一羽のすずめをも

イザヤ書43章1〜5節a
ルカによる福音書12章4〜7節
2007年6月24日
音楽礼拝   牧師 松本 敏之


(1)讃美歌「一羽の雀」

 本日は、ユーオーディア・アンサンブルの工藤美穂さんと柳瀬佐和子さんがヴァイオリンとピアノの二重奏を聴かせてくださっています。先ほど演奏していただきました「聖なる聖なる」と「一羽の雀」というのは、共に讃美歌でありますが、しばらくの時間、「一羽の雀」という讃美歌をめぐって、聖書のお話をしたいと思います。
 この後、皆さんとご一緒に、この讃美歌を日本語で歌いますが、その歌詞を、私の訳で紹介いたします。

《一羽の雀》
「なぜ私はうなだれるのか。
 なぜ影が訪れ、
 なぜ私の心はさびしくしていられようか。
 天の国を待ち望みつつ。
 いつ主イエスは私の中におられるのか。
 彼こそ、私の変わらざる友。
彼の目は、一羽のすずめに注がれており
私をも見守っていてくださることを、私は知っている。

私は歌う、幸せだから。
私は歌う、自由だから。
なぜなら彼の目は、一羽のすずめに注がれており
私をも見守っていてくださることを、私は知っているから。

2「心を騒がせないようにしなさい。」
主イエスのやさしい言葉を聞き、
私は、そのよき意志の中でやすらぐ。
私は恐れと疑いを捨てる。
主が導かれる小道。
私には、ただその一歩が見える。

私は歌う、幸せだから。
私は歌う、自由だから。
なぜなら彼の目は、一羽のすずめに注がれており
私をも見守っていてくださることを、私は知っているから。」

(2)作詞者シヴィラ・マーティンの言葉

 この曲の作詞者はシヴィラ・マーティン、作曲者はチャールズ・ガブリエルという人であります。この讃美歌は、『天使にラブソングを2』(Sister Act 2)というゴスペル・ミュージックの映画で歌われたことで、日本でも知られるようになりました。黒人の間でも愛されていますので、黒人霊歌と思われることもあるのですが、作詞者・作曲者共に、白人アメリカ人であり、1905年に作られました。
 作詞者のシヴィラ・マーティンは、この曲の生まれた経緯について、こう述べています。英語の文章を訳してみました。

「1905年の春先、夫と私は、ニューヨーク州のエルミーラへ旅行しておりましたが、そこで、ドゥーリトゥル(Doolittle)という名前のご夫妻と深い交わりが与えられました。ドゥーリトゥル夫人は、20年間ベッドに寝たきりです。彼女の夫は、体が不自由で、車椅子で仕事に出かけています。そのような大きな苦難にもかかわらず、お二人は幸せなクリスチャン・ライフを送り、彼らの知人・友人すべての人に、励ましと慰めを与えておられます。
 ある日、彼らを訪問中のこと、私の夫は、ご夫妻の輝くような希望について触れ、「その秘訣は何ですか」と尋ねました。ドゥーリトゥル夫人の応えは、シンプルなものでした。
 『主のまなざしは一羽のすずめに注がれ、そのお方は私をも見守っていてくださることを知っているということです。』
 限りない信仰のシンプルな表現の美しさが、夫と私の心をとらえ、想像力をかき立てられました。『一羽の雀』は、そのような経験から生まれたのです。」

その夜遅く、『一羽の雀』の歌詞は書かれ、翌日、作曲者のチャールズ・ガブリエルの元へ送られました。

(3)この歌を導いた聖書の言葉

 もちろん、ドゥーリトゥル夫人の信仰、そして作詞者シヴィラ・マーティンの言葉は、聖書の言葉に導かれたものです。その聖書の言葉が、先ほど読んでいただいたルカによる福音書12章6節以下の言葉であります。

「五羽の雀が2アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(ルカ12:6〜7)。

一アサリオンというのは、当時の通貨の一番安い単位であったようです。「百円」という感じでしょうか。五羽で200円だとすれば、一羽40円でしょうか。まあそんな細かいことはどうでもいいことですが(関西人はすぐに計算をしたがると言われますが)、その程度のものです。
 もう少しさかのぼって4〜5節も見てみましょう。これは、主イエスが弟子たちに向かって語られた言葉です。彼らがこれから受けることになる迫害を予期して、「恐れるな」と語られたのです。

「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐るべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ、言っておくが、この方を恐れなさい」(ルカ12:4〜5)。

 どんなに私たちを苦しめるものに出会っても、それが人であれ、病気であれ、そうです。肉体を苦しめることしかできないではないか。ただ神様お一人を除いて、誰も他の人の生命の深み、全領域にまで手を伸ばすことはできない。ですから、そのお方が私たちの人生の主、全生涯の主であることを知ること。神様ですね。この神様を真に恐(畏)れることによって、他のあらゆるものを恐れないで生きることができる。そこで初めてその他のすべての恐れから解放されるのです。
「神をも恐れぬ大胆さ」という言葉がありますが、「神を恐れない」者は、実際には逆にさまざまなことをびくびくして生きていることが多いのではないでしょうか。「主を畏れることは、知恵の初め」(箴言1:7)という旧約聖書の言葉があります。

(4)喜んで、神に立ち返る

 しかし、それだけでは、まだドゥーリトゥル夫人のような信仰にはいたらないですね。ここから先が大事です。「このすべての者を滅ぼす力をもった唯一の恐るべきお方は、実は、同時にデリケートに小さな雀を心に留め、私たちの髪の毛までも数えて、私たちを配慮してくださるお方だということです。」そうでなければ、私たちはかえってびくびくして生きることになりかねません。
 宗教によっては、私たちを恐れさせることによって、悔い改めさせようとするものもあります。「そんなことをすれば、地獄に落ちるぞ」。キリスト教にもそういうトーンが全くないわけではありませんが、基本的なトーンは喜びです。なぜなら、そのように地獄に落とされても文句を言えないような罪人である私たちに代わって、イエス・キリストが十字架におかかりになり、救いへの道を開いてくださったからです。喜んで悔い改める。喜んで神さまに立ち返る。これがキリスト教のトーンです。
 このドゥーリトゥル夫人の信仰も恐ろしくてびくびくして生きる、というのではなく、ちょうど泉の水がこんこんと湧き出るように、尽きない喜びに満ちあふれていました。そうでなければ、他の人を励ましたり、慰めたりすることはできなかったでありましょう。
 皆さんの毎日の生活は、いかがでしょうか。喜びに満たされているでしょうか、不安でいっぱいでしょうか。そこで、ドゥーリトゥル夫人の言葉に耳を傾けてください。
 『主のまなざしは一羽のすずめに注がれている。そのお方は私をも見守っていてくださることを知っています。』"His eye is on the sparrow, and I know He watches me."
 私たちの人生というのは、どこまで行っても不安があります。この先どうなるのかわからない。明日、どうなるのかもわからない。しかし神さまはそれを知っておられる。イエス・キリストは知っておられる。ですから、私たちは、このお方を知ることによって、たとえ自分の行く末、将来について知らなくても平安を得ることができるのではないでしょうか。もちろん、信仰を持っていても、いつもそのことを忘れ、不安におびえることの多いものです。しかし信仰をもつことはそうした中にあっても、立ち返るべき原点を知っているということです。「そうだ、イエス様がおられるんだ。イエス様がすべてご存知なのだから、安心していいんだ」。そこが帰るべきところです。イエス様はおっしゃいました。
 「あなたがたは世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。このイエス・キリストにつながることによって、何ものをも恐れない、芯が強い、そしてだからこそ、しなやかな人生を送りたいと思います。


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