜11節)。
 彼らは何が真実なのか、「行くべき道」なのか、本当は分かっているのです。しかし不安でじっとしていられない。見えないものではなく、見える確証が欲しかったのです。
 預言者イザヤは鋭く指摘します。
「お前たちは、この言葉を拒み抑圧と不正に頼り、それを支えとしているゆえ、この罪は、お前たちにとって、高い城壁に破れが生じ、崩れ落ちるようなものだ」(12〜13節)。
 ここでの「抑圧」とは、ユダ王国がアッシリアと戦う姿勢を続ける限り、軍事費は増大し、エジプトへの貢物も増え、それが国民のさらに厳しい税負担によってまかなわれ、貧しい庶民をますます貧しくさせ、庶民を自ら抑圧することになるということです。神の言葉を求めず、自分の力に頼る戦争を行う政策こそが「不正」である、と預言者イザヤは語ります。

(4)憐れみ深い神

 しかし、神様はそんなユダ王国でさえ簡単には見捨てません。神様は、預言者イザヤを通してこう語ります。「お前たちは立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(15節)。
 別の訳では、「安息の中で、お前たちは救われ、静けさと信頼において、お前たちの力は甦る。休むことが救いであり、静かに信頼する事が力である」となっていました。
「静かにする」それは、「安息」、「休む」ということです。安息日。それは、単に人間が体を休ませ英気を養う日、というのではありません。日常の煩雑から離れ、自分のかたくなな思いから離れて、神がなされたおおいなるみ業を仰いで礼拝し、自分を見つめ直し、真実に「行くべき道」を再確認する日です。そこには、神様を忘れてしまっていた自分を悔いる心が与えられ、そして神様に立ち返るチャンスが与えられています。「静かにすること」それは、「祈り」とも言えるかもしれません。神に語りかける祈りにこそ、本当の救いがある。争いを目的とする「騒がしさ」や「喧騒」に信頼したとしても、結局は痛みを背負うか、逆にそれを与えることにしかならない。神の与えてくださる真実の平和への、安らかな、静かな信頼にこそ、本当の揺るがない力がある。それこそが本当の信仰者の「力」なんだ、と預言者イザヤは語ります。

(5)祈りの中で

 本日の新約聖書の箇所は、有名な「パウロの回心」の出来事です。キリスト者を殺し、迫害しながらダマスコ途上を歩いていたパウロは、突然の光に地に倒れました。自力で歩けず、目も見えなくなった彼は不安のどん底にあったと思います。彼はひとり祈り、なすべき道が示されることを待ちました。そこに、イエス様は篤信なアナニアを遣わし、アナニアはパウロに手を置きます。そして聖霊が与えられ、目からうろこのようなものが落ちた、と聖書は伝えます。再び見えるようになった目に映るものは同じでも、その見方や意味は全く違うものになったのではないでしょうか。
 パウロは、持てるものすべてを手放した時、求めるべきところがどこであるか分かりました。「本当に信じる神は、今まで自分が迫害してきたイエス様だった。」そのことに気付いた時、全く違う視点で聖書の教えが彼の目の前に新しい意味で立ち上がってきたのだと思います。そして彼は、洗礼を受け、今までの生き方に死んで、180度違った生き方を始めました。それはキリストの愛を伝える伝道者となることです。正しいと信じて迫害していた道を捨てて、伝道者という真実の「行くべき道」への大きな転換でした。

(6)インマヌエルの神様

 ユダ王国が道からはずれても、神は預言者イザヤを通して、繰り返し見捨てずに語りかけ、「騒ぎ立てずに静かにし、神を仰ぎ、安らかに信頼すること」を教えました。ユダ王国やパウロにそうであったように、どんな時でも誰にでも、神様は傍にいてくださっている。旧新約聖書に一貫していえることは、「インマヌエル」=神様は共にいてくださる、ということです。神様はどのような時にも共にいてくださり、語りかけてくださっている。そこに耳をそばだて、聖書を通し、また祈る中で、イエス様が示してくださる道を「行くべき道」と安らかに信じたいと思います。
 「おまえたちは立ち返って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(15節)。


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