神の国への旅人

創世記12章1〜4節
ルカによる福音書12章29〜32節
2007年2月25日
池田 伯先生


(1)はじめに

 この礼拝で神様から私たちに与えられているみ言葉は、創世記12章1〜4節とルカによる福音書12章29〜32節です。このうちおもに創世記の箇所から、教会の基本、私たちの信仰の基本的なことをご一緒に聴きたいのです。
 創世記12章1〜4節前半。ここは神がアブラハムに祝福の約束を与え、彼がそれに従って出発する箇所です。ここでの「アブラム」は17章以下「アブラハム」と呼び方が変わります。私たちはその名を用います。
 聖書はこの箇所で多くのことを語っていますが今日は、この箇所の要点と思える4つのことを聴き取りたいのです。
 その4つの内容に入る前に承知し確認しておきたいことがあります。一つは、聖書でアブラハムは、神の民・信仰者の父祖・父と呼ばれているということです。旧約聖書においてはもちろん新約聖書においてもそうです(ローマ4・11など)。
 聖書で「父祖」「父」には源、原像(もともとの姿)といった意味があります。アブラハムは信仰者の原像だ、ということです。アブラハムにおいて神の民(旧約からのイスラエル、新約での教会)・私たち信仰者の本質、もともとの姿が端的に示されている、ということです。逆に言えば、教会・信仰者のもともとの姿・本質がアブラハムを見れば分かる、ということです。
 4つの内容に入る前に承知しておきたいもう一つのこと。ここで神はアブラハムを祝福し祝福の約束を与えます。そしてすべての民がアブラハムによって(彼のゆえに)祝福を受ける、と約束する。 聖書が語るのは、この約束がまさにイエス・キリストにおいて実現した、ということです。そのようなことでこの1〜4節は、イエス・キリストをとおして聴くことが必要です。

(2)啓示

 「主はアブラムに言われた。」(1節前半) ここに聴くのは、神がアブラハムにご自身をあらわされたということ、教会の言葉でいえば神の自己啓示ということです。そのようにして神はアブラハムを選び、アブラハムを召命する。召命はいのちへの召し出しであり、使命への召し出しです。
 神はアブラハムに目を止めたもう。無数の人間がいる中で彼に目を止める、その意味でアブラハムを選んだ。そして神は彼に言葉をもってご自分をあらわされた、申しているように神の自己啓示です。アブラハムと同じように、神は私たちにイエス・キリストをとおし聖霊においてご自分をあらわされた。神のこの恵みによる自己啓示、生きて働く神の自己啓示、この事実が、信仰者・神の民の一切の始まりであり根本です。
 一体神はなぜアブラハムに目を止められたのか。彼を苦しめ・痛めつけ・殺すためか。そうではなく、祝福するため、まことのいのちに招き生かすためです。神がアブラハムに目を止められたのは、彼への愛、深い愛からにほかならない。福音書は主イエスが人々を「深く憐れまれた」と記す。その元の言葉は内臓・はらわたが痛むまでの憐れみ・愛のことです。この深い愛からにほかなりません。まことに神は愛の先手を打ち、いのちの関係を作り出す方です。
 このように神がアブラハムに目を止められる、それはまったく恵みのこととしてです。神が私たちに目を止め選ばれたのは、私たちが立派だから、見所があるから、役に立つからではない。申命記の言うとおりです(申命記7章6〜8節参照)。神はイスラエルが貧弱で惨めな者たちであったがゆえに愛し、選び、ご自分の宝の民とされた―これが神の民・イスラエルの自覚であり神の前での彼らの自己認識でした。私たち自身のことを考え、ほんとうにそうだ、と言うほかありません。
 神の民・信仰者の存在根拠は、ただ神にあり、神の私たちへの自己啓示にあり神の召しにあります。そしてこの存在根拠はなんと確かであることか。この確かさのなかに私たちのすべてがあります。

(3)神の民

「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」(1節後半)。 ここに聴くのは、アブラハムが神の民とされたということです。神のアブラハムに対するこの促し・命令を受け、彼は「主の言葉に従って旅立った。」(4節前半)。彼は、自分の願いや判断、ほかの誰かやなにかをではなく、神を信頼し神を第一とし神を主とし、神に従う神の民となった。
 このみ言葉は、神による、まさにいのちへの召しであり、自由への促しであり招きです。土地・民族・文化、血筋や所有などからの自由への促しであり、神による旅人として出で立つことへの招き・命令です。 「生まれ故郷、父の家」、これは人を繋ぎとめ、人に忠誠を求め、人を根本から規制する、古代的表現でしょう。神に属する者、神による旅人としてそこを離れ、わたしの示す地に向かえ。アブラハムはそのみ言葉に従う。ここで彼に起こったのは、主客の変更・転換であり「革命」です。恵みとしての第1戒の成立です。
 アブラハムは今や、神を自らの主とし、その主に信頼し従う神の民となった。申すまでもなく私たちも、イエス・キリストによる神の召しを受け、その神を信頼し、その神を唯一の主と信じ告白し従う者とされました。私たちはこの世にありますが、世に属する者ではない。神に属する、神に生かされ神を主とする、神に従う神の民です。
 現代・今日の私たちにとっての「生まれ故郷、父の家」とは何でしょうか―物質的に、精神的・思想的に、また社会構造的に時代的に多くの「生まれ故郷、父の家」が私たちにまとわりついています。それらは私たちに、それとして分かるものもあり、注意しないと見えてこないものもあり、認識できないままそれに取り込まれてしまう、そういうものもある。それらの力が私たちを支配し奴隷としようとしている。本当にそうではないでしょうか。―私たちに信仰による醒めた眼が求められています。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れよ」、神の民とされた私たちに繰り返し告げられているみ言葉です。
 「わたしの示す地」とはどこか、後に申し上げます。

(4)祝福

 「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う」(2〜3前半)。 ここに聴くのはアブラハムが神の祝福の約束を受けた、ということです。ここで語られていることは要するに、「わたしはあなたを祝福する」ということ、アブラハムに対する神の祝福の約束です。いま祝福し、将来にわたって祝福する、その約束です。
 一体神の祝福とはなんでしょうか。聖書で広がりをもつ言葉ですが、その中心は「神の御心が行われること」です。自分の、また誰かの、何かの願いや計画が実現する、それは喜びかも知れませんが必ずしも神の祝福とは言えない。むしろ逆となる場合もある。私のうえに、隣人・人々のうえに、社会や時代に神の御心が行われる、それが神の祝福ということです。言葉を変えればそれは「救い」ということにほかならない。神の御心が行われるところ、そこに真のシャローム、平安・平和があるのですから。
 神の私たちに対する祝福をさらに言えば、神が御子による贖い・和解によって、私たちの存在を(生き死につらぬく存在を)よしとし、私たちの存在を神ご自身の喜びとされることです。自分がまた他人が自分に対してどう言いどう見るかとは関わりなく、私たちは神の喜びの存在であり、神の祝福存在です。そして私たちがその神により、その神に信頼し、その神に仕え従って、喜んで生きる者となり、喜んで死ぬものとなる、ということです。
 神による私たちへのその祝福は、イエス・キリストの十字架と復活による赦し・贖い・新生としてすでに与えられています。私たちはすでに神の祝福を受け、神による喜び・安らぎを生きる者とされています。そしてその喜びを人々に告げ知らせ分かち合う者とされています。
 しかしそれは完全に、ということではない。空に広がる薄いあるいは厚い雲をとおして太陽をみるように、「おぼろ」に、です。祝福の約束の成就は、キリストの再臨のときをまつほかありません。ですからいまだに、この世界に、教会に、私たちに悲しみや労苦が絶えない。割り切れないことが多い。私たちの破れや限界が私たちを苦しめる。私たちの旅には「死の陰の谷」が続いています。
 たとえば詩編93編。1節。3節。大波の轟きが私たちを脅かし・苦しめ・打ちのめそうとする。本当にそうです。しかし詩人はそれに続けて歌う、私たちの神はそれらの「大波の轟きにまさって力強く高くいます」―これが神の祝福を受け祝福の約束をうけている者達の安らぎと勇気の姿にほかなりません。

(5)使命

 「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」(3節後半)。 ここに聴くのは、アブラハムに、私たちに、使命が与えられた、ということです。ここで神は彼に使命・つとめを与える。
 アブラハムは一体何のために選ばれ・祝福されたのか(この問いは必要で大切です)―彼の意味・その使命は、「地上の氏族すべてが、彼において彼によって祝福に入る」、そこにあるというのです。つまりアブラハムは、神の民・教会は、私たちは、すべての人が神の祝福に入る、そのための使命・働きを与えられている、ということです。
 教会は何のためにあるのか、私たちが信仰者であることによる使命はなにか。それはすべての人が祝福に入る、神の御心がこの地上に、すべての人に行われる、イエス・キリストの救いによる神のシャローム、平安・平和が人々に行き渡る―その神の働きに私たちが用いられるためにほかなりません。これは私たちの基本的な使命であり、とくに今日的課題です。
 それはこの時代とそれぞれの現場・状況の中でイエス・キリストを証しし、その働きに与るということであって、そのかたちは教会にとり私たち一人一人にとって様々でしょう。いずれにしても私たちには、すべての人が神の祝福に入る、そのための使命が与えられています。
以上がこの聖書箇所から聴く4つのことです。

(6)神の国への旅人

 残されている一つのことを申しあげます。「わたしが示す地に行きなさい」(1節後半)。神がアブラハムに示す地とはどこか、また何か。アブラハムにそれが分かっていたわけではない。彼は神が示す地が、あそこではないかこのことではないかと思い、あちこち「さまよった」のでした。
 私たちもそれぞれの人生で、中間点のようなこととして、神に問いつつ、あそこが、このことが「神の示す地」ではないか、と目標をたて、それに向かって努力する。これは必要なことであり大切なことです。しかしそのうえで、イエス・キリストによる「神の示す地」、それは最終的には「神の国」です。神の御心がまったくなり、神のご支配が行き渡り、神のシャローム、平安・平和が実現する神の国です。神が示す地、その神の国に向かう旅人、それが私たちです。私たちはまことに、地上を旅する神の民、神の国への旅人にほかなりません。
 ルカによる福音書12章29〜32節。ここは22節からの一連の箇所です。ここで語られていることはこうです。神の救いの支配・祝福の支配が、われわれとさらに被造世界全般に、どんなに確かに及んでいることか。そのことが私たちにとり、どれほど平和・平安・安堵のことか。まことに「思い煩うな」です。
 だから、31節。「ただ神の支配・神の国を求めなさい」、あなたがたは「み心を地にもなさせたまえ、み国を来たらせたまえ」と祈りつつ、働きつつ、委ねつつ、神の国への旅人であれ。
 神の国への私たちの旅、もちろんそれはどんなに一所懸命であっても、失策や誤りと無縁ということはない。不安や苦労がないなどと言うことはありえない。むしろその旅は、汗と涙を流しつつ、ほころび破れつつであるほかない。それが「神の国への旅人」の実情でしょう。しかし、そのことを恥じたり隠そうとする必要はない。むしろそれで良いではないですか。私たちが、私たちの旅の最後の締めくくり手ではないのですから。それは神のなさることです。イエス・キリストは生きて働いておられます。
 父なる神は必ず御心をなさる。そのようにして、神はついに最善をなさる。私たちに喜んでみ国を下さることを決意しておられる。その神こそが私たちの、いなすべての人、全世界の主であり、希望です。その主の招きです、私たちは気を取り直し、喜ばしく、晴れやかに、堂々と、神の国への旅を続けようではありませんか。その旅にある私たちに主イエスは告げておられます、「恐れるな、小さい群れよ。み国をくださることは、あなたがたの天の父のみ心なのである」。アーメン


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