この岩の上にわが教会を

77周年創立記念礼拝
エレミヤ書4章1〜4節
マタイによる福音書16章13〜20節
青山学院大学名誉教授、神奈川教区巡回教師
関田寛雄先生


(1)創立七七年にあたって

 経堂緑岡教会の創立七七年という記念すべき大切な礼拝にお招きいただき、光栄でございます。このような形でこの教会の歴史にかかわりを持つことができまして、本当に嬉しく存じます。
 私は青山学院教会で伝道師を一年務めた後、川崎に開拓伝道をし、以来川崎にこだわり続けております。
 七七年という教会の歴史は貴重なものですが、初期の時代においては大変なご苦労があったと思います。私自身、一昨年喜寿を迎えましたので、こちらの教会の歴史と私個人の歴史とは大部分重なっております。私は、メソジスト教会の牧師であった父の苦労を目の当たりにした者として、特に戦争中の高橋豊吉牧師がどんなに大変であったかと思います。そういうことも踏まえた上で、私たちのキリストの体である教会はどこを出発点とし、どの方向に向かって歩んで行くべきかを深く学んでみたいと思います。
 マタイ福音書の16章。ここに新約聖書において初めて「教会」という言葉が出てきます。しかも、主イエスがペトロを教会の「岩」として、この岩の上に私の教会を建てるという大事な言葉を発しています。これはどういうことなのか。それが、経堂緑岡教会の歴史を振り返りつつ、今後を考える場合の大事なきっかけになるのではないかと思います。

(2)フィリポ・カイサリヤの地で

 この物語はイエスの生涯においてなされた唯一のキリスト告白として有名な箇所であります。この告白が特別にフィリポ・カイサリヤにおいてなされたことに注目したいと思います。この地方の領主、ヘロデ・フィリポはローマのカイザルの後押しによって地位と権力を得たので、その感謝の意を込めてヘルモン山麓にローマ風の街造りをいたしました。そこにはローマ風の街並みはもちろん、ローマの宗教の神殿も建設され、そこでは皇帝礼拝が営まれていたということです。さらにユダヤに流布していたデナリオン銀貨には「カイザル・アウグストス・神の子・救い主」と刻印されていて、ユダヤ民衆に君臨するカイザルの支配が否応なしに突きつけられていたのです。
 主イエスは弟子たちから、自分についての世間の噂を聞いた後、「それではあなたがたは……」とご自身についての理解(告白)を求められました。ペトロは「あなたはメシヤ。生ける神の子です」と答えました。これは原文に即するならば「あなたこそメシヤ、生ける神の子です」と読むべきです。ここには明らかに「カイザルではなく」ということが示唆されていますし、当然ながら皇帝礼拝への否定を意味しています。ここに主が「フィリポ・カイサリヤの地で」弟子たちに「告白」を求められた理由があるのではないでしょうか。
 1939年に「宗教団体法」が成立しました。これは戦争遂行のために「神道・仏教・基督教」その他の宗教を再編成するものでした。そしてこれに基づいて日本基督教団が成立いたしました(1941年)。この法律は神社参拝を前提とするものでした。私の父も特高警察の尋問を受けて、苦しんでおりました。恐らく、当時の日本基督教団に関わる教会のすべて、そして教会の牧師はみんな、「天皇が大切なのか、イエス・キリストが大切なのか、どっちを拝むのか」という愚かしい質問を浴びておりました。恐らく高橋先生もそうした経験をなさったと思います。
 「宗教団体法」成立から、教団に対する様々な締め付けが加わり、やがて政府による戦争政策に基づく要求は「国民儀礼」となって現われました。主の日の礼拝に先立って、皇居遥拝、君が代斉唱、靖国神社の「英霊」への祈念という執行順序が『教団新報』に二度にわたって指示されました。礼拝には特高警察が混じって監視していました。教団は戦争政策に積極的に協力しました。
 このような歴史を歩んで来た教団は、戦後どうして、あたかも何もなかったかのごとく、礼拝を始め、伝道を始めることができたのでしょうか。そのことがまず問題です。
 私は川崎に入りまして、在日大韓基督川崎教会と合同で、礼拝をもちながら次第に、戦中の教団のあり方について深い反省をするようになりました。1967年になって、鈴木正久総会議長の名において、「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、いわゆる「戦責告白」が公にされました。私はそれを読んだ時に深い感動を覚えました。ここにおいて日本基督教団は何をも恐れずに、日本のために自由に主の福音を語る教会にやっとなったのだ、とう思いがしました。私は「日本基督教団信仰告白」と共に、「戦責告白」は、日本の教会形成にとって必要なものと思って伝道してまいりました。アジア・太平洋地域の人々に皇軍が残して来た惨劇を無視したまま、エキュメニカルな教会関係をどうして始めることができるでしょうか。おそまきながらの、しかも不十分ではあっても、あの「戦責告白」をせめて前提にせずしては、日本の教会は、キリストの福音を伝えることはできないと思います。

(3)この岩の上にわが教会を

 主イエスは「わたしはこの岩の上に教会を建てる」と言った後、受難予告をします。それを聞いたペトロは、「とんでもない、そんなことがあってはいけない」と主イエスを脇に引き寄せました。そして、今しがたほめられていたペトロは、イエス様に厳しく叱責されます。
 彼の本音はユダヤ民族の解放、ローマ軍の追放、ダビデ・ソロモンの栄光の帝国の再建にありました。その意図を主イエスに押しつけ、その役割を主に期待する行動に出たため、主は激しくペトロを批判されました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(16・23)。教会は、信仰告白の理解によっては、間違った歩みをしてしまうこともあるということです。
 しかしマタイ福音書はこのようなペトロに主が「天国の鍵を授ける」など、大変な権威を与える、という展開をします。これはどういうことでしょうか。福音書に見るペトロ像はそんなに誉められたものではありませんし、何よりも主の十字架刑の前夜、三度ペトロは主を否んでいます。そんなペトロの弱さ、優柔不断、罪深いさが性を主が知りたまわぬ筈はありません。ある意味でそれを承知の上で、主は憐れみによってペトロ(「岩」)を選び、「この岩の上にわが教会を」と言われているのではないでしょうか。従ってこの「岩」とは主の憐れみと赦しを受け、十字架によるとりなしを受けているペトロではないでしょうか。
 このようなペトロが教会の基であるということは深い含意があるように思います。教会はその過去、現在において誇るべき何ものも持っていません。教会は決して一義的に「聖なる公同の一つなる教会」ではありませんでした。今も主の憐れみの下で辛うじて生かされ、用いられているにすぎません。教会は信仰告白と共に、キリストの憐れみを証しする教会として、立ち行くべきではないでしょうか。教会は、教会が建てられている地域、集まっておられるお一人お一人の問題に、憐れみの教会としてかかわり続けて行くべきではないでしょうか。
 川崎での開拓伝道において、ようやく十三坪の敷地に九坪の教会堂が建ちました。ある時、夜中に教会堂の門をたたく方がいました。在日韓国朝鮮人である教会学校の子どもとお母さんでした。彼らのお父さんは、戦中、官憲の力によって川崎に連行され、戦後ようやく仕事を見つけて働いていたのでした。しかし職場でちょっとしたことから侮辱を受けたために、家で暴れて、とても家にいることができないので、教会に泊めてほしいということでした。私は、川崎で伝道をするということは、駆け込み寺のような役割があることを知りました。戦中、日本へ強制連行された人々が多く住む川崎で、伝道牧会することは、在日朝鮮韓国人との和解の営みなくしては続けられませんでした。彼らとの交わりの中で、大きく教えられ、聖書の読み方、教会観、神学が新しくされました。
 この創立七七年のよき日に、教会の歴史を振り返りつつ、今後の歩みをお考えいただきたく存じます。


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