共に成長する

キリスト教教育週間
申命記6章4〜9節
マタイによる福音書18章1〜5節
2006年10月15日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)キリスト教教育週間

 本日から来週の日曜日22日まで、NCC(日本キリスト教協議会)では、キリスト教教育週間と定めています。今年のテーマは、「願いなさい、そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ16:24)という言葉であります。先ほど招詞で読んでいただきました。
 このキリスト教教育週間の折に、日本の教育のあり方にも心を留め、祈りを新たにしていきたいと思います。おりしも、教育基本法の「改正」が叫ばれています今日、私たちは、そういう公教育に対しても、目を光らせ、見張りの役割を果たしていかなければならないと思っています。

(2)ユダヤ教の教育

 教会においては、私たちは信仰の教育の大切さを、心にとめなければならないでありましょう。ユダヤ教の伝統において、信仰の教育はとても重んじられてきました。自分たちの信仰をいかに子どもたちに伝えていくか。それは信仰共同体の根幹にかかわる使命でした。(共同体の外の人に信仰を伝える、いわゆる伝道はしませんでした。)それゆえにこそ、ユダヤ人は世界中に散らばっても、自分たちの言葉を保ちながら、聖書の教えを継承していったのです。
 今日読んでいただきました申命記の言葉は、そのことをよく示していると思います。
 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4〜5)。これが、信仰教育の基本であります。
 「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(同6〜7節)。
「寝ているときも起きているときも」というのですから、四六時中です。寝ているときに、子守歌のように聞かされた言葉が、ずっとその子、その人を養うものになるのです。お母さんになったことのある方は、寝るときの絵本の読み聞かせがいかに大切かということを、よく知っておられるのではないでしょうか。しかしそれでもまだ足りないと言うのです。
 「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(同8〜9節)。
 私たち人間は、つい何でも忘れがちですから、手に結んで、「あっ、これ何だったかな。そうだ。神様のことを覚えなければならない」というしるしにしたのです。「額に付ける」というのは、人の目に付くようにということでしょう。自分の額ではなく、人の額を見て、「そうだ。神様のことを覚えなければ」というわけです。「人から見られている」ということを意識して、自分の襟をただすということもあるでしょう。
 そのようにして、「神を愛する」ことを覚え、それを子どもたちに伝えていく。その他の事柄は、すべてそれに仕えるため、それを徹底するため、それを内容豊かにするためにあるのです。

(3)教会での教育

 今日、もう一つ読んでいただきましたのは、マタイ福音書の18章の最初の部分ですが、このところに記されていることも、教育に深い関係のある言葉であります。
このとき、弟子たちは、こういう風に主イエスに問いかけをしたしました。
 「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(1節)。
 私たちの世界は何事も競争、競争で、競争に明け暮れています。子どもたちも、学校でランクづけされたり、学校の中でもまた順位付けられたりいたします。そして競争に勝つ力をもった子どもが賢い子どもとされます。スポーツの場合はまだしも、それが勉強の競争になってくると、豊かな教育は望むことはできないのではないでしょうか。テクニックを身に着けるような、小手先の教育になってしまいます。知恵を学ぶというよりは、勝つためのノウハウを学ぶようになってしまう。学問が手段となってしまうのです。
 そうした中で、教会が行う教育というのは、今、申命記の言葉に見ましたように、この世の価値観とは全く違うところにあります。教会は、何が人生で最も大事なことであるかを教える場であります。それは一言で言えば、神を愛することと人を愛することと言えるでしょう。受験競争に勝つ教育であれば、日曜日に教会へ来るよりも、塾へ行った方がいいでしょう。
 これは子どもに限らず、大人であっても、そうです。会社の中で競争がある。(営業)成績を比較される。会社は他の会社と競争する。そのような競争社会の中で生き残っていかなければならない。日曜日に教会へ行くなどということは、時間の無駄遣いのように思われる。人よりも少しでも前に進み、少しでも高く上がり、少しでも大きくなるために行動する。前にいること、強いこと、高いこと、大きいことがよしとされるからです。
 しかし私たちは、なぜ日曜日に教会へ来るのでしょうか。もちろん、主が教会へと、私たちを招きいれてくださったからでありますが、私たちの視点から言えば、自分の生活の中心点、あるいは原点を確認するために、ここに集まってくると言えるのではないでしょうか。私たちは何によって生きるのか。何によって生かされているのか。教会では、そういうことを学ぶのです。
 競争に明け暮れて、気が付いたら、もう死を迎える時になっていた。そういう人生はむなしいのではないでしょうか。もちろん現役を退いて、静かに自分を振り返られるようになってから、教会に来る。それでも遅すぎるということは決してありません。自分なりの時と場所で、その原点に立ち返って行く。どこまで到達したかによってではなくて、どちらを向いて生きるかによって、私たちは、生きる意味や喜びを見出すのであります。信仰をもって生きるということは、そうしたことを確認することであろうかと思います。

(4)弟子たちの競争意識

 ただし今日の聖書箇所を読んで、どきっとさせられることがありました。それは、イエス・キリストの弟子たちでさえも、この世の競争と同じような発想で、イエス・キリストに質問しているということです。「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」(1節)。イエス・キリストの弟子たちの中でも順位争いがあったことを伺わせます。主イエスのお話を毎日聞いて、何が大切であるかわきまえている弟子であれば、競争など関係ないように思われますが、実際はそうではなかった。誰が一番か。福音書を読む限りでは、恐らくペトロという弟子が名実共に、一番弟子であったようですが、そういうことを快く思わなかった弟子もあったのだと思います。イエス・キリストを裏切ることになるイスカリオテのユダという人も、非常に有能な人であったようですから、もしかすると、こうした弟子の順位争いに敗れて、ひがんでいたのかも知れません。

(5)「子供のようになる」とは

 さて、弟子たちの問いに対して、主イエスは不思議な答え方をされました。

「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ』」(2〜4節)。

 これは一体、どういうことでしょうか。単純明快な言葉のように思えますが、その意味を考えていきますと、案外、難しい言葉です。「子供の心のように純真であれ」、ということなのでしょうか。
 使徒パウロは面白いことを言っています。
 「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」(Tコリント14:20)。悪いことについては子どもの幼さを学べ、ということでしょうか。
 もっとも子どもの心は、それほど純真とも言えないように思います。子どもの世界は子どもの世界で残酷な一面があります。「いじめ」事件がいろいろと発覚してきていますが、子どもの世界では、「いじめ」においても、大人の世界以上に、遠慮、自制心が働かない分、露骨になったりします。
 あるいは子どもだって、大人同様、あるいはそれ以上に、一番になりたいと思っているのではないでしょうか。
 そもそも「誰が一番偉いのか」という問いそのものが、ある意味で子どもっぽい質問であると思います。そういう子どもっぽい質問に、イエス様が「子供を模範にせよ」とおっしゃった。何かなぞかけのようです。
 そもそも私たち大人は子どもに戻ることはできませんので、子どものようになれと言われても、無理だと思ってしまいます。
 私たちは一体、子どもの何を学ぶのか。その答えはあまり一つに限定してしまわない方がよいかと思いますが、ひとつ重要なことに、こういうことがあるのではないでしょうか。それは、子どもというのは、「本能的に自分が一人で生きているのではないということを知っている」、「一人では生きられないということを知っている」ということです。一人で遊んでいるようであっても、いつも親の蔭を確認しています。親の目に守られていることを知っている時にこそ、自由でいることができる。それが子どもです。それなしに生きていけないことを知っている。それが子どもです。
 これは、信仰ということと深い関係があります。子どもはそうした親の存在の向こうに、自然に神様を見ているのではないでしょうか。自分を守ってくれる存在。自分をそのままで受け止めてくださるお方がおられる。大人よりも自然に、大人が教える前から、そのことをわきまえているのです。子どもが祈るときには、理論抜きにして、大人が祈るとき以上に、本気で神様と向き合っている。そのことを思うのです。

(6)真の謙遜

 また「自分を低くして子供のようになる」とは、どういうことでしょうか。天国に入るためのひとつのテクニックなのでしょうか。私たち日本人は、「自分を低くする」のが得意です。見せ掛けの謙遜ということをマナーとして身に着けています。心の中では、本当は自分の方が上だと思っていても、「いや自分は、たいしたことはないですよ」と言います。自分を自慢して、見せびらかしていると、反感を買います。謙遜に、謙遜にしていると、かえって人が持ち上げてくれる。それが処世術のようになってしまう。その方がかえって高くなれる。その方がかえって出世もする。主イエスは、そういう処世術のようなことをおっしゃっているのでしょうか。
 私は、そうではなく、もっと深いことを言おうとされたのだと思います。そこでこそ、主イエスの生き方を学ぶ。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために」(20:28)、この世に来たように、あなたたちも、その生き様を通して、本当の謙遜を学べ、ということです。それはうわべのことではなく、私たちの生き方そのものにかかわることであります。

(7)子どもの教会

 私たちの教会では、教会学校という言葉を今も使っていますが、最近、この言葉を使わないで、「子どもの教会」という呼び名が多くなってきました。そこには、意識的な考え方の枠組みの変更(パラダイムシフト)があるのです。「教会学校は果たして学校なのか」という問いです。
 学校と言うと、生徒がいて先生がいる。私が子どもの頃、教会学校の礼拝では、生徒がいっぱいいました。そして礼拝中、生徒が騒いでいたら、先生がやってきて、「静かにしろ。礼拝中だぞ」と、がつんとやる。私などは、随分、はめをはずした生徒でしたから、先生もお困りだったであろうと思います。そこでは先生は、一人の礼拝者であるよりも、子どもの監視者であり、教える人です。しかしそこで、先生も実は先生ではなく、同伴者であり、同時に一人の礼拝者であるということです。あるいは、「教会学校」の礼拝は、どうもまだ本物の礼拝ではなく、大人の礼拝に行くまでの学校という感じが否めませんが、「いや子ども礼拝も、本当の礼拝なのだ」ということを伝えようとしていると思います。
 そこでは、共に成長する。大人である私たちも子どもちから大事なことを学ぶのです。周辺的なことだけではなく、信仰の本質について、教えられることもしばしばあります。私たちは大人になるにつれて、親から独立していきます。それは必要なことですし、自然な成長の過程です。しかしそれに伴って、残念なことに、しばしば神様からも独立してしまうのです。
 そういうことがどうしても起きてくるだけに、かえって、小さい頃に教会学校へ通ったり、キリスト教の幼稚園や小中高に通ったりすることはとても意味のあることだと思います。幼稚園を卒業しても、あるいは学校を卒業しても、大人になるにつれて、教会学校から遠ざかることがあったとしても、祈ること、賛美すること、聖書を読むことが、原体験として残るのです。そしてそれが大人になって、ふと芽を出す。「昔、自分は教会学校へ通っていた。」種が植えられているのです。もちろん、途絶えない方がいいに越したことはありません。子どもの頃から今にいたるまで、教会につながっている方も大勢おられることでしょう。
 イスラエルの共同体が、信仰の教育を、人生の教育の根幹にすえて大事にしていったように、私たちも教会が教会ならではの教育ができるように、心に留めて支えていきたいと思います。


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