平 和

クリスマス礼拝
イザヤ書11章6〜10節
ルカによる福音書2章8〜14節
2006年12月24日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)平和共存の社会

 クリスマス、おめでとうございます。経堂緑岡教会では、今年のアドベント(待降節)を、「希望・愛・喜び・平和−クリスマスの贈りもの」というテーマを掲げて過ごしてまいりました。また礼拝説教においても、日曜日ごとに「希望」「愛」「喜び」という賜物を心に留めてまいりました。今日は、いよいよその最後、「平和」について心をあわせたいと思います。
 先ほどは招詞として、イザヤ書9章5節を読んでいただきました。

「ひとりのみどりごが
わたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子が
わたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は『驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君』と唱えられる」

とあります。
 この「平和の君」として生まれたひとりのみどりごこそ、イエス・キリストに他ならないと、私たちは信じているのです。
 その「平和の君」がもたらす平和とは、一体どんなものなのか。それをよく表しているのが、イザヤ書11章の6節ではないでしょうか。

「狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。」

 私たちが知っている現実はそうではありません。
私たちの常識によれば、「狼は小羊を襲い、豹は子山羊を襲い、若獅子は子牛を襲う」のであります。そうではない世界、強いものが弱いものを襲って食い物にして生きる世界から共に生きる平和な世界、その世界を小さな子供が導く、というのです。これもまた、イエス・キリストの誕生を預言していると読むことができるのではないでしょうか。
 「牛も熊も共に草をはむ」のです。熊が牛を襲わない。そして、牛の子供と熊の子供が一緒に寝ている。獅子(ライオン)も牛も、一緒に干し草を食べている。乳飲み子が毒蛇の穴に戯れている。幼子がまむしの巣に手を入れている(同7、8節)。
そういう平和な世界が来るといいなあ。いや、来る。「わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」(同9節)。神様は、そういう世界をもたらしてくださるという約束であります。

(2)栄光、神にあれ

 クリスマスの夜にも、平和が告げられました。野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いのところに天使が現れました。天使が救い主誕生の預言をした後、天の大群が加わって、こう歌ったのです。

「いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心に適う人にあれ。」
(ルカ2:14)

 この歌は、イエス・キリストの誕生によって、何がもたらされるのか、何が起こるのかと言うことを、よく表しています。まず神に栄光が帰せられる。そうすることによって、つまり、神に栄光が帰せられることによって、御心が行われる。御心が行われることを通して、地上に平和が実現するということです。
 私たちの直面している事態は、一見それと反対のように見えるかも知れません。それぞれが自分の信じる神に栄光を帰するために戦争をするのではないか。そんなことがあるから平和が来ないのではないか。
 イスラム教世界と、キリスト教およびユダヤ教世界が対立している。それぞれが自分の神、自分の信仰、自分の宗教にこだわっているから、戦争なんかするのだ。みんなが宗教にこだわらなければ、こんなに戦争などしないのに。特に日本では宗教に無頓着な人が多いので、そのように聞くこともしばしばあります。
 しかし私は、どうもおかしい、本当はそうではないだろうと思っています。本当は、何かしらこの世の利害があって、それで戦争をするのです。必ずそうです。そしてそれを言わないため、そのことを前面に出さないために、神様を勝手に持ち出して、戦争を正当化する。人は、本当は、信仰のためには戦争をしないものだと、私は思います。もっとも最前線に送り出される者の中には、純粋に神様のためにと思いこんでいる人もあるかも知れません。マインドコントロール(洗脳)されているのです。あるいは、強制的に戦争に駆り出されます。戦争というのは、そういう誰かのこの世的打算と、強制あるいは洗脳によって遂行されていくのです。
 このようなことは、一見、神を神として立てているように見えて、つまり神に栄光を帰しているように見えて、実はそうではありません。まるで正反対のことです。自分の都合で神を持ち出し、神の名をみだりに語り、自分の都合のいいように祝福を願っている。神の正義ではなく、自分の正義のために、神様にご登場願うのです。
 ある人が、皮肉っぽく、「人はしばしば神よりも宗教的になる」と言いました。私は、そういう事態があるからこそ、本当に神様に栄光を帰さなければならない、自分のためにではなく、「いと高きところには栄光、神にあれ」(イン・エクセルシス・デオ)と歌わなければならないと思うのです。神様に栄光を帰するとは、どういうことか。それは自分の都合で神様を持ち出さないことです。自分の利益を求めないことです。
「いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心に適う人にあれ。」
(ルカ2:14)

(3)内側から平和を脅かすもの

 2006年も間もなく終わろうとしていますが、皆さんにとって、この1年はどのような1年であったでしょうか。今年もさまざまな出来事がありました。特に教育関係の話題が、目立った1年でもありました。単位の未履修問題、「いじめ」の問題が大きく報道されました。
 そうした教育界の話題の中で、最も深刻な問題は、「教育基本法」の「改定」であろうと思っています。先日12月15日に、参議院本会議において、十分な審議がつくされないまま、また各種の世論調査でも多くの反対意見がある中、政府の教育基本法案が可決・成立しました。
 「教育基本法」の「改定」は、教育の問題であると同時に、それに留まらない、日本の今後の歩みを危険な方向へと導く非常に深刻な問題であると、私は思っています。憲法改定への一つの布石、第一歩だと言ってもいいとさえ思います。日本の平和が、内側から脅かされ、内側から突き崩されようとしているのです。私たちはそれを見抜く目を持たなければなりません。そして聖書を知る者として、聖書に耳を傾ける者として、日本の社会に対して、警鐘を鳴らさなければならないと思います。教会は「見張りの務め」(エゼキエル33章)を負っているのです。<「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」1967年、参照>。
 「今、日本の平和が脅かされている」と言うと、皆さんは、真っ先にどういうことを思い浮かべられるでしょうか。私の想像では、多くの方々は、「北朝鮮の軍事的脅威」ということを考えられるのではないでしょうか。私は、そうした外的な脅威よりも、もっと危ないのは内側からの脅威だと思っております。外的脅威ばかりに目を向けていますと、「だから日本も再軍備しなければならない。だから日本も軍隊をもたなければならない」ということに傾いていきます。しかし、これは平和の方向へ向かうことではなく、戦争へと向かっていくことなのです。

(4)ボンヘッファーの「平和」理解

 これについては、ドイツの神学者ディートリヒ・ボンヘッファーが、1934年に、興味深いことを語っています。この頃のドイツは、ナチスによって戦争への道をまっしぐらに突き進んでいる。そういう時でありました。

 「いかにして平和は成るのか。政治的な条約の体系によってか。いろいろな国に国際資本を投資すること、すなわち、大銀行や金の力によってか。あるいは平和の保証という目的のために、各方面で平和的な再軍備をすることによってか。違う。これらすべてのことによっては、平和は来ない。その理由の一つは、これらすべてを通して、平和と安全とが混同され、取り違えられているからだ。安全の道を通って<平和>に至る道は存在しない。なぜなら、平和は敢えてなされねばならないことであり、それは一つの偉大な冒険である。それは決して安全保障の道ではない。平和は安全保障の反対である。安全を求めるということは、[相手に対する]不信感をもっているということである。そしてこの不信感が、ふたたび戦争を引き起こすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。平和とは、全く神の戒めにすべてを委ねて、安全[保障]を求めないということであり、信仰と服従において、諸民族の歴史(この世界全体と言ってもいいでしょう)を、全能の神の御手の中におくことである。武器をもってする戦いには、勝利はない。」(ボンヘッファー選集、第6巻『告白教会と世界教会』p.123以下)

 いかがでしょうか。「武器をもってする戦いには、勝利はない。」ボンヘッファーのこの言葉は、今日ますます、明らかになってきているのではないでしょうか。今日どこかが戦争を始めれば、もはやどちらかが勝つということはありえない。双方が壊滅的な打撃を受ける。共倒れになる。私たちは、そういう時代に生きているのです。

(5)教育基本法改定に対する反対声明

 さて、この教育基本法の「改定」について、あちこちから反対声明があがっております。私たちの身近なところでは、恵泉女学園が、11月の段階で反対声明を出しました。12月16日付けの『朝日新聞』で、そのことが報道されましたので、ご覧になった方もあろうかと思います。
 恵泉女学園の創立者である河井道は、戦後に教育基本法をまとめた教育刷新委員会に参加していたそうですが、そのことも恵泉女学園が反対声明を出した大きな理由の一つです。教職員約170人も賛同する署名を寄せたということであります。この声明では、「河井道が基本法の制定に尽力したのは、それなしに憲法の理想を支えることは難しいと考えたからにほかならない。その根本理念を揺るがすような改定を容認することができない」と訴えています。
 また私は一昨日、女子学院中学校のクリスマス礼拝に招かれて説教してまいりましたが、女子学院院長の田中弘志先生も、教育基本法改正反対の意見を表明しておられました。(「教育基本法改正と憲法改正を考える」『九条ぶどうの会』会報.4)
 また日本基督教団が属する日本キリスト教協議会(NCC)も、先週(12月19日)、法案成立に対する抗議声明を出しました。これは、私たちの教会にもかかわる大事な声明であると考えましたので、プリントして皆さんにもお配りいたしました。
 私は、「もう成立してしまったから仕方がない」ということではなく、むしろ今後どんどん、同時多発的に、こうした抗議の声を上げていかなければならないという思いを強くしています。

(6)マルティン・ニーメラーの言葉

 私は、今の日本の状況は、ある意味で1930年代前半のドイツ(先ほどのボンヘッファーの演説の頃)によく似ていると思います。ヒトラーのナチス政権が台頭し、支持を得て、巧妙にさまざまな規制がなされ、法律が合法的な手段によって改定され、弾圧が強まっていきます。その後、戦争へと突き進んでいくのですが、その時には、もう誰も止められませんでした。
 この時代マルティン・ニーメラーという牧師がいました。第一次世界大戦に従軍し、潜水艦長(Uボートの艦長)でありましたが、その後、その経験から牧師になった人です。ヒトラーの教会支配に対する抵抗運動の指導者として有名です。活動のさなか、ニーメラー牧師は、逮捕されて、1937年にミュンヘン近くのダッハウ強制収容所に送られました。第二次世界大戦後、無事に解放されたのですが、彼は、戦後、こういう言葉を残しました。

 「ナチスが共産主義者を弾圧した時、私は不安に駆られたが、自分は共産主義者ではなかったので、何の行動も起こさなかった。
その次、ナチスは社会主義者を弾圧した。私は更に不安を感じたが、自分は社会主義者ではないので、何の抗議もしなかった。
それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき、そのたびに私の不安は増大した。が、それでも私は行動に出なかった。
ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして、私は牧師だったので、行動に立ち上がった。しかし、その時はすべてがあまりに遅すぎた。」

 ドイツの例を持ち出す必要もないかも知れません。日本の戦前も似たようなものであったのではないでしょうか。だんだんと不穏な空気が広がり、ものが言いにくくなり、そのうちに何も言えなくなり、戦争に突入していった。そしてその頃には、もう誰も止めることはできなかったのだと思います。
 私は、今回の教育基本法の「改定」は、日本が新しい時代に入ったことを意味するように感じています。それはいい意味ではありません。この瞬間に、日本は、「戦後」から「戦前」の時代に突入したと言えるのではないか、と憂慮するのです。後から振り返って、「本当にそうだった」とならないために、私たちは、今、できる限りのことをしていかなければならないと思います。
 そのような思いで、「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と、声をあげて歌いたいと思います。


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