弟子たちの召集

エレミヤ書1章4〜10節
マタイによる福音書10章1〜4節
2007年8月19日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)多彩な顔ぶれ

 本日は、経堂緑岡教会のキャラバン隊一行が、この吉原教会の主日礼拝を共に守っています幸いを感謝します。今年も人形劇を携えてきました。今年のタイトルは、「イエス様の弟子になろう」というものです。どうぞお楽しみに。これに先立って、主日礼拝でも、イエス様の「十二弟子の召集」の記事から御言葉を聞きたいと思います。
 マタイ福音書10章冒頭には、こう記されています。

「十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」(2〜4節)。

 何でもない名前の羅列のようですが、よく見るとなかなか興味深いリストです。
 最初に、「まずペトロと呼ばれるシモン」とあります。弟子の名前を挙げるならば、まずこの人、という筆者の思いが表れています。確かに、このペトロという人は、先頭をきって主イエスに対して、「あなたこそ、生ける神の子メシアです」と最初の信仰告白をいたします。しかしそのすぐ後で、主イエスが、ご自分が受けることになる苦難について語られると、「先生、そんなことおっしゃるものではありません」とたしなめようとし、逆に、主イエスから「サタンよ、引き下がれ」と厳しい言葉をかけられるのです。一番近くにいると思いながら、それほど無理解でありました。また「他の人はどうあれ、自分は最後まであなたに従って行きます」と、威勢のいいことを言うのですが、自分の身を守るために、主イエスを「知らない」と、三度、否認いたします。それほど弱い男でもありました。ペトロが、本当にイエス・キリストの使徒として立つためには、その後の悔い改めと、主イエスのゆるし、再派遣、そしてペンテコステを待たなければなりませんでした。最初のペンテコステの折には、彼は非常に力強い説教をするようになります。
 次のアンデレは偉大な兄弟ペトロの陰に隠れがちですが、ヨハネ福音書によれば、彼はペトロを信仰に導く大切な役割を果たしました(ヨハネ1:40〜42)。
 その少し後に、トマスが出てきます。復活の主を信じることができず、「この手をその脇腹に差し入れるまでは絶対に信じない」と言った人です(ヨハネ20:25)。

(2)神学校入学

 私は、自分が神学校へ入学した時のことを思い起こします。私が最初に感じたことは、「主は何とさまざまなところから、何と多彩な人間を選び出されたことか」ということでした。エリート中のエリートで、「何で牧師なんかになるのだろう、もったいない」と思えるような人もいましたし、逆に「学力よりも体力」という感じの人もいました。高校を卒業してすぐに来る人もいましたし、脱サラをして神学校へ来る人もいました。真面目人間の見本のような人もいましたし、カタギの世界ではなかなか出会えないような変人も多くいました。なかなか面白い集団でした。
 そして卒業の時には、それらの人々がそれぞれにというか、それなりに整えられて、伝道の現場に遣わされていくのです。もちろん牧師にならなかった人々もいますが、それはそれで違った形で、この世に派遣されていると言えるでしょう。その一人一人を思い起こしてみますと、いわゆる牧師タイプ、というのはあまりない。みんな違ってそれぞれに牧師という感じです。

(3)徴税人と熱心党員

 さて、この十二弟子の名前のリストに、二人だけ肩書きが記された人がいます。一人は徴税人マタイで、もう一人は熱心党のシモンです。この二人を並べてみると、改めて主イエスの弟子選びはすごいことであったと思わされます。
 徴税人というのは、ユダヤを占領していたローマ帝国に納める税金を徴収していました。しかも自分の取り分をピンはねするために、ローマの権力を背に何倍もの税金を巻き上げていました。ですから、ユダヤの人たちは徴税人を、罪人と並べて称し(マタイ9:10など)、悪魔に魂を売って、仲間の血を吸って生きていると見ていました。嫌われて誰からも相手にされなかった人です。そのマタイを主イエスは、弟子としてお召しになっているのです。
 一方、熱心党というのは、ローマ帝国の支配に対して、武力をもってしてでも対抗し、いつかローマの権力を追い出してやる、と意気込んでいたグループです。超愛国主義者だと言ってもいいでしょう。ですから熱心党の人々にとって、徴税人などは絶対に赦せない存在でした。
 しかしながら、イエス・キリストは、その両者をひとつのサークルの中に召しておられるのです。これは常識では考えられないことです。特に熱心党のシモンにとっては面白くなかったことでしょう。彼は、「自分はこの人と一緒に国を変えていくんだ」という使命感に燃えて、主イエスの弟子になったに違いありません。ところが集まった顔ぶれを見ると、それまで「人間のくず」のように思っていた人間がそこに混じっているではありませんか。ショックであったでしょうし、主イエスの真意をはかりかねる複雑な思いをもったことでしょう。
 しかし私は、このイエス・キリストの弟子選びそのものが、すでに和解の福音、平和の福音を語っていると思うのです。違った者、敵対している者が、共にイエス・キリストの弟子として生きる。これはなかなか容易なことではありません。悔い改めを必要とすることです。
 私自身、「何であんな人がクリスチャンなのだ」「何であんな牧師がいるのだ」と憤慨することもあります。例えばイラク戦争が勃発した時、それを容認している牧師がいることを知ると、いたたまれない思いにさせられました。もちろん安易に流れることも間違っていると思いますが、そこで謙虚に主の御心を尋ねつつ、自分の考えを絶対化せずに、真剣に議論することが求められているのだと思います。

(4)イスカリオテのユダ

 弟子のリストの最後に、「それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダ」とあります。イスカリオテのユダのことを、私たちはどのように考えればいいのでしょうか。ユダは主イエスによって十二弟子の一人に選ばれながら、主イエスをわずか銀貨30枚で敵対者に売り渡してしまいます。どうしてユダは主イエスを裏切ってしまったのでしょうか。最初は主イエスを来るべきメシア(救い主)として迎え入れましたが、だんだん自分の期待通りのメシアではないということが見えてくると、裏切られたという思いがつのり、期待が憎しみに変わっていったのでしょうか。
 主イエスが最後の晩餐の席で、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(マタイ26:21)と言われると、十二人の「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始め」ました(同22節)。これは、みんな心のどこかで、「自分も、もしかすると裏切るかも知れない」と思っていたことのあらわれではないでしょうか。誰も、自分は決して主イエスを裏切ることはないという確信をもつことができなかったのです。ユダという人は、例外的なとんでもない人物ではなく、他の弟子たちの中にもユダ的要素があったし、まさに私たちの心のうちにも「ユダ」は潜んでいるのです。
 もしも主イエスが私たちの前で、例えばここで、「あなたがたのうちの誰かがわたしを裏切ろうとしている」と言われれば、誰しもが身に覚えのあることとして不安になるのではないでしょうか。牧師だってそうです。「いや、私は絶対にそういうことはない」と言い切る人もあるかも知れませんが、個人的な確信というのはあまり当てになりません。このすぐ後、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(26:33)と言い張ったペトロでさえも、結局はすぐにつまずいてしまいます。直接、イエス・キリストを売り渡すのはユダですけれども、その他の弟子たちも主イエスをおいて、みんな逃げ去ってしまいます。ユダは積極的に裏切りましたが、ペトロも他の弟子たちや消極的に裏切ったと言えるでしょう。

(5)ユダの罪とは

 私は、ユダと他の弟子たちの違いは、この積極的な裏切りか、消極的な裏切りかということよりも、もう少し別のところにあると思うのです。イエス・キリストが裁判に引き渡された頃、ユダは自分のしてしまったことを後悔していました。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った」(マタイ27:3〜4)。

 これはいわば、彼の罪の告白です。その意味では、とても誠実であったのです。しかし「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と、冷たく突き放されます。それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んでしまいました。私は、ユダの罪というのは、一般に考えられているように、イエス・キリストを引き渡したことよりも、むしろ、ここ、つまり自分に絶望し、自分の罪を自分で引き受けようとしたことにあるのではないかと思います。私たちは、自分で自分の罪を引き受けることはできないのです。そうしようとすれば、誰でも最後には自殺せざるをえなくなってしまいます。ユダとペトロの違いはここにあったのではないでしょうか。「それでもキリストは、自分に背を向けず、自分に向き合ってくださっている」ということを信じることができなかったのです。

(6)ユダのためにも祈るイエス

 それにしても、どうしてユダは十二弟子の一人に加えられたのでしょうか。主イエスは十二人を選ばれた時に、後にこうなることを見抜くことができなかったのでしょうか。だとすれば主イエスの重大な失敗ということになるでしょう。今風の言葉で言うと、「大臣の任命責任」みたいなものです。
 あるいはそうなるかも知れないと、うすうす感じつつ、いずれ自分が訓練してやろうと思いながら、弟子になさったのでしょうか。だとすれば、やはり弟子教育に失敗したと言わなければならないでしょう。今風の言葉で言えば、「教え子の不祥事」みたいなものです。
 私はそうではなく、主イエスは、こうなることをすべて見越した上で、イスカリオテのユダを弟子の一人に加えられたのであろうと思います。つまり、ユダのような者も、主イエスの弟子として行動を共にし、弟子たちの輪の中に加えられることが、御心であったのです。特に、この主イエスの地上における最後の晩餐(聖餐式)に、ユダが加わっていることは重要です。
 またヨハネ福音書を見ると、洗足、主イエスが弟子たちの前にひざまずいて弟子たちの足をお洗いになった、その場にもユダは加わっているのです。主イエスは、イスカリオテのユダの足をも洗われたのです。このこともとても大事だと思います。
 ユダの物語を心に留める時に私たちは、私たち自身の最も暗い部分を見せ付けられるような思いがしますが、その暗闇が濃ければ濃いほど、そこにあらわれる恵みの光も大きいのです。
 主イエスは、このユダのためにも身をかがめて足を洗い、このユダのためにもパンを裂き、このユダのためにもぶどう酒を用意されたのです。もっと突っ込んで言えば、このユダのためにも「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているかわからないのです」(ルカ23:34)と祈られ、このユダのためにも死なれました。私は、だからこそ、私も受け入れられているのだ、と確信することができるのです。私も洩れていない。私も確かに、その輪の中にいると信じることができるのです。

(7)十字架を通しての和解

 さて、イエス・キリストは、徴税人と熱心党員の間においても、安易な仲介をしようとされたのではありませんでした。どこかの大国の大統領のように、自分の利害を計算して、対立している二者をうわべだけ和解させようとしているのではありません。実に自分の痛み、犠牲の上にそれをなそうとしておられるのです。このイエス・キリストの決意は、徴税人と熱心党員の二人を召集するだけではなく、さらにイスカリオテのユダをも召されたという事実、最初から爆弾を抱え込むような決意をもって弟子たちを召されたという事実に、如実に表れていると思います。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊……されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2:14〜16)。

 イエス・キリストは、まずご自分の弟子集団においてそれを実現し、さらにその集団を用いて、和解と平和の福音を広げていかれたのです。
 私たちもそこに招かれています。私たちもそこに召し集められています。主イエスの召しにこたえるというのは、必ずしも牧師や神父やシスターになることだけではありません。クリスチャンとして生きるということそのものの中に、私たちは招かれています。そこで自分の生活の中で、キリストの弟子であることを証していくのです。
 その招きには主イエスの御自分をかけた姿があります。だからこそ、私たちも安心し、自分を主イエスに委ね、自分をかけて、この召しに応えていきたいと思うのです。


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