天地を結ぶ場所、教会

召天者記念礼拝
申命記19章15節
マタイ福音書18章15〜20節
2006年11月5日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)フィナードスの日

 本日、11月第一日曜日は、日本基督教団のカレンダーでは、聖徒の日または永眠者記念日となっております。世界的な教会暦(教会行事)としては、11月1日が聖徒の日(All Saints' Day、諸聖人の日、万聖節)、その翌日が万霊節、諸魂日(All Soul's Day)であります。ブラジルでも、11月2日はフィナードスの日(死者の日)と言って、お墓参りをする日になっていました。
 私は7年間ブラジルの教会で牧師をいたしましたが、最初にブラジルのサンパウロに着いたのが1991年の10月の終わりであったので、すぐにフィナードスの日が来ました。日系の人たちは「ブラジルのお盆です」と言っていました。11月はじめと言いますと、サンパウロは春から初夏にかけての美しい季節です。街には、うす紫の上品な花が大きな木に咲いていました。ジャカランダの花です。私たちは、この美しい木を目にして、日本の後援会の機関紙に、早速『ジャカランダのかおり』という名前をつけました。後で、『先生、ジャカランダというのは、あまり香りはしないんですけど』と言われてがっかりしましたが。
 日系人が大きくシェアを広げた職種に花の業界があります。ランの栽培など見事です。また日系人は、日本からブラジルに菊を持ち込み、菊の栽培もしています。お墓参りの時など、日本人は先祖のお墓によく菊をもっていきます。ふるさと日本を思う気持ちがあるのでしょう。
 ブラジル人のお墓の花は、色とりどりです。不届き者がいまして、他人のお墓からお花をそっとぬいて自分の家族のお墓に供えたりいたします。もっとひどいのは、お墓からぬいたお花を、また道端で売るという。ブラジルならではの話です。
 さてそんなことで、私のブラジル生活の最初に連れて行ってもらったところが、墓地であったわけですが、その時に、「ああお墓参りという習慣は、どこにでもあるのだな」と思った次第です。

(2)お墓参りの意味

 お墓参りという行為は、何か後ろ向きの行為のように思えますが、クリスチャンにとって、お墓参りとは何なのでしょうか。別に先祖の供養に行くわけではありません。
 お墓というのは、人生の終着駅であります。お墓に行きますと、しばしばそのお墓に入っている人の名前が刻まれており、そのところにその人の没年月日が記されています。生年月日が記されていることもあります。私は、人間の一生というのは、結局のところ、最終的に記録として残るのはそれだけなのだなと思うのです。名前。その人の生年月日と没年月日。いつこの世界にいつやってきて、いつ去って行ったか。
 誰であれ、お墓で思い浮かべることというのは、もちろん、亡くなった親しい方のことでしょう。お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、兄弟姉妹、時には、悲しいことですが自分の子ども。その人たちとの交わり。その人たちから受けた恵み。その人がいなければ、今の自分はなかった。お墓で、その感謝の気持ちを新たにするのです。信仰を持っている人の場合には、その人を自分たちの交わりの中に置いてくださった神様への感謝もあるでしょう。
 しかし、私は、クリスチャンのお墓参りには、さらにもう一つ別の局面があると思うのです。お墓は、天を見上げる場所だということです。先ほど招詞で読んでいただきましたフィリピの信徒への手紙3章20節に「わたしたちの本国は天にあります」という言葉がありますが、まさにそのことを思い浮かべるのです。その人の遺体(ブラジルでは土葬です)、その人のお骨は、そのお墓の中に納めてあるけれども、その人はいつまでも地面の中のその場所に眠っているわけではありません。すでに天に移されている。逆説的な言い方をすれば、その人のお墓にあって、その人がそこにはいないことを確認するのです。それがクリスチャンのお墓参りの意味ではないでしょうか。

(3)天の国への鍵

 さて今日は、マタイ福音書18章15節以下を読んでいただきましたが、この箇所は、天と地を結ぶということについて述べています。
 「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18節)。
 「あなたがた」とは誰か。さかのぼってみますと、ある人が罪を犯した場合の扱いについて記されています。その中に、「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(17節)とあります。ここに「教会」という言葉が使われているのは、実は福音書では例外的です。教会ができたのは、使徒言行録の時代だからです。全福音書の中で2回だけ出てきます。もう一つの箇所は、同じマタイ福音書の16章18節です。シモン・ペトロは、イエス・キリストを指して「あなたはメシア、生ける神の子です」という真っ直ぐな信仰告白をしましたが、そのペトロに対して、イエス様は「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃったのです。そして続けて、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(19節)と言われました。
 今日の18章の言葉は、この16章の言葉をさらに展開したものと言えるでしょう。
 イエス・キリストは、教会に天の国への鍵を授けられた。もちろん、「天の国」というのは、そのまま「死後の世界」という意味ではありません。それは、「神の世界」「神様が直接支配される世界」のことです。もっともこの地上世界も神様の世界です。神様は天と地を創造されたのです。この地上世界においては、今なお、神の力以外の力が支配しているかのように見えるけれども、天上世界においては、すべてが御心のままに動いている。神様の支配がはっきりと前面に出て、行き届いている。それが天の国です。だからこそ私たちは、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。御心は天においてはすでに成就しているのです。

(4)天の国の前味わい

 教会と言う場所は、この地上世界にあって、天の国という場所を、かいま見せてくれるところです。そこは一体どんな世界なのか。そこではどういう法則が支配しているのか。この世、地上世界では、さまざまなことに束縛されているけれども、かの地ではそうした束縛が何もない。そして私たちと神様の間にも隔てるものがなく、顔と顔を合わせるように、共にいられる世界であります。聖書によれば、イエス・キリストが、それを実現してくださるのです。そして聖書によれば、イエス・キリストはその天の国、神様の直接支配される世界への入り口の鍵を教会に授けられたのです。
 教会において、私たちは、天の国がどういう国であるかを垣間見ることができる、と言いましたが、それだけではありません。私たちは、教会において天の国を経験することがゆるされているのです。「天の国の前味わい」と言ってもいいでしょう。しかしそれは、教会にとって自明のことではなく、つまり教会が当たり前のようにして持っているのではなく、ただただイエス・キリストがそう宣言してくださったからであります。教会は、イエス・キリストの体です。イエス・キリストの体であるがゆえに、天に属するこのお方の本国、天国につながることができるのです。

(5)二人または三人の証言によって

 今日の箇所を、もう少し全体の流れの中で、見ていきましょう。「兄弟の忠告」と題されています。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」(15節)と始まります。「みんなの前でその人の罪を公表してはいけない」というのです。ここには罪を犯した人への思いやりがあります。何のために、そのように忠告するのか。裁くためではなく、その人が悔い改めて、神に立ち返るためです。「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。
 しかし、それでもその人が聞き入れない場合は、「公的手段に出よ」と言います。ここではむしろ逆に、「一人でやるな。必ず証人を伴え」ということです。「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるためである」(16節)。これは、旧約聖書以来の伝統でありました。これは、先ほど読んでいた申命記の言葉に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」(申命記19:15)。これもやはりできるだけ冤罪を避け、その犯罪を客観的基準で裁くための努力でありました。しかしだからこそ、「偽証してはならない」と十戒の言葉が大きな意味をもっていたのです。お金を渡して、偽証させることがありました。偽証がどれだけ大きな罪であるか。たった一言が、誰かの生涯を台無しにしてしまう程のものであったのです。
 「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことを聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(14節)。異邦人・徴税人とは、神様の救いの輪の外にいる人と考えられていました。教会の裁判が、この世の裁判の後に来るというあたりが、今日の市民感覚と違うところであろうかと思います。この世の裁判よりも、教会の裁きの方が恐れられていた。なぜなら救いからもれる。永遠の裁きを受けるということであったからです。
 教会の側でも、このことで罪を犯してきたことを、私たちは正直に認めなければならないでしょう。魔女裁判など怪しい裁判がありました。教会が神様の名前、あるいはイエス・キリストの名前によって、誰かを断罪するということがしばしば行われてきました。その本人は善意でやっていたかも知れないけれども、とんでもない間違いを犯してきたのです。そうした過去の過ちについて、ローマ・カトリック教会も、プロテスタント教会も、それぞれの立場から謝罪をしております。教会は、過去を正視して悔い改めをしなければならないと思っております。
 しかしそれと同時に、イエス・キリストが教会に対して、「罪のゆるし」「天の国への鍵」について、大きな委託をなされているということを、心して聞かなければならないと思います。教会こそ、私たちがイエス・キリストを知る場所です。イエス・キリストを知る場所であるがゆえに、天の国を知る場所として定めておられるのです。

(6)教会とは

 イエス・キリストは、この「二人または三人」という言葉から、新たな積極的次元のことを展開されました。

「またはっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(19〜20節)。

 皆さんも、ぜひこの言葉を覚えていただきたいと思います。この言葉は、プロテスタント教会の「教会」の大事な定義のひとつであると思います。教会とは何か。それは建物のことではありません。建物のない教会もあります。二人または三人が、イエス・キリストの名によって集まっているところ、そこに教会があるのです。人と人とが集まる。そこに教会が始まっているのです。
 私たちの教会も、イエス・キリストの名によって集まっている群れであります。その中にはまだ洗礼を受けておられない方もあるわけですが、やはりその人もイエス・キリストの名によって、ここに集められているのです。イエス様は、ここに共にいてくださる。大きな約束の言葉です。

(7)召天者を覚えて

 私たちは今日、この教会に連なられた召天者を心に留めて集まっております。それぞれお父様、お母様、お連れ合い、心に留めておられることと思います。この1年間、私たちの教会に属する方で、天に召された方は以下の4人の方々でありました。
 平尾てい姉(3月22日召天)、山本嘉子姉(4月15日召天)、山崎初太郎兄(5月1日召天)、安井みつ姉(6月15日召天)、平尾さんは88歳でしたが、あとの方はみんな90歳以上でした。長い生涯を神様によって祝福されて、御許に召された方々であると思います。もう一人、心に留めておりますのは、野口慶人君であります。彼は、逆にとても若く、15歳で、教会学校中学科の生徒でありました。昨年12月12日に、突然、交通事故で天に召されたのです。お父様もお母様はじめ、妹さん、弟さん、親しい友人たち、そして私たち教会の者にとっても、とてもショッキングな、そして悲しい出来事でした。そこに秘められている神様の御心を計りかねる。そういう怒りにも満ちた強い感情を抑えることができませんでしたが、あれから早1年になろうとしています。
 しかしながら、私たちは、今は目に見えない、まだ答えが出ない出来事の中にも、神様が共にいて慰めと励ましを与えてくださる、そしていつの日かその意味を明らかにしてくださるということを信じたいと思うのです。
 これらの方々が今すでにおられる天を見上げながら、改めてイエス・キリストがその天と地を結んでくださっていることを、心に留めたいと思います。


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