青年の問い (成人の祝福)

ヨシュア記1章1〜9節
マタイによる福音書19章16〜26節
2007年1月14日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)避けたいけれども避けられない

 本日は、「富める青年」として有名な物語を読んでいただきました。これは、よく知られた物語の一つでありますが、あまり好まれる物語ではありません。私も説教者として、できれば避けて通りたいようなテキストです。これを語る私自身が、どのように生きているかが鋭く問われてくるからです。しかし避けようと思っても避けることができない。無視しようと思っても無視することができない。そのように私たちを引き付けてやまない物語でもあります。
 これはいわば、イエス・キリストの弟子になりそこなった人の話です。しかしながら自分と照らし合わせてみると、さっとイエス・キリストに従った弟子よりも、この青年の方が自分に近いように思えてきます。もっともこの弟子自身、ずっと後になって、心を入れ替えてイエス・キリストに従って行ったのではないかという気もします。保留という形で、イエス・キリストのもとを立ち去ったと、読むこともできるでしょう。

(2)財産の問題と信仰の問題

 彼は、なぜさっと主イエスに従えなかったのか。それは、イエス・キリストが「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(21節)と言われたからでした。「とてもそんなことは自分にはできない」と思ったのです。「青年は、この言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産をもっていたからである」(22節)。私は、彼の気持ちがよくわかるような気がいたします。私もそれなりに多くのものを持っております。本とかCDとかたくさん持っております。売り払っても二束三文にしかならないものばかりですが、そこにこだわっている自分があります。
 ですからこのところで説教をしようとすると、どこかで言い訳をするような、「持ち物を売り払わない」で済むような、つまりこのテキストが本来もつインパクトをゆるめて、話をすることになりかねません。
 もちろん、その反対も危険です。「全財産をささげよ。もっと出せ。さもないと、地獄に落ちるぞ。」キリスト教でも、このテキストを用いて、そういうことを語りかねません。事実ブラジルでも、ある新興キリスト教の一派が、貧しい人たちの中で、そういう風に脅すように語って、裁判になったケースがありました。教会は、裁判で負けました。この物語で語られているのは、そういう次元のことではない、ということをまず確認しておきたいと思います。
 それでいて、それでもなお、この物語は、自分の財産のことと自分の信仰の問題が切り離せないものであるということを訴えかけてくるのです。チャレンジしてくるのです。私は、このチャレンジは、あまり簡単に解消してしまわない方がいいと思っています。問いとして、チャレンジとして、心に残っている。一生かかって答えを出していく課題です。そういう状態というのは居心地が悪いのですが、安易に答えを見出してすっきりしてしまうよりも、かえって大事ではないかと思うのです。
 聖書という書物は、そういう大きな問い、人が一生かかって答えを見出していくような問いを突きつけてくるのです。それは言葉の難しさではありません。言葉の上では、単純なことなのです。

(3)私の青年時代

 私にとって、この富める青年のテキストは、青年時代からずっとそういう問いを突きつけてくる物語の一つでありました。私は神学校に入る前、つまり最初の大学の頃からキリスト教の勉強をしておりました。それは別に牧師になるためというのではなく、素直に、ただキリスト教の勉強をしたかったからでした。
 私は浪人時代に、そういう学問としてのキリスト教の面白さの一端に触れたのです。私は二浪していましたので、浪人時代に二十歳を迎えてしまいました。私は二十歳を迎えた時に、ちょっとしたあせりを覚えました。友達はもうみんな大学で勉強をしているのに、自分はまだこんなところで足踏みをしている。そういうあせりの中で、もう一度原点に立ち返って考えるようになりました。「本当は、自分は何をやりたいのか。何を勉強したいのか。あるいは何を勉強するのが、一番自分らしいのか。他の人と違ったことができるのか。」
 そうした中で、「そうだ。キリスト教だ」と思ったのです。私は、高校一年生の時に、すでに洗礼を受けておりました。しかし「そうだ。キリスト教だ」と思った時、「そうだ。牧師になろう」とは思わなかったのですね。そこには、この富める青年と同じような自分があったと思っています。自分は、そのためにすべてをかけられるか。あるいはすべてを捨てられるか。牧師になるということは、それ位の決意をもってするものだと、若いなりに思っておりました。
 野望とは言えませんが、クラーク博士が「青年よ、大志を抱け」と言いましたような大志(アンビション)もありました。特に出世欲ということではありません。これからの時代、世界を舞台にしたような仕事をしたいとか、それなりに豊かなに暮らしたいとか、その程度のことです。牧師になるということは、そうしたことをすべて捨てることのように思えたのです。
 しかしキリスト教の勉強をすることが、一番あっているし、これは本気でやるに値するだけの奥深いものだ。しかも多くの人は、まだそのことに気づいていない。友達がまだ知らない宝物を、そっと先に知ったような思いでした。
 私が何を勉強しようかと迷っていた時、ある人が私にこういうアドバイスをしてくれました。「学びたいことを学べ。一番勉強したいことをしろ。それで就職できなかったとしても、就職は就職でまた戦えばいいじゃないか。そのための資格を取り直してもいいじゃないか。」
 「そうか」と思い、とにかく就職のことは考えずに、好きなキリスト教の勉強を思いっきりいたしました。ヘブライ語やギリシャ語やラテン語やドイツ語も勉強しました。残念ながら、どれも身につきませんでしたが。でも楽しかったですね。
 そのうちに進路を決めなければならなくなります。先ほど申し上げましたように、「牧師にだけはなるまい」と思っていましたが、そう考えること自体、裏返して言えば、「牧師になるのがいいのではないか」と、心のどこかで思いながら、そこから逃げ回っているような自分があったと思います。それでいて近くをうろうろしている。往生際が悪い。しかし次第に、牧師になることに気持ちが整ってきました。そう決心する中で、この富める青年の物語も、さほどつまずきにはならなくなり、自然に受け入れられるようになっていきました。しかしもちろんそれで解決したわけではありません。ずっと一生かかって答えを見出していくチャレンジだと思っています。

(4)まじめな青年

 もう一度この物語を見てみましょう。
 一人の青年が、イエス・キリストに近づいてきて、こう質問しました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(16節)。彼はお金持ちで、誰もがうらやむような恵まれた人でした。しかし金持ちのぐうたら息子で、遊び歩いているというのではありません。非常にまじめな、誠実な青年です。人生について、そして人生の意味について、深く考えています。
 かつては、教会がそういう青年たちのたまり場、人生についての豊かな、そして時には激しいディスカッションの場であったそうですね。いずれにしろどんな時代であれ、こういう青年は、大変な模範青年です。
 人生について深く考えながら、聖書に書いてあることもきちんと守っている。それでいて何かが足りないと、自分で意識している。これで十分と言う確証が得られない。ある種のパーフェクショニスト(完全主義者)です。しかし、どうすればいいのか、彼自身もわからないでいるのです。この人は、他のファリサイ派の人々や律法学者のように、イエス・キリストを試そうとして近づいてきたのではありません。本気でそれを知りたいと願っているのです。
 どこかでふとイエス・キリストの話を聞いたのかも知れません。「自分がこれまで出会った先生とは、全く違う何かを持っておられる」と直感したのではないでしょうか。言葉を変えて言えば、「この人は永遠の命をもっている。この人であれば、永遠の命を得るために何をすればよいかを知っておられるに違いない。」そう思ったのでしょう。 彼は単刀直入に聞きました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
 主イエスは、こうお答えになりました。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(17節)。この青年は、何かもっと善いことをしたいと願っています。善いことを積み重ねていくことによって、永遠の命を得られるのだと信じています。これまでもできるだけのことはしてきたつもりです。それでも納得がいかないのです。それでイエス様のところへやってきたのです。
 だから、彼は「どの掟ですか」と聞きかえします。掟の種類は、すでに全部彼の頭の中に入っています。きっと普通の人が知らないような、難しい掟を言われるのだろうと心の準備をしています。

(5)入門編ではなく、上級編を

 しかしイエス・キリストは、こう答えられました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」(19節)。この最初の5つは、十戒の後半、人と人との関係を規定したものであります。そしてまとめとして、その根底にある精神であるレビ記19章18節の言葉を語られたのでした。
 この答えに、彼はがっかりいたしました。もっとすごい答えが返ってくるだろうと期待していたのです。彼は、こう思ったことでしょう。「そんなことはユダヤ人であれば、誰だって知っています。律法のことを専門的に勉強していない素人だって知っています。私も当然のこととして、それらを守ってきました。いわば律法の初級のようなことではないですか。私は、その上のこと、上級の話をしているのです。」この先生は、この程度の人なのか。それとも私の質問の意味をよく理解しておられないのだろうか。自分をみくびっているのか。自分をその辺の無学な弟子たちと一緒にしているのだろうか。(事実、イエス・キリストのまわりにはそういう無学な人がたくさんいました。)それともとぼけているのか。
 しかし彼は冷静にこう答えました。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」(20節)。この言葉には、彼のそうした反発が感じられます。そこでイエス・キリストは、ついに先ほどの言葉を語られたのです。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。

(6)急所を突き刺した

 この青年は、この言葉を聞いて立ち去っていきました。あきれ返って立ち去ったのではありません。幻滅して立ち去ったのでもありません。憤慨して立ち去ったのでもありません。悲しみながら立ち去ったのです。つまり彼は、少なくともこの言葉の意味を理解したのです。理解したけれども、それに従うことができなかったのです。この言葉は、彼の急所をぐさりと突き刺しました。他のことであれば、どんな律法でも、何とかやり遂げてみせる。しかし自分の財産を投げ出すことはできない。彼は、まさか永遠の命を得ること自分の財産を手放すことが関係あるとは思っていませんでした。
 イエス・キリストは、彼自身も気づいていないような急所を見抜いておられたのです。立派な行いをし、敬虔な思いを持ちながら、神に完全に信頼して歩むことができない。この世のものに、最後の一線を置き、自分を神様に明け渡していないからです。最後のよりどころを死守しているのです。それはあれか、これかの問題です。イエス・キリストは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と言われました。
 究極の価値をどこにおいて人生を歩もうとしているのか。この青年は、人生に役立つ教えを聖書に聞き、それを身につけようとしながら、最後の自分のよりどころは財産においていたのです。「そこから自由にならない限り、あなたには本当の自由はない。あなたの病は、実はそこにある。それこそが、あなたと神との間を隔てているものだよ」と診断されたのです。

(7)使徒パウロの場合

 使徒パウロも、かつては、この富める青年のようでありました。みんなが羨むようなものをたくさん持っていました。学歴、家柄、地位、熱心さ。

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3:7〜8)。

 これはパウロのいわば信仰の告白です。私たちにも、この問いが突きつけられています。すぐに答えを出す必要はないかも知れません。私自身も、一生かかって向き合っていく聖書の言葉であると思っています。それぞれの位置で、特に若い方々は、これから長い人生を歩んでいくに当たって、そうした聖書のチャレンジを心に留めていただきたいと思います。


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