ゆるし

2006年12月31日 (歳末礼拝)
レビ記25章35〜38節
マタイによる福音書18章21〜35節
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)何回赦すべきか

 いよいよ本日で、2006年も終わりになります。今日は、マタイ福音書18章の21節以下を読んでいただきましたが、1年の終わりにあたって、今年の歩みを振り返るのに、また自分自身を振り返るのに、ふさわしい箇所であると思います。
 マタイ福音書18章においては、罪ということがひとつの問題となっております。18章15節には、こういう言葉がありました。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」イエス様の言葉です。弟子であるペトロは、この言葉を聞いていたのであろうと思います。彼は、イエス・キリストに、こう尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」(21節)。そう尋ねながら、自分の方から答えを用意して、「7回までですか」と付け加えるのです。
 この当時、ユダヤ教の学者は、誰かが自分に対して罪を犯した時に、「3回までは赦してやりなさい」と教えていたそうです。3という数字は一つの完全な数字であります。1回は誰でも赦さなければならない。2回も赦せば、偉い人だ。それを超えて3回も赦せば、もう十分だ。完璧だ。その人はやるだけのことはやったということになります。日本語にも「仏の顔も三度まで」ということわざがあります。3回までは赦してやるけれども、4回は限度を超えている。これが誰もが納得する線であろうかと思います。そこで仏が鬼に変わるのです。ペトロもそのようなことが頭にあったのではないでしょうか。しかしペトロは、その上を行こうとした。ほめてもらうことを期待していたのかも知れません。「そうだ。ペトロ、よく言った。お前も7回も人を赦せる人間になれよ。」
ところがそれに対してイエス様はびっくりするような答えをなさった。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」(22節)。7の70倍ということは、計算すると、490回となります。
しかしイエス・キリストがここで言おうとされたことは、我慢の回数の問題ではありません。我慢の回数の問題であるとすれば、3回我慢して4回目に爆発した人よりも7回我慢して8回目に爆発した人の方がもっと怖い復讐をするかも知れません。491回目というのは、もっと恐ろしい。
 イエス様の言葉も、そのように理解するならば、根本的なところで読み違うことになるでしょう。そのことをペトロに悟らせようとして、イエス・キリストは、ひとつのたとえをお語りになりました。

(2)借金比べ

 王様がある家来に、とてつもない金額のお金を貸していた。1万タラントン。1万タラントンというのは、私たちの想像を絶する額であります。このすぐ後に100デナリオンの借金というのが出てきますが、こちらは想像がつきます。労働者の1日分の給料が1デナリオンでありました。一日の賃金を少なめに見積もって5千円とすると、100デナリオンは50万円です。さて1万タラントンというのは、それの何倍か。聖書巻末の度量衡換算表によれば、1タラントンが6千デナリオンに相当する。それの1万倍です。6千万デナリオン。5千円で掛け算をすると、3千億円になります。気が遠くなるような額です。一人の人間がどんなにしても返せるようなお金ではありません。ですからそういう数字の比較そのものよりも、負い目、罪ということの性質、本質を見るべきでありましょう。
 王ということで、神様がたとえられているのは言うまでもありません。私たちの罪、負い目というのは、私たちが一生かかって、どんなに償っても償い切れないほどのものである。それにもかかわらず、神様は私たちを認め、赦してくださっている。私たちを支え、生かしてくださる。そういう私たちと神様との不釣合いな関係を思い起こさせようとしているのでしょう。
 この家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」(26節)としきりに頼みます。返せるわけがないのですが、泣きついて、そう頼みました。さて主人はどうしたでしょうか。「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)。これが、いわばこの物語の第1幕です。
 しかしこの話はこれで終わりません。この家来は赦してもらって釈放された後に、今度は自分がお金を貸している仲間に出会います。100デナリオンの借金です。100日分の給料に相当する額、1万タラントンの60万分の1です。
 彼は、首を締め上げて「借金を返せ」と迫ります。この仲間も「どうか待ってくれ。返すから」と頼み込みます。しかし彼は、それを聞こうとしないで、その仲間を牢屋に入れてしまった。こっちの方は、本当に一生懸命働けば返せないことはない額です。私たち人間同士の負い目は、神様に対する負い目に比べたら、その程度のものであるということを暗示しているのでしょうか。そして牢屋に入れてしまったところで、第2幕が終わります。
 今度は、牢屋に入れられた人の友人が王様にすべてを打ち明けて、「何とかしてください」と直訴するのです。王様はその家来を捕まえてくる。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(32〜33節)。そして今度は、その家来の方を牢屋に入れてしまった。それがいわば、このたとえ話の第3幕と言えるでしょう。

(3)この話がわかるか

 いかがでしょうか。この話は、イエス様が語られたたとえ話の中では、分かりやすいものの一つではないでしょうか。展開はよくわかる。しかし分かりやすいだけに、かえって「ああ、分かった。なるほどね」で、済ませてしまいそうです。「あなたもこういう人にならないようにしましょう。」もしかすると、ペトロも、そういう風に聞いていたかも知れません。
 しかし、この話がわかるということは、そういうことではありません。自分のこととして読むことができるかどうかということです。聖書が分かるというということは、文字面が分かるということではありません。単に論理がわかるということではありません。私に語りかけられた言葉として聞くことができるかどうかということ。それが、聖書がわかるということであります。
 この家来のしていることはいかにも不自然なことです。これだけの借金を赦してもらいながら、彼自身は赦してやることができない。そんなひどいことをしている。イエス様がここでおっしゃろうとしていることは、「その不自然なことを、あなたがしているのではないですか」ということなのです。私たちがそのことを読み落とすならば、いくらたとえ話の筋がわかっても、論理がわかっても、分かったことにはなりません。「あなたがこのことをしているのではないですか。」それを聞き取る時に、この物語が生き生きと、私たちに迫ってくるのです。

(4)はじめに赦しありき

 そういうことを考えながら、あといくつかのことを学びたいと思います。
 第一は、最初に王様の赦しがあった、ということです。王様がこの家来を赦してやった時に、王様はこの家来に何の条件もつけていなかった。「はじめに赦しありき」です。「お前が仲間からの借金を赦してやるなら、私もお前の借金を赦してやるよ」とは、言っていません。その話が出てくるのは一番最後です。王様は、この家来を無条件で無制限に赦してやっているということ。これがひとつの大きな意味であります。
 使徒パウロが口を酸っぱくするほどしつこく説いているのもそのことです。私たちが何かいい行いをするから赦されるのではない。義人はいない。一人もいない(ローマ3章)。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのです」(ローマ5:8〜9)。
 そのことこそが、私たちをつくりかえる原動力になっている。そういう神様の姿に触れ、そういう神様の思いに気づく時に、私たちの中で何かが起こり、私たちの方で何かが変わってくるのではないでしょうか。

(5)償いはどうなったのか

 二つ目。王様は家来に最初に、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」(25節)命じました。「償い」というのは、それだけ大きな犠牲を伴うということです。もちろんそれでも償えるような額ではありませんでした。あの返済するための犠牲は、どうなってしまったのでしょうか。その後の物語には出てきません。いつの間にか消えています。王様がそれを赦してやったということだけです。しかし私たちは、この物語の背後にあること、隠れた形で起きていることに目を向けなければなりません。「どんな犠牲を払ってでもそれを償え」という「犠牲」は、無くなってしまったのではありません。どうでもいい事柄ではないのです。決済をするためには、何かが起こらなければならない。何かの犠牲が払われなければならない。
 実は、その王の決済をするために犠牲になった方がいたのです。それは、このたとえを語っているその方自身です。イエス・キリスト。このお方であれば、1万タラントンの負債であっても支払うことができます。イエス・キリストは、このたとえをお語りになっている時に、自分がそのために命をはるという覚悟をしておられた。その覚悟の上で、このお話をなさっている。私たちはそのことを見落としてはならないと思います。「王の借金は帳消しにされる。そのために私は来たのだ。そのために私はここにいるのだ」と言うことを、同時に伝えようとしておられるのです。イエス・キリストの十字架が、隠れた形でこの物語を支えているのです。そのイエス・キリストだけが、この物語を語ることができる。他の誰かがこの話を語ったのであれば、それは架空の話となり、傲慢なことだということになるでありましょう。

(6)赦されることと赦すこと

 三つ目。神様のゆるしが無条件であり、無制限であれば、私たちは何をしても関係がないということになるでしょうか。そんなことはない。この物語を読んでいれば、そうではないということが見えてきます。確かに順序を間違えてはいけません。私たちが誰かを赦すことによって、赦されるのではない。しかしながら、神様が私たちを赦してくださるということと、私たちが誰かを赦すということはくっついていますよ、切り離すことはできませんよ、ということです。
 「主の祈り」の中に「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りがあります。「私たちが人の罪を赦すように、私たちの罪も赦してください。」この祈りは、難しい祈りです。祈るたびに、口ごもる思いにさせられます。自分は果たしてそのようにしているだろうか。偉そうにそんなことは、とても言えない、と思ってしまう。しかし主の祈りは、イエス様が私たちに「こう祈りなさい」と言って教えてくださった祈り、いや命令された祈りです。イエス様が命令してくださったから、私たちはあの祈りを祈ることできる。あの祈りを祈ることを許されているのであり、あの祈りを祈らなければならないのです。「私は人を赦すことはできない弱い者ですが、私の罪を赦してください」と祈る方が正直で、その方が楽なのですが、イエス様の命じられた祈りは、そうではなかった。自分の罪の赦しを請うこと人を赦すことは切り離せないのです。

(7)「正当な主張」の罪

 最後にもうひとつ。この家来は仲間にお金を貸している。貸しているものを返せと言う。それだけを取り上げてみれば、それは彼の正当な主張です。この人には、そう言う権利があるのです。特に法外の利息をとっていたとも書いてありません。
 私たちは、自分が正当なことを主張している時にこそ、むしろ私たちの罪が姿を現すということを思い起こさなければならないでしょう。正当なことをしている。この世的レベルでは、誰もそれを非難することはできません。それでも、私たちは、この家来のしていることはおかしい、と思う。それは神様との関係という次元が見えてきた時にわかることなのです。
 私たちの世界は正当な権利を主張しあう中でいがみあっています。それぞれに正当な理由があるのです。それぞれの言い分を聞いていれば、それぞれに筋が通っています。しかしかみ合わないのです。小さなレベルの、私たちの隣人関係においてもそうですし、国と国の関係においてもそうです。それぞれが正当な根拠を持って戦争をするのです。正当な理由で殺しあう。どこかおかしいと思う。しかし、その枠組みから抜け出すことができない。私は、このたとえ話には、そこから抜け出す鍵があると思います。そしてそのために、イエス・キリストは多大な犠牲を払ってくださった。十字架で死んでくださったのです。
 「ゆるし」とは単に我慢することではありません。私たちが変えられること、そこで新しい生き方へと促されることです。私たちの人生を変えるもの、私たちの世界を変えるものは一体何か。復讐の連鎖、うらみの連鎖では何も変わらない。その連鎖から抜け出る突破口。それをイエス・キリストはお示しくださったのであり、私たちもその世界に生きるようにと促されているのです。
 この1年の歩みを振り返り、そこに注がれた神様の愛とゆるしに感謝をし、私たち自身も、心をゆるめられて、人を赦して年を越し、新たな年へと進んでいきましょう。


HOMEへ戻る