希 望

待降節第1主日礼拝
エレミヤ書14章8〜9節
ローマの信徒への手紙5章1〜5節
2006年12月3日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)今年度のクリスマス・テーマ

 経堂緑岡教会では、今年のクリスマスのテーマを、「希望・愛・喜び・平和−クリスマスの贈りもの」といたしました。この「希望・愛・喜び・平和」というのは、アメリカの教会などでしばしば見られるアドベントの週ごとのテーマです。アドベントの4週間、週ごとに、Hope, Love, Joy, Peaceというテーマを掲げ、時には礼拝堂の中に、大きくこれを吊り下げております。
 ちなみに、今日、読んでおりますローマの信徒への手紙5章1〜5節は、私たちのクリスマス・テーマである「希望」「愛」「喜び」「平和」のすべての要素を含んでいる珍しい箇所であります。「平和」は1節に、「希望」は2節と5節に、「愛」は5節に出てきます。
 「喜び」という言葉は直接には出てきませんが、2節と3節で、「誇りとする」と訳された言葉は、実は「喜ぶ」とも訳せる言葉なのです。実際、私たちが用いていた口語訳聖書では、これを「喜ぶ」と訳していました。

「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである」(2〜4節、口語訳)。

 そういう風に考えますと、この短い言葉の中に、聖書の大事なメッセージがぎっしりと詰まっていると思いました。

(2)希望のイメージ

 さて、今日のテーマ、そして今週のテーマは、「希望」であります。
 皆さんは、「希望」という言葉に、どんなイメージをお持ちでしょうか。一般的に言えば、まだ実現していない夢、こちら側の思い、ということではないでしょうか。「それは単なる私の希望です」と言ったり、何かを選ぶのに、「第一希望」「第二希望」と言ったりします。そのことは暗に、それが実現するかどうかわからないということを示していると思います。
 かつて、岸洋子が歌って有名になった「希望」という歌がありました(藤田敏雄作詞、いずみたく作曲。1970年レコード大賞歌唱賞受賞)。私などは、「希望」、「希望」、と考えていると、ついこの歌を口ずさんでいるのです。

(ここで牧師、1節を歌う)

 しかし何と暗い歌でしょうか。この曲などは、まさに、希望とは、はかないものということを示す典型ではないかと思います。普通は、もう少し明るいかも知れませんが、それにしても実現するかどうかわからない「危うさ」を持っているのではないでしょうか。失望で終わるかも知れない。
 しかし聖書ではそうではありません。希望は確かな将来の先取りです。ローマの信徒への手紙5章5節の言葉は、まさにそれを指し示しております。
 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
 パウロが、「希望はわたしたちを欺くことがありません」とわざわざ言うのは、普通は欺かれることがあるからでしょう。しかしイエス・キリストにある希望は、そうではないということなのです。神の愛がわたしたちの心に注がれているからだと言うのです。今日は、この「神の愛」について、詳しく述べません。しかし「この愛のゆえに、希望は裏切られない」という聖書のメッセージは心に留めておく必要があるのでしょう。

(3)二つの連鎖

 苦難から希望にいたる連鎖。苦難がなぜ希望にいたるのか。ボンヘッファーのこの箇所の説教で、こう言っております。

 「そうだ、患難から希望に至る階段は、地上的に自明の事柄ではないのである。これはまったく違ったふうにも言える。すなわち、患難は焦燥を生み出し、焦燥は強情を生み出し、強情は絶望を生み出す、そして絶望はまったく駄目にしてしまうであろう、ということだってあるのだと、ルターは言っている」(ボンヘッファー『説教集』第三巻87頁)。

 むしろ、これが私たちの世界で普通に起こることではないでしょうか。身に覚えのない苦難が降りかかる時、私たちはあせりといらだちを覚えます。そこからどうやって生き抜いていくのか。「なにくそ」と思ってがんばっていく。自分を固く、カチカチにしていく。心を開かない。しかしそのような強情は、希望に至るものではなくて、むしろ絶望に至るものなのです。よくわかるような気がいたします。しかし信仰をもって生きるということは、そうした悪循環から私たちを全く別の方向へと、導いてくれる。苦難は忍耐を生み出す。忍耐は練達を生み出す。練達は希望を生み出す。
 「練達」というのは、普段はあまり使わない言葉です。私も中学生であったか、高校生であったか、聖書で初めて見た言葉でありました。私は、聖書でわかりにくい言葉に出会った時は、外国語の聖書を見たり、日本語の他の翻訳を見たりするのですが、英語の翻訳で多いのは、tested character という言葉でした。また日本語の他の翻訳では、「試練に磨かれた徳」あるいは「神に嘉せられた品性」という訳が印象的でした。なかなか一言での言い換えが難しいものです。
 ちょうど火で金属を精錬していく過程、あるいは、真珠貝の中に石が入れられて、真珠貝が苦しみ悶えながら、それを美しい真珠に作り変えていく過程を思い浮かべていただくとよいかと思います。練達というのは、苦難を経て、忍耐を経て、そこから練りに練られて生み出されてきた一つの品性、徳であります。
 それは信仰を持っているがゆえに、与えられる賜物でありましょう。そしてそれこそが、希望を生み出す。この希望は失望に終わることがないのだと、告げるのです。

(4)エレミヤの預言

 もうひとつ、エレミヤ書の言葉を読んでいただきましたが、私はこの言葉を見た時、びっくりしました。まさにこれは、イエス様の到来を預言していると思ったからです。
「イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。」(エレミヤ14:8a)
ここでエレミヤは、「救い主」のことを「希望」と呼んでいます。
「なぜあなたは、この地に身を寄せている人
宿を求める旅人のようになっておられるのか。」

 しかしその救い主は、普通ではない。救い主であれば、もっと堂々としているはずではないか。それがなぜか旅人のように、なぜか寄留者のようになっておられる。
 私は、イエス・キリストがお生まれになった日のことを思い起こします。イエス・キリストを身に宿したマリアとその夫ヨセフは、ベツレヘムに身を寄せる人でありました。宿を求める旅人でありました。そのような中で、そのような形をとって、救い主はお生まれになったのです。
「なぜあなたは、とまどい
人を救いえない勇士のようになっておられるのか。」(同14:9)

 これは、むしろ十字架を指し示しているようです。イエス・キリストが十字架にかけられる時、祭司長、律法学者たち、長老たち、そして隣に十字架にかけられている強盗までもが、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27:40)とののしったのです。まさに、「人を救い得ない勇士のよう」です。手を広げてしばられている。釘を打ち付けられている。そういう姿の救い主です。
 私たちもエレミヤと同じように、問いたくなります。「なぜあなたは、そういう姿で来られたのですか。」しかし逆説的ではありますが、そういう姿で来られたからこそ、すべての人のまことの救い主なのです。真ん中辺から上の人だけ救う、というのではありません。一番下からすべての人を支え、すべての人を救うために来られたのです。だからこそ、すべての人の希望だと言えるのではないでしょうか。

 「主よ、あなたは我々の中におられます。
我々は御名によって呼ばれています。
我々を見捨てないでください。」

この祈りが、インマヌエルの主、イエス・キリストの到来によって成就したことを深く心に刻みたいと思います。


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