はらわたを突き動かされて

出エジプト記3章7〜10節
マルコによる福音書6章30〜44節
2007年7月15日
寿地区センター主事 三森妃佐子先生


 只今、ご紹介に与りました三森と申します。いつも祈り支えてくださり感謝申し上げます。また、佐々木さんが今日の日のために寿を訪ねてくださり準備をしてくださいました。ありがとうございました。また、礼拝の始まる前に一色先生とお話しましたが、私が寿へ入って間もない時、教団から一色先生がおみえになり励まして下さいました。感謝でした。そして、今日、みなさまとご一緒にみ言葉を分かち合えますことを感謝申し上げます。

(1)空腹という現実

 今日の聖書の箇所ですが、見出しに「5千人に食べ物を与える」とあります。その横に小さい字で(マタイ14:13−21、ルカ9:10−17、ヨハネ6:1−14)とあります。この括弧の中は共観福音書の並行記事です。読んでいただくと微妙に違うことがお分かりいただけると思います。この微妙な違いこそが、時代状況の中でそれぞれ作者の主張するところであり、また、それぞれの信仰告白だと思います。
 マルコが、福音書としてイエスの生き様を描いた理由は、当時すでに権威的存在となりつつあったエルサレム教団や、パウロに代表されるイエス理解に対抗するためであったといわれています。
 今日の箇所にあるように僅かな食べ物で多くの人を養うという物語は、旧約聖書にもいくつかありました。また「マルコ」においても、本来は「神の人」イエスがこういう願いをかなえてくれる「大牧者」であるという伝承がありました。
 33節では、多くの人々が集まって来ました。この多くの人々とはガリラヤの飢え苦しむ人たちでした。その数は五千人といいます。その当時は、男性しか数には数えられておりません。ですから女性と子どもを加えると非常に多い数だったと思います。
 いろいろ教え始められたとありますが、その教えの内容は書かれておりません。ただ分かっていることは、この五千人以上の人たちが「空腹」であるという、現実に差し迫った問題だと言うことです。

(2)痛みの共感

 イエスは、大勢の群衆を見て、彼らが「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ」(34節)とあります。
 今日は、この「憐れみ」という言葉をみなさんで考えてみたいと思います。
この「憐れみ」とは「はらわたを突き動かされる」という意味だということです。新約聖書の中でイエスは「重い皮膚病」を患っていた人を抱きしめ、その病人が癒されました。目が不自由な人たちの真剣さにイエスは「はらわたを突き動かされ」、人びとがけがれとみなすその目に触れ、彼らはいやされました。一人息子をなくしたやもめの悲しみに「はらわたを突き動かされ」、イエスは律法が不浄と規定する死体を納めた棺を手で押しとどめ、奇跡が起こりました。
 そして今日の箇所で、腹をすかせた民衆の、貧しさの中で奇跡的な食事の分かち合いをうながしたのも、イエスが「はらわたを突き動かされた」ことからでした。
 「憐れみ」というのは、こちら側の優位性、安全性が前提になっていることが多くあります。目にしている苦しみに同情するに留まり、「はらわたが突き動かされていない」のかも知れません。本田哲郎さんは「痛みの共感」と言っています。(本田哲郎さんは、カトリックの神父さんで釜ヶ崎の「ふるさとの家」で活動されている方です。こちらの『いしずえ』を拝読させていただきましたが、松本先生の説教の中でも本田さんの言葉が紹介されていました。)そうです。イエスの福音活動は「痛みの共感」から始まったのです。沖縄に「肝(チム)苦しい」ということばがあります。文字通りです。
また、「キリエ エレイソン」(「主よ、あわれみたまえ」)というのは、「この苦しみ(痛み)をわかってください」「苦しみをわかって何とかしてくれ」という、苦しみの原因を取り除くことを願う叫びでした。
 私たちは苦しむ人の痛みを知る時、一人の人間として心を動かされます。抑圧され、貧しく小さくされている人びとの、耐え難い苦しみを知り、人びとがひたすら耐えている姿を目のあたりにするとき、胸が痛み、いたたまれない気持ちになります。

(3)野宿労働者の叫び

 皆様方が「はらわたをつき動かされた」のはどのような時だったでしょうか。私の場合は、「はらわたをつき動かされた」のは野宿労働者の叫びでした。「私も人間だ、人間扱いして欲しい」という叫びでした。それは、川崎市との交渉の時でした。川崎をご存知でしょうか。最近の川崎の駅周辺は新しい建物がたくさん立ち並んでいます。その川崎駅にアゼリア地下街というところがあります。そのまだアゼリア地下街ができた頃、その方はベンチで腰をかけて座っていたそうです。ただ座っているだけなのに、警備員がきて、「お前のようなやつが座るところではない。どけ」と言われたというのです。その労働者は「長靴をはき、薄汚れたドカジャンを着ていたからなのか」と話を続けました。「おれがこのアゼリアを作ったんだ。なぜ追い出されなければならないんだ。」「俺も人間だ、人間扱いしてほしい。ゴミ扱いしないでほしい。」と叫んだのでした。私は、その場で、涙がボロボロこぼれたのを憶えています。もうどうすることもできませんでした。それからも、野宿している人たちは叫び続けています。
 なぜ、野宿している人たちが、このような目に会わねばならないのでしょうか。これは、日常生活の中で、日雇い労働者の人たち、野宿労働者の人たちの働きがわからないからではないかと思います。私たちの生活全般を見回しても、何一つその人たちの働きによらないものはないと思います。
 例えば、横浜でいえばベイブリッジとか、ランドマークタワーでも、完成すれば「きれいだ」「これで横浜も観光地として誇れる」と外見で評価しますが、ビルの建設や道路工事などは、3K労働(きつい、汚い、危険)労働です。また、東京でも1996年1月24日、新宿駅の野宿労働者が行政によって強制的に排除されました。しかし、ほとんどの労働者は、都庁を作ったり、駅を作ったりした労働者たちでした。
 これらはすべて、日雇労働者の汗と力によらなければ成り立たないのです。にもかかわらず、なぜ、野宿をしているというだけで差別され排除されるのでしょうか。なぜ、「野宿している人たちが問題だ」と言われるのでしょうか。「飲んだくれ」「怠け者」と言われ、「彼らは普通に生きることを放棄した人間」また、「差別される人たちが悪い、差別される人の問題だ」と言われます。労働者の汗や臭いを汚いものとし、目の届かないところへ追い払おうというのです。しかし、本当にそうなのでしょうか。誰一人として好き好んで野宿生活をしている人たちはいません。産まれた時、野宿だった人は一人もいません。野宿している人たちも親から産まれた命ある人間です。しかし、このように私たちの生活の中では「まさか」ということが起こるわけです。

(4)貧しさを産み出す構造

 寿に住んでいるNさんは年金と生活保護を受けて生活しています。64歳の時に野宿生活を余儀なくされました。某有名大学を卒業し、外資系企業のサラリーマンをしておりました。けれどもお母さんが病気で倒れ看病のために58歳で仕事を辞め、介護生活をせざるを得なくなりました。そしてお母さんが亡くなり、家の借地権をめぐって年金を担保にお金を払いはしたものの、借地金が高くお金がなくなり、野宿生活となりました。裁判もしましたが、今では生活保護を受け、寿で生活をしています。
 またHさんは86歳ですが、2〜3日食事ができないということで簡易宿泊所の帳場さんから相談を受けました。年金生活で、質素な生活をし、一生懸命お金をためていました。けれども、病気で入院することになりました。気づいた時は末期がんでした。この方はアパートが火事になり何の補償もなく、住むところもなく、85歳になってから寿町へきました。そういう状況が起こるのです。野宿をしている人のほとんどが「あの路上に寝ている奴は、本当に怠け者なんだ」と思っていたというのです。
 野宿している人たちはここ十数年増え続けています。みなさんも見かけることが多いと思います。高度経済成長期、仕事があった時は野宿している人はほとんどいなかったと思います。しかしバブル崩壊後野宿している人たちはどんどん増えてきました。なぜでしょう。仕事がないからです。
 一方では「セレブ」とかで、上流階級の人たちが生活をし、一方で、貧しい者たちが限りなく貧しくなっていく。不景気だといっても「豊かな日本」、食べるものもグルメブームで、たらふく食べてダイエット食品が売れるという矛盾。
 アジアにおいて安い労働力で製品を作り、日本で売る。また、アジアの自然を破壊し、私たちの生活はなりたっている。アジアを踏み台にしてわたしたちの生活がなりたっているのです。また、日本の社会においても日雇労働者の人たちを踏み台にして私たちの生活は成り立っているのです。この世界には食べることもできない人たちがたくさんいます。そして身近でも多くの人たちが食べることもできず、屋根のない人たちがいるのです。

(5)共に生きていくという強い意志

「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう。』これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった」(35〜37節)。

 イエスは、すべての人々が満腹になるように、あなたがたがしなさいと言っているのです。他の誰でもなく「あなたがたが」と言っているのです。しかし、弟子たちは「われわれがわざわざ出かけていき、200デナリものたくさんのパンを買ってきてそれを彼らに食べさせろとでもいうのですか。1デナリは約5000円で、労働者の一日分の標準的な賃金です。200デナリというのは100万円になります。莫大なお金ですね。弟子たちは、こんな的外れなことしか考えていなかったのです。そして、全くイエスのいうことに従おうとせず、むしろイエスの姿勢を批判していました。イエスの提案は不可能であると思っています。信頼していないのです。
 「イエスは言われた。『パンは幾つあるのか。見て来なさい。』弟子たちは確かめて来て、言った。『五つあります。それに魚が二匹です』」(38節)。
 自分たちで現場に出かけ、「見てきなさい。確かめてきなさい。」と言っているのです。

 「イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」(39〜41節)。

 彼らは、危機の状況において、どこかに行って買ったのではなく、今自分たちの持っているもので、分かちあいました。分かち合うことができるのです。このことは新しい体験です。このことは五千人が共に生きていくという強い意志を創りだしているのです。ここにおいて私たちは、新しい希望を見ることになるのです。
 イエスはガリラヤの民衆と共に食を分かち合い、自分のことにのみ目を向けていた一人一人が共に分かち合う豊かさを味わいました。
 ここでは、貧しい者たちと共に生きることが強調されています。分かつことによって少なく小さくなっていくのではなく、分かち合うことによって豊かになっていくのだと思います。分かち合いの共同体、痛みを共感する共同体です。
 そしてそこでは、どのように「分かち合って共に食べるのか」ということがより大きな課題です。
「すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった」(42〜44節)。
 すべての人が満腹になることが大切なのではないでしょうか。空腹の群衆と共に食物を分かち合うことこそが大切であり、重要なのです。マルコにとっては、イエスは疎外された辺境の地ガリラヤに生まれ育った者として、その地の貧しい虐げられた民衆と共に生き、また民衆を抑圧する宗教的・政治的な支配者や指導者たちを批判し、ついには当時の権力者や宗教家に不安を与え、ついに処刑されるに至った方なのです。

(6)週一回の炊き出し

 私たちの活動の中に炊き出しがあります。本当に小さい働きであり、週1回だけの炊き出しが何の足しになっているのかとも思いますが、紹介したいと思います。
 11月〜7月まで毎週金曜日、朝7時から準備を始め、8時から野菜の切り込みをし、午後1時から配食をします。場所は寿公園です。雑炊の提供を行っています。お替り自由 平均約600食です。労働者と寿住人とボランティアが「一緒に作って一緒に食べる」をモットーにしております。その場は触れ合いの場所であり、交差点でもあります。ボランティアは「寿」を発信するメッセンジャーでもあります。外から言われる「怖いところ、怠け者の町」という偏見が渦巻く中、「寿」の現実を発信して欲しいと思っています。「寿の問題」と言われているのは、実は「寿の外の問題」であり、自分たちの問題だと気づいたところから始まります。また、情報交流の場でもあります。
 いつも心に浮かぶ言葉があります。それは、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』という本の中にある「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」という言葉です。この言葉は、まさに聖書で語っていることだと思います。苦しんでいる人の声、悩んでいる人の声、そして叫んでいる人の叫び、路上にいる人たちの声を聞き、ひとりひとりの命が尊ばれ、互いの違いを認め合えるよう、一人ひとりが繋がりあえば、そこに必ず希望が見えると思いますし、希望をも創り出していけると信じています。この世を変えていくことができると思います。
 祈る時、必ず、私は、ことばにつまるのです。そのうち神に向って「あなたは、なぜ、この世の不平等をお許しになるのですか」と叫んでしまうのです。
 神の与えたもうたかけがえのない命ある者がひとりとして不幸を味わってはならないと思うのです。はらわたを突き動かされ、痛みを分かち合う共同体でありたいと思います。

(7)田代猛 「生きる−逆境に生きる仲間に」

 最後に野宿労働者が書いた希望の詩をご紹介して終わりたいと思います。

生きる−逆境に生きる仲間に
                           田代 猛
つまずいたって、いいじゃないか
人間だもの。
雨の日もあろう。風の日もあるだろう。
そして、いつの日か晴れの日もあるだろう。
幸福と云う日は、雨の日や、風の日や、嵐と云う日を幾度か送りながら、
出会うのだろうか。
人生と云う永い道だもの。
   涙もあろう。笑いもあろう。悲しみもあるだろう。
でも今日、ここに生きているんだもの。明日も明後日も生きるんだ。
心に晴の日を確かめながら生きるんだ。
    仲間よ、友人よ、生きるんだ。生きるんだ。

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