お前たちは生きる

エゼキエル書37章1〜14節
ヨハネによる福音書20章19〜23節
2007年4月8日   イースター礼拝
経堂緑岡教会牧師  松本 敏之


(1)イースターの朝

 イースター、おめでとうございます。
 皆さんは、この喜ばしい朝を、どのようにしてお迎えになったでしょうか。どのような気持ちで、この礼拝に集われたでしょうか。ご自分の生活習慣の中で、いつもの日曜日と同じ思いで、「今日はイースターか」位の気持ちで来られた方も多いでしょう。普段は教会に来ていないけれども、あるいは来られないけれども、「イースター位は教会に行きたい」と思って、がんばって来られた方もあるかも知れません。本日、洗礼を受けられる方は、もちろん、特別な思いで来られたことでありましょう。
 私たちの置かれている状況もさまざまであります。新年度を迎え、意気揚々とした思いの方もきっとあるでしょう。その一方で、就職・受験など、思うようにことが運ばず、重い気持ちの方もあるかも知れません。家族の問題、自分の健康の問題、職場などの人間関係で悩んでおられる方もあるかも知れません。自分の将来に漠然とした不安をもっている。それどころか、これから一体、どのようにして生きていけばよいのか、という悲痛な思いの方も、中にはあるかも知れません。

(2)エゼキエル書の背景

 今日、私たちに与えられたエゼキエル書の御言葉は、意気揚々とした人々よりも、むしろ悲痛な思いの中にある人々に向かって語られた預言であります。社会的には、今日の私たちの日本の状況よりもはるかに厳しい状況でありました。絶望のどん底にある。将来に対する希望が見出せない。生き別れになった家族の状況もわからない。
 時は、紀元前6世紀初頭、イスラエルの国は北と南に分裂し、北イスラエル王国はすでにアッシリアによって滅ぼされておりました。そして今、南ユダ王国の都エルサレムは、バビロニア帝国の攻撃を受け、包囲され、紀元前597年に、主だった人々がバビロンに連れ去られました。第1回バビロン捕囚と言います。その12年後、さまざまな経緯を経て、エルサレムは完全にバビロニア軍によって包囲され、ついに陥落いたします。エルサレムの町と神殿に火がつけられ、町は壊滅いたしました。そしてさらに多くの人々がバビロンに連れ去られました。第2回バビロン捕囚であります。
 エゼキエルのこの預言は、そのようにしてバビロンの地で捕囚の身にあるイスラエルの民に向かって語られた言葉です。彼らの目には、炎上するエルサレムの町が焼きついていたことでありましょう。これを語った預言者エゼキエル自身も、他の人々と同様、捕囚の身でありました。
 このエゼキエル書37章は、エゼキエル書のクライマックスであります。私たちは今、朝の祈祷会で、毎週、エゼキエル書を読んでおりますが、実はこの箇所は先週の水曜日に読んだところです。多くの方に、この聖研祈祷会に加わっていただきたいという思いも込めて、この力あるエゼキエルの言葉を、イースター礼拝でもご一緒に読むことにいたしました。

(3)枯れた骨の復活

 新共同訳聖書では、この37章に「枯れた骨の復活」という題がついております。
 「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった」(1節)。
 エゼキエルは、捕囚の地バビロンから、空中浮揚のようにして高く引き上げられ、ある谷へ連れて行かれるのです。そし幻を見させられます。それが実際にはどういう体験であったのか、私たちにはわかりません。しかしエゼキエルにとっては、確かな現実、神が見せられた幻でありました。
 「主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」(2節)。
 死んだ直後ではなく、すでに白骨化していたのです。激しい戦闘の跡でありましょう。恐らく実際にそのような戦闘地が存在したのでしょうが、同時にこれは、当時のイスラエルの国を象徴するものでありました。神様ご自身が、後ほどエゼキエルにこう告げておられます。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と」(11節)。
 まさにそのような絶望のどん底から、神様の御業が始まるのです。まさにそこから復活していくのです。それはもはや人間の可能性ではありません。人間の可能性がすべて閉じてしまうところから神様の可能性が開かれていく。復活とは、そういう出来事です。
 その骨の山を見せられた時、あまりのすさまじさにエゼキエルは、言葉を失っていたかも知れません。そこへ神様の方からエゼキエルに問いかけられました。
 「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」(3節)。
 エゼキエルは、心の中では、「一度死んだ人間が生き返るはずがない。死んだ直後ならまだしも、白骨化した人間が生き返るはずがない」と思ったことでしょう。しかしそうは答えずに、神様に委ね返しました。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」(3節)。
 彼は、自分の経験、自分の知識から答えることはやめました。神様の可能性にかけたのです。彼は、神がこの天地を創られた方であることを知っていたからです。そしてその神は、土の塵でできている人間に命の息を吹き入れられた方であることを知っていたからです。「主なる神、あなたのみがご存じです。それは、あなたがそれを望まれるかどうかにかかっています。あなたがそれを命じられるかどうかにかかっています。あなたがそれを望まれるならば、あなたがそれを命じられるならば、生き返るでしょう」。それがエゼキエルの信仰でありました。

(4)体と霊の二段階で

 その後、神はそれを命じられるのです。そして枯れた骨は生き返ります。この復活が二段階で行われていることは興味深いことです。「わたしは、お前たちの上に(枯れた骨に向かって言っているのです)、筋をおき、肉をつけ、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」(6節)。 最初に肉体が回復され、次いで、霊が吹き込まれるのです。肉体が回復しただけではまだ復活とはいえない。また逆に、ただ単に霊的次元のことでもない。わたしたちの信仰告白、使徒信条でも、「からだのよみがえり(を信ず)」と言っています。
 もっともその「からだ」というのは、私たちの知っている肉体ではないでしょう。パウロも言っています。

 「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかも知れません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。……死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」(一コリント15:35〜44)。

 ただ単に肉体の話でもないし、ただ単に霊の話でもないのです。
さて、エゼキエルが神様の言われたとおりにしていると、骨がカタカタと音を立てて近づいてきて、そしてその上に筋と肉が生じて、皮膚がその上にできて体を覆いました。(今日ですと、CG〔コンピューターグラフィック〕で映画になりそうな情景です。最初の空中浮揚もそうですね。)しかし、先ほど申し上げたように、それだけではまだ復活とはいえない。神様はエゼキエルにこう預言させます。
 「霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば、彼らは生き返る」(9節)。
 その体に命の息が吹きいれられると、完全に生きる者とされました。この情景は、創世記2章にあるアダムの創造を思い起こさせるものであると思います。

(5)命は神の領域

 人間は医学で命を引き伸ばすことができるようになりましたが、死を避けられるようになったわけではありません。もしかすると、今後さらに科学が進歩していけば、肉体の再生もできるようになるかも知れません。しかし再生と創造は違います。命は神様の領域、命をつかさどられるのは神様のみです。
 神様が「生きよ」と命じられれば、生きる者とされるのです。そして、神様は、この時、骨に向かって、「お前たちは生き返る」と預言された。生きることを命じられ、生きることを許されたのです。
 この命令と許しは、イエス・キリストの言葉と御業の中に引き継がれ、より確かなものとされました。イエス・キリストは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25)。この問いかけは、私たちにも投げかけられています。「このことを信じるか」。
 イースターとは、この言葉がただ単に言葉の上での呼びかけではなく、「ほら、私を見なさい」と、イエス・キリストが私たちの初穂となって復活し、私たちの復活の道をつけてくださったことを示された出来事に他なりません。私たちは今、そのことをお祝いしているのです。

(6)社会への警告

 「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った」(10節)。
 これは目の前にある情景を表していると同時に、先ほど申し上げたように、イスラエルの全家を象徴しています。打ちひしがれて立てなくなっている民を、神様は、自分の足で立つようにされたということです。
 今の時代もまた、なかなか生きにくい時代、希望を見出しにくい時代です。日本もだんだんと格差社会的になってきたようです。勝ち組、負け組という風に言われ、成功した人、持てる人は安定した豊かな生活ができる一方で、そうでない人はなかなか生活レベルを上げていくのが難しい。持てる人は、何とかそれを維持しようとして躍起になる。それは不安と裏返しです。自分のもっているもの、地位が将来への保証のように見える。神に頼ることをやめて、結局は、モノ、お金が頼りだという風に考えてしまう。そして弱い立場の人を思いやる心は、自分の生活を脅かさない範囲でのみ発揮される。深い意味で、共に生きることはしないのです。しかしそうした世界は、やがて内側から崩壊していくことは目に見えているのではないでしょうか。
 実は、この時代の直前のエルサレムがそうでありました。支配者たちは神様の御心からはずれ、好き放題なことをしていました。悔い改めて、神様に立ち返ることはしないで、弱い立場の人は虐げられていました。そうした中、エゼキエルは、声が枯れんばかりに、「そんなことをしていれば、国は滅びるぞ」と叫び続けました。それがエゼキエル書前半(1〜24章)の内容なのです。厳しい言葉がずっと続いている。国が滅びる前はそのように警告したのです。
 しかし人々は、真剣に、エゼキエルの言葉に耳を傾けようとはしませんでした。そしてバビロン軍によって、国が滅びたのです。それは神様の遣わされた軍隊であり、神様の裁きでもありました。実は、すでに国は内側から滅んでいたのを、自分で悟ることはできなかったのです。

(7)滅びの後、希望を語った

 しかし一旦、滅びてしまってからは、エゼキエルは一転して、希望を語り始めるのです。打ちひしがれた民に向かって、「ほら見ろ。神様の言うことを聞かないから、裁きが下ったのだ。自業自得だ。」というようなことは言いません。「新しく生きよ。神様が生き返らせてくださる」と語ったのです。
 さて今日の私たちの状況は、どちらに近いでしょうか。どちらとも言えるかと思います。おごりと表面的な安心の中に生きている者、あるいはそのような国には、警告を与えられます。「一人で生きるのではなく、共に生きる道を取れ。」一方で、絶望の内にあり、希望を持てないでいる者、生活が破綻してしまった者、うずくまっている者、あるいはそういう国に向かっては、「生きよ。お前たちは生き返る」と、力を与えられるのです。
 「果たして私は、再び立ち直ることができるのだろうか。」そうした自分自身の問いに対しても、エゼキエルのように、「主なる神よ、それはあなたがご存じです。あなたがお許しになれば、私は生きることができます」という祈りを新たにしたいと思います。エゼキエルに幻を見せられた神、そしてイエス・キリストを死者の中から初穂として生き返らせた神が、今、私たちの礼拝の只中におられることを心に留めましょう。
 イエス・キリストは、復活の後、弟子たちの住む家に行かれました。弟子たちは絶望と不安とおびえのあまり、鍵をかけて家の中に閉じこもっていました。そこへイエス・キリストは不思議な形で、扉をすり抜けるようにして入っていかれて、真ん中に立って、「平和があるように」と、祝福の言葉を語られました。そして彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。この時、弟子たちは、イエス・キリストの復活の命にあずかったのです。生き返ったのです。復活のイエスの命をいただいたからです。
 「わたしを信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか」というイエス・キリストの問いかけに、「はい。信じます」と応えて、新しく生き始めましょう。


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