待降節第2主日礼拝
2006年12月10日
創世記3章8〜10節
マタイによる福音書18章10〜14節
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)「愛」は聖書の中心

 経堂緑岡教会では、今年のクリスマスに「希望・愛・喜び・平和〜クリスマスの贈りもの」というテーマを掲げました。そして1週ごとに、この言葉を一つずつ、心に留めて過ごしています。今週のテーマは、「愛」です。
「愛」は、聖書の中の最も大事な言葉です。聖書のメッセージを、もしもたった一言で言い表すとすれば、それはやはり「愛」であると思います。
 またクリスマスの出来事を一言で言い表すとすれば、やはり「愛」になるのではないかと思います。さまざまな聖句が心に浮かびますが、一つ大事な聖書の言葉を読みます。これは、ヨハネの手紙一4章9〜11節の言葉です。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙一4:9〜10)。

 ここにクリスマスの福音が端的に語られています。
 神様がイエス・キリストを、クリスマスの日にこの世に送ってくださったのは、私たちが生きるためだというのです。神様は、私たちのことが心配で、心配で仕方がないのです。皆さんのお父さん、お母さんも、きっとそうだと思います。皆さんが、学校からの帰りが少しでも遅いと心配される。皆さんがどこかへ行ってしまって、連絡が取れなくなったら、いてもたってもいられない。神様なら、もっとどっしりと構えて、少々のことでは動揺しない方が神様らしいと思うかも知れません。しかし聖書の神様は、そうではないのです。いてもたってもいられない。これが、聖書の神様の本質的な姿です。

(2)1匹の羊を探して

 その神様の性質を、よく表したたとえがこの1匹の羊と99匹の羊のたとえです。皆さんはこのたとえを聞いたことがありますか。有名な話ですから、どこかで聞いたことがあるかも知れません。ある人が羊を100匹持っていました。1匹がいなくなりました。さて、どうしたでしょう。その羊飼いは、あとの99匹を山に残しておいて、迷い出た羊を捜しに行ったというのです。冷静に考えると、あまりいい判断とは思えないですね。これがもし学校だったら、どうですか。40何人かの生徒を教室に残して、どこかへ行ってしまった問題児を探しに出て行ってしまった。学園ドラマではこういう先生がよくいますね。かっこいいんですよね。しかし実際にこういう先生がいたら、どうですか。そしてその先生の留守中に、何か別の問題が起きたら、責任問題になるでしょう。
 そう言えば、中国のチャン・イーモウという監督の「あの子を探して」というすばらしい映画があります。小学校の代用教員になった13歳の女の子と迷子になった腕白坊主の生徒の姿を描いたヒューマンドラマ。1999年のヴェネツィア映画祭で、最高の金獅子賞を受賞したすばらしい映画です。まさに、この1匹の羊を探しに行く羊飼いそっくりです。「あの子を探して」と言います。
 さて、この映画の主人公もそうですし、この聖書のたとえの羊飼いもそうですが、あとに残された者のことを、きちんと手配してから出て行ったわけではありません。ある意味では、あまり懸命な判断とは言えない。説明がつかない。いくらでも批判できる。
 この間、たまたまテレビで「14歳の母」というドラマを見ていましたら、こういう場面がありました。14才の中学生が妊娠をしてしまうのです。その娘の父親は、娘に、「二度と相手の男の子と会うな」と言っています。娘が出産となり、しかもそれが大変な難産です。母と子、どちらかが死ぬかもしれない。父親は、娘が相手の男の子に会いたがっているのを知っています。
 このことをずっと追っかけ取材している雑誌記者がいまして、この父は、それまではその記者をずっと疎ましく思っていたのに、この時は、「お願いだから、その子の、そしてその母親の居場所を教えてくれ」と頭を下げて頼むのです。相手の男の子の母親は事業に失敗して、息子と一緒に、姿をくらまして隠れています。記者も会わない方がいいと思っている。彼は、その父親に向かって、「何で、そんなに甘いんだ。ハラの座ってない男だな」と怒鳴るんですよね。その時、父は何と言ったか。「親だからだ」と言うのです。それ以外に理由がない。娘が一番求めていることをしてやりたい。それだけなのです。

(3)人間を探し求める神

 いてもたってもいられない。この時の羊飼いの気持ちと似ているのではないでしょうか。神様もそういうお方なのです。
 実は、この神様、旧約聖書の最初からそうなのです。今日は、創世記の3章を読んでいただきました。舞台はエデンの園です。アダムとエヴァは、神様の言いつけに背いて、「絶対に食べてはいけない」と言われていた木の実を食べてしまった。蛇がそそのかしたのです。「どうしよう。」その時、彼らは神様に顔を向けられないことをしてしまったということを悟ります。神様が近づいてきました。彼らは隠れました。神様は、こう言うのです。「どこにいるのか。」もちろん、神様は彼らがどこにいるのかわからないはずはありません。彼らのことを心配して、「ちゃんと自分の前に出てきなさい」とおっしゃっているのです。彼らはやがて、エデンの園を出て行くことになります。創世記の3章の終わりです。その時、神様はどうなさったでしょうか。
 そのままエデンの園に鎮座して、ああこれですっきりした。これでエデンの園も平和になったと思われたでしょうか。そんなことはありません。心配で心配でしょうがない。アダムとエヴァに皮の衣を作ってやりました。それでも心配で、ずっと追いかけてくるのです。だから聖書は、こんなにも分厚いのです。もしもエデンの園で、神様と人間の関係が終わっていたならば、聖書は最初の5ページで終わっていたでしょう。むしろそこから始まっていくのです、人間を探し求める神の物語が。

(4)失われたものを救うために

 さて、今日のマタイの方の聖書の箇所、もう一度見てください。この中に十字架のようなマークがあるでしょう。気がついた人、ありますか。どこにありますか。これは何のしるしでしょう。よく見ると、節の数字も変ですね。そう11節がありません。実は、ここにあった11節は、後代の付加である可能性が高い、として外されたのです。でも聖書のどこかに置いてあるのです。知っている人、いますか。マタイ福音書の一番終わり60ページに記されています。「人の子は、失われたものを救うために来た」。この言葉は、いい言葉だと思います。クリスマスの出来事の意味を的確に示しています。「人の子は、失われたものを救うために来た」。
 私たちは、自分の場所がある場合、自分が99匹の中の一人だと思っている場合は、この物語は響かない。自分がまさに、この1匹の羊と同じだと思う時に、自分の心にまで届くのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命をえるためである」(ヨハネ福音書3:16)。

HOMEへ戻る