宝を天に積む

秋の特別礼拝説教
箴言3章13〜21節
ルカによる福音書12章13〜21節
2006年10月22日
太 田 愛 人 先生


(1)「遺産」 過多症

 今読んでいただきました譬え話は、収穫期における財産分与の問題であります。私共の世界においても、やはり財産分与という問題が起こります。亡くなりますと分与の問題が生じます。家族の間で了承は一応つく。しかしその結果をもってそれぞれの家庭に帰りますと、子供や奥さんから色々な苦情、文句が出る。
 戦前でありますと、長男が家督相続しておりました。戦後になってこの争いが非常に増えてまいりました。これは病気ですね。この病気が、今どんどん流行っているのです。これは「遺産過多症」といいます。「胃酸過多症」の場合は、食べる物で上手く調整し、薬を飲めばよいのですが、この日本に蔓延した「遺産過多症」、これは死に至る病ですね。貧乏であれば、お互いに協力して、お父さん、お母さんを助ける。自分の物を少し融通してやる。お姉さんのお古を私が着る。兎にも角にもそうした助け合いがありました。しかし富の時代になりますと、こうはいきません。
 ここではどうだったかと申しますと、穀物がとれ過ぎて困る。どんどん倉が建てられる。それでも足りなくて大きな倉が建てられる。そして「まあ兎に角飲んで食って楽しもう」と自分の心に言い聞かせるのであります。大変羨ましいご身分です。しかしこれに対してイエス様は、「愚か者よ」と言っております。これは信仰からの判断であります。人間世界におきましては、この声が必要なのです。「羨ましい、 あやかりたい」では、その国は内側から蝕まれていきます。金ばかり貯めて、金の数字だけ増やして、「愛読書は」と聞かれたら、「貯金通帳です」なんていう愚かな人が、現にいるわけです。「貯金通帳の数字がどんどん増えていく。これは最大の読書の楽しみです。」聖書なんて開こうとしない。
 しかしイエス様は言われる。「今宵汝の命取らるべし。」お前の命が、今晩なくなったらどうなるのか。倉の中に穀物が溢れています。翌年からどんどん虫が入ります。全部虫の餌になってしまう。飢えた農民に穀物がゆきわたりません。こうしたことが「愚か」と言われております。
 もう一つ私共には蓄える場所があるということを、イエス様は今の譬え話のすぐ後で教えられました。

「だから言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが神は烏を養ってくださる」(ルカ12・22・24)。

 烏は倉を持っておりません。蓄えない。しかし神は養ってくださる。これをイエス様は呈示されて、人間に教え給いました。

(2)金持貧乏と貧乏金持

 私共は貧乏を嫌います。戦前の貧しさというものに目をつぶりたがります。少しでも豊かになろうと思いました。61年前までは、いかに国が強くなるかということで、軍備に軍備を重ねました。しかしその挙句軍備は打ち壊されてしまいました。
 新渡戸稲造は昭和7年、「日本を滅ぼすのは共産主義と軍閥である、だが今の日本は軍閥の方が怖い」とひとこと言ったために、迫害されました。病気になり聖路加病院に入院し、それから退院して間もなく、「アメリカ、カナダに渡って日本のために弁じて来い」と命令されて彼の地へ行き、客死してしまいました。
 戦後、日本は軍備の代わりに経済的に豊かになる。これが国是でありました。いかに富むかということで競ってまいりました。
 貧と貪という言葉は大変似ております。金持になってもちっとも金持らしくない、みすぼらしい。こういうのは貪と言う。他方で、貧乏していても清々している、そういう人がいる。賀川豊彦が「金持貧乏」と、「貧乏金持」というのを二つに分けて言っている。金は持っていながらちっとも金持らしくない貧相な男がいる。金持貧乏という。これはどういう現象かといいますと、金を含めて物を持つということに価値を置く。それと対照的なのは、持つことよりも、いかに自分が生きるか、存在するかということを真剣に考えていく。こういう二つがあるのです。
 しかし最近、この金持を羨ましいという声があるのです。「先生、あの金持の死に方、いいですね。」「えっ?あれは裁きとして死んだんじゃないですか!」「そうじゃないですよ。『今宵汝の命、取らるべし。』あれ、いいですよ。コロっと逝っちゃう、苦しまないで、長患いせず誰の世話にもならないで、一晩のうちに逝っちゃう。これ理想的ですよ。」
 こういう死に方もある。しかしこれもやはりひとつの病気なんだそうです。ある社会福祉の大家から聞いたのですが、「PK症状」と言うのだそうです。「PKって、 サッカーの用語ですか。」「そんなことじゃない。ポックリ、コロっと逝っちゃうこと。誰にも迷惑かけない。」
 老人天国日本の、一つの現象であります。「なるほど」と思うかもしれません。「しかし残された人はどうなるんですか」と聞きますと、「そこまでは気がつかなかった」と。やはり倉には虫がはびこる。残った物は先程申し上げましたような遺産過多症の人間が寄ってたかって、争いが大きくなってしまうのがオチでしょう。それではどうすればいいのでしょうか、天国に行くためには。

(3)イエス様の遺言

 イエス様はちゃんと教えております。「宝を天に積みなさい。」天に銀行もなければ、預金通帳もございませんが、どうすればいいのか。イエス様は私共に遺言を語りました。マタイ福音書25章に、その遺言は記されています。これはイエス様が受難の歴史に入る足を踏み入れる前に語った最後の説教ですから、イエス様の遺言と思ってもよろしいでしょう。

 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(マタイ25・35)。

 病気、飢え、乾き、宿なし、こうした人々に君たちは、手をさしのべなさい。これを遺言にして、イエス様は十字架にかかっていかれました。「天に宝を積む」ということは、お空に向かって宝を積むのではございません。航空機を発達させることではございません。すぐ隣の病める人、困っている人、金のない人たちのために、少しでも援助して差し上げなさい。これが主イエスの残された「宝を天に積む」の教えの具体化であります。

(4)野村胡堂の例

 新渡戸稲造の教え子に野村胡堂という作家がおりました。銭形平次で有名になった人です。野村胡堂、死ぬ前に遺言を残しました。「金を遣いなさい」と。金はどれだけあったかといいますと、昭和31年の段階で一億円あった。今だったらどんな額でしょうね。どうしてそんな金があったかといいますと、野村胡堂がお仲人した人に井深大という方がおりました。野村胡堂をお父さんのようにしていました。戦後になってから東京通信工業という企業を興し、かなり野村胡堂も出資しました。それが大分よくなって、白木屋の4階に工場を移した。ところが、そこはダンスホールになるから出て行けと言われ、行き場がなくなった。御殿山にいい土地が見つかった。五万円かかるが、どうしても足りない。それで井深さんが盛田昭夫さんと二人で、野村胡堂のところへ「新円」で金を貸してくれるよう、頼みに行った。胡堂は、新円で四万円、どーんと出してやった。それで御殿山に土地が買えた。それからどんどん工場やビルが出来た。今や世界のソニーになっている。ですから金は儲かって、借りた金を返しに行ったら、「私は金貸しではない。 持って帰りなさい。」と言って受け取らない。しょうがないので、自社株にしたらそれが一億円になった。また届けに行ったらやはり「いらない」と言う。 一個人が企業にお金を出して企業が起ち上がる。このことをエンジェルといいます。英和辞書を引いてみると、第一に、受胎告知のあの「天の使い」とあり、もっと先へいくと、「一個人が企業のために投資して、その企業が起ち上がる。」とあります。野村胡堂、すっかりエンジェルにされてしまう。日本経済新聞に「エンジェル野村胡堂、銭形平次の投げ銭がソニーを救う」などという見出しで書かれております。
 とうとうそのお金を、困っている人のために使おうと、宝を天に積む奨学金制度を作ります。その奨学金を受けた人は、今日まで千人にのぼります。しかもその奨学金たるや、成人して豊かになって返済しようとしても、 野村胡堂は 「そんなものいらない」 という。月額高校生三万円、大学生五万円、研究者五万円、海外留学生一五万円。このような奨学金制度に文部省がびっくりして、「前例がありませんから駄目です」と言ってくる。それで乗り出したのが山際さんという日銀総裁。さすがに文部省はノーと言えなかった。
 胡堂も偉いけれど、奥さんも偉い。上代タノという日本女子大の学長が、図書館を造るために募金集めに廻っていた。胡堂夫人にソニーを紹介してくれるよう頼みに行ったところ、募金目標金額が一億五千万円と聞き、奥へ引っ込んで、小切手帳を持ってきて、その場で五千万円の小切手を書いた。三分の一が賄えてしまった。
 こうした不思議な夫婦がいたのです。この夫婦のモットーが、「天に宝を積む」、もう一つは、「右手のことを左手に知らせるな (匿名でなさい)」です。これを実行して、どんどんお金を出し続けていきました。
 今でも胡堂のために、奨学金を受けた東京芸大の教授たちが、お礼奉公と称して年に二回、胡堂の故郷岩手県紫波町にある野村胡堂あらえびす記念館に来て、只働きでコンサートをやるのです。恩義を受けたからと。こうした合奏が、もう十何年続けられております。
 イエス様の言葉は夢物語であろうと言われる一方、いやこれは非常に現実的なお話であるということを、こうした事例を通して知ることができるのであります。私共はもう一度聖書に還り、主イエスの語り給うた、いかに生きるか、いかに死するか、いかに財産を残すか、ということを考えていかなければならないと思います。(文責:松本敏之)


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