世の痛みを覚えて

(2007年度年間標語による)
レビ記19章9〜18節
コリントの信徒への手紙12章12〜26節
2007年4月15日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)主イエスの家族宣言

 経堂緑岡教会では、昨年度に続き、今年度も「神の家族」という年間標語を掲げました。教会は、神の家族である。これは深い味わいのある言葉であると同時に、深い意味のある言葉です。単なるフィーリングやムードで終わらせてはいけない。そこには、イエス・キリストの命令があり、ゆるしがあります。イエス・キリストが私たちを家族とされた。家族であることをゆるし、「家族である」と命じられたのです。
 昨年の年間聖句による説教で引用したのは、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ12:49)という言葉でありました。肉親、実の親兄弟を超えた交わりが、イエス・キリストのもとにある。この言葉は、「神様の御心を行う」というこちら側の姿勢が前提になっていますが、イエス・キリストは、十字架の上では、更に直接的な言葉を語られました。
 十字架のもとには、イエスの愛する弟子(恐らくヨハネ)と母マリアがいました。イエス・キリストは、母マリアに向かって、愛する弟子をさしながら、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19:26)と言われました。そして愛する弟子に向かって、「見なさい。あなたの母です」と言われました。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ19:27)とあります。これが、神の家族の原型、そして教会の原型ではないでしょうか。イエス・キリストが引き合わされたのです。
 私たちもここに集められました。ここに出会いがあります。ここに共同体があります。集まった動機はそれぞれ違います。しかしそれはやはりイエス・キリストが引き合わせてくださったのではないでしょうか。「御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」それはイエス・キリストの家族宣言です。家族として生き、交わりをもつゆるしであり、同時に命令です。
 私たちは、果たして、この1年、そのようなことを自覚して過ごしてきたでしょうか。もちろんそれは1年で成し遂げるというような事柄ではないでありましょう。いつも新しく、いつも驚きをもって、そしていつも原点に立ち返るように悔い改めをもって聞く宣言です。ですから、私たちも再びこの1年もこの標語も掲げて歩むのです。

(2)喜びも悲しみも、痛みも悩みも

 さて、この「神の家族」という言葉は、深い意味と大きな広がりをもっております。今年度は、それを少し違った角度から新たに受け止め直すために、「世の痛みを覚えて」という副題を掲げました。そして、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)と、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(コリント一12章26節)の年間聖句を掲げました。
 家族とは、喜びも悲しみも、痛みも悩みも共にする共同体です。そうでなくなった時に、「もはや血はつながっていても家族とは言えない」ということになるのかも知れません。イエス・キリストによって結び合わされた神の家族は、血はつながっていなくても、喜び、悲しみ、悩み、痛みを共有するのです。そうでなければならないし、そうであることをゆるされている。家族とは、一つの体のようなものです。みんなで問題を共有し、みんなで喜びを分かち合う。教会は、キリストの体ですから、実の家族以上に、そうでありましょう。

(3)力は弱さの中で

 パウロは言います。「体は一つでも、多くの部分から成り、体の部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です」(コリント一12:12〜13)。
 体の中で、一部でも具合の悪いところがあると、体全体の具合が悪くなります。ある部分が病んでいると、その病を回復しようとして、体中の力がそこへ結集します。普通は、体の中に病んだ部分があるということはネガティブ(否定的)に受け取られることが多いでしょう。「この病がなければ、どんなにいいのに。この病のために自分は、随分損をしている。」
 使徒パウロも何か人に言うのをはばかられるような病を持っていたようです。

「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛みつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(コリント二12:7〜10)。

 このことはキリストの体である教会にもあてはまることではないでしょうか。誰しも立派な教会、問題のない健全な教会を見ると、うらやましく思います。「何でこう、うちの教会は、次から次に問題が出てくるのだ。あの教会だったら、どんなに楽だろうに。あの教会に移りたいなあ。」しかし神様は、むしろそうした弱さ、破れの中でこそ、神の力が十分に発揮されるのだ、とおっしゃるのです。弱いところにこそ、みんなの力が結集されてくる。されなければならない。そのようにして初めて、キリストの体でありうる。
 共同体というものは、それにあわない人がやってきた時には、どうなるでしょうか。その人がそれにあわせて変わっていくか。その共同体がその人にあわせて変わっていくか。どちらかです。もちろん両面があるでしょう。しかし、その人の努力云々では解決しない問題もあります。その時には、その人が去るか、あるいはその人にあわせて共同体が変わっていくか、どちらかしかありません。

(4)バリアフリー

 バリアフリーというのは、その人がそのままで受け入れられるように、敷居を低くしていくことです。それによって、費用がかかるかも知れませんが、それによって共同体の質が変わっていく。そしてそれはすでにいる人にとっても、これから来るであろう人にとっても意味のあることなのです。
 バリアフリーというのは、ハード面、設備面だけのことではありません。心のバリアフリーという言葉がありますが、内面が変わらなければ、意味がない。外面を変えていくことによって、内側が変わっていくこともあるでしょう。いずれにしろ、両方が必要です。しかし、心のバリアフリーというだけでは、まだ不十分でしょう。大事なことは、キリストがその人をここに招いておられるということです。その招きを、私たちは妨げてはならないし、妨げになるものはできるだけ取り除いていかなければならない。しかしその共同作業の中に、実は私たち自身がイエス・キリストから招かれているのです。パウロはこう言います。

「神は、見劣りがする部分をいっそう引き立てて、体を組み立てられました。それで体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮しあっています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(コリント一12:25〜26)。

(5)世界全体が神の家族

 さて私たちは、今年度は、この「神の家族」という概念を「教会」からさらに広げて、「世界」へと目を向けたいと思うのです。もちろん、その軸足である「教会」があっての話であります。この世界全体も、キリストが宿られた神の世界です。
説教後の讃美歌でこのように歌います。

「われら主にある ひとつの家族
 青い地球の神の世界で
 共に苦しみ 共に喜ぶ」
(『讃美歌21』369)

 いかがでありましょうか。この歌の心を深く味わいたいと思うのです。この地球全体が一つの神の家族なのです。なぜならこの世界に、イエス・キリストがかかわっておられない場所はどこにもないからです。
 今年、秋の伝道集会では、世界120カ国以上をまわって、特に世界の「闇」の部分にスポットをあてて写真を撮り続けているフォトジャーナリスト、桃井和馬氏を迎えて、話を伺うことになっております。目に焼きつく写真を見せながら、示唆を与えられるお話をしてくださるであろうと思っております。
 また夏前には、社会委員会主催の社会福祉講演会を持つ予定です。私たちは毎年、クリスマスには、東京の「山谷兄弟の家」や横浜の「寿地区センター」に、古着やさまざまな品物、そして献金を届けていますが、「そこの活動はどうなっているのか。そもそもそこにはどんな人たちが住んで、そんな苦労をしておられるのか」、私たちはただモノやお金を送るだけではなく、そこから何かを学びたい、という思いから出たことであります。
 原案では「世界の痛みを覚えて」という副題であったのですが、「世界」というと、何か足もとの東京や日本を見ないで、遠くの話のように誤解を招きやすい、ということで「世の痛みを覚えて」に落ち着きました。世の痛みは私の痛みであり、世の痛みは教会の痛みです。

(6)隣人とは誰か

 もう一つの年間聖句は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」です。これは、旧約聖書の言葉としてよりは、イエス・キリストが最も大事な律法であると、引用された言葉として有名です(マタイ22:39、マルコ12:31)。
 隣人というと、私たちは目に見える身近な人を思い浮かべますが、このレビ記の言葉を読んでみますと、どうもそうでもないようです。このところについて、本田哲郎という大阪の方の寄せ場、釜ケ崎で働いている神父は、こう述べておられます。

 「ここで中心に据えられているのは、貧しい者を始め、社会の中の弱い立場に置かれている人々との関わりです。そして、『自分自身を愛するように隣人を愛しなさい』という一語にすべてを要約しています。
 どうしてそのような結論になるのか、少し意外な感じがしないでもありません。普通、『隣人』という言葉を聞くとき、わたしたちは自分の身近に居合わせる人のことを考えています……。
 しかし、この掟が言わんとする『隣人』とは、そういうこととは少し違っているような気がします。距離的に近く、隣に居合わせたから隣人なのではなく、たとえ遠くにいても隣に居てあげなければならない人、こちらからそばに行って共に歩まなければ生きて生けない状況に置かれている人のことのようです。
 『自分自身を愛するように隣人を愛しなさい』という結びに至る一つ一つの例を見ても明らかです。自分の畑もなく、雇ってくれる人もない貧しい者や寄留者がまず挙げられています。つづいて、虐げられやすい人、奪い取られやすい人、常に弱い立場に立たされている雇われ人、健常者優先に組み立てられた社会の仕組みのなかで、無神経にばらまかれている様々な障害物に悩む体の不自由な人々、体制側の論理によって不正に裁かれがちな弱者に目を向けさせ、かれらの尊厳を傷つけないような気配りと関わりを命じています。
 『隣人』とは、わたしの生活圏という枠を超えて、人間社会という広い視野の中でとらえられる『弱り果て、打ちひしがれている』人々であり、わたしの方から関わりを求めていって隣人になって行かなければならない人々のことを指しているのです。」(本田哲郎『小さくされた者の側に立つ神』p.19〜20)

(6)よきサマリア人のたとえ

 いかがでしょうか。私は、この本田神父の言葉を読んでいまして、やはり新約聖書の有名な「よきサマリア人」(ルカ10:25〜37)のたとえ話を思い起こしました。ユダヤ人から嫌われ、軽蔑されているサマリア人が、強盗に襲われて瀕死の状態のユダヤ人に対して、手を尽くして介抱してあげたという話です。
 もともと、「隣人とはだれですか」というのが律法学者の問いだったのですが、イエス・キリストは、その問いをひっくり返して、「だれがその人の隣人になったか」と問い返されました。あの話を聞いたら、誰しもが、「その人を助けた人です」というに違いありません。律法の専門家も、そのように答えました。イエス・キリストは言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい」と、結ばれました。
 隣人とは、私たちの助けを必要としている人です。私たちの目に見えないところにいる人かも知れません。私たちの生活圏の外にいる人かも知れません。しかしその目を開かせられて、広い視野のもとで、その人と共に歩むこと。それは、突き抜けたところで、私たち自身を豊かにしてくれるものであり、私たちの交わりをまことの神の家族の交わりとして、深めてくれるものであろうと思います。
 先週発行されました『いしずえ』60号に、社会委員長の佐々木計次さんによる山谷兄弟の家と横浜寿地区センターへの献品届けの報告があります。出会った人たちや活動のことを手短にお書きくださって、最後にこうまとめておられます。「献品は、次回も直接届けたい。そこに暮らす一人ひとりが『イエス・キリスト』だから。」
 私たちは、そこで何かを「してあげる」というよりも、そこでイエス・キリストが待っておられ、そこでイエス・キリストに出会う。それによって、私たちもまことの「神の家族」の意識を深めたい。そういう1年にしてまいりましょう。


HOMEへ戻る