私たちを駆り立てる愛

申命記7章6〜8節
コリントの信徒への手紙二 5章11〜15節
2007年11月18日(日)
経堂緑岡教会  朴 憲郁牧師(千歳船橋教会牧師、東京神学大学教授)


 私たちは今、秋の深まりを覚える季節の日々を過ごしていますけども、美しい自然の中で私たちを育み、生かしてくださる神の御恵みを覚えて讃美しつつ、主の日の礼拝を捧げようとしています。とりわけ今朝、私にとりましては初めての経験であります交換講壇ということで、御教会に招かれまして、御言葉を取り次ぐご奉仕をさせていただきますことを感謝申し上げます。松本牧師は千歳船橋教会において同じく説教のご奉仕をなさってくださっていますので、このことも合わせて感謝する次第です。
 最寄り牧師会や西南支区の諸集会などで、松本牧師や他教会の牧師・伝道師とは親しく語り合ってしますし、御教会には両教会の壮年会による年一回の交流会の際に、二度ほどお訪ねして、共に信仰の交わりと学びをしたことがございます。
 私が今の教会に4〜5年ほど前に赴任して間もない頃、ある会合のために経堂緑岡教会を自分の自家用車で初めてお訪ねした時に、松本牧師からあらかじめ行き方の説明を受けていましたので、問題なく時間内に到着できると思っていました。カーナビも車に設置していて、教会の近くまで来た時に、「目的地周辺に到着いたしました。ご苦労さまでした」とアンウンスが流れ、ゴールの旗印までカーナビの液晶画面に出て、道案内はそれで終わりましたから、もう着くと思っていました。ところが、どういう訳か、最後の一つ二つ先の路地を曲がる行き方を知らず、道を間違えたのかと思いまして、近くの所で行ったり戻ったりを繰り返しましたが教会が見つからず、困ってしましました。10分ほどして、通りがかりの人から教えていただいて、ようやく教会に辿りつきました。それ以来、もうこの行き方を間違えることはもうありません。
 いつもは環八通り、千歳通り、城山通りなどの比較的大きな道路だけを走っていましたから、碁盤の目のように道路整備がなされていない世田谷地区の裏道に一歩入りますと、細くて曲がっており、しかもすぐ先の所は一方通行といった個所が多いものですから、その後もたびたび、車の運転をしながら迷路に入って方向感覚をなくし、大変困ってしまうことがありました。そういう経験をした後からは、できるだけ裏道に車では入らないことにし、近距離であればできるだけ自転車か徒歩で行くよう心がけています。今朝は、自転車で来ました。
 でも、裏通りを歩いたりするごとに気づくことは、スピードを出して大通りを車で走る時には分からなかった民家とその庭ににじむ生活の姿に触れることができ、田畑などまだまだ緑地地区の残っているこの地域の雰囲気や伝統に触れることができるということですし、その良さを味わうことの大切さを知るということです。地域の生活の奥行きを知るのです。
 ところで、今朝の礼拝のために選ばれました新約聖書の個所の14節に基づいて、説教の題を定めました。そこに用いられる「愛」という言葉は、福音の核心を突く言葉です。キリスト教を一言で特徴づけるならば、それは「愛の宗教である」と明瞭に答えてよいと思います。それは、イエス・キリストによって私たち人間に差し出された神の絶大な愛ということです。
 しかし、大通りで声を大にして語ることのできる神の愛には、奥行きの深さがあり、いくつもの裏道、小道があります。しかし、私たちが現実に利用する入り組んだ小道と一つ違う点があります。それは、神の愛の奥深くへと導く小道が決して迷路ではなく、どれもこれも私たちが常に新たなことを発見し経験しつつ、目標を見つめて歩いていける希望の道、命の道だということです。
 ある人は、聖書の語る愛を理解し、真剣に受けとめつつも、「駆り立てる愛」などと言われると抵抗心を起こすかもしれません。そうでなくても、超スピードの今の時代に、息を切らすほど忙しく働いているので、日曜日くらいは真の安息の日であり、癒しと慰めの場所としての教会礼拝でありたいと願っているからです。
 しかし、使徒パウロがこの個所で、確かにコリントの教会で起こっているある問題について論争的に述べてはいるのですけど、ここで確信をもって語りかける言葉はもとのギリシャ語動詞のシュンエコーです。新共同訳書ではそれを「駆り立てる」と訳していますが、シュンエコーとは、しっかり捉える、結びつける、支配する、という意味です。そこからすれば、「私たちを駆り立てる」という表現よりも、「私たちに強く迫っている」、「私たちをしっかり捉えている」と訳した方がよいと思います。浮き草のように移ろいやすい私たちの心と行いを、キリストの愛が支配し、迫り、しっかり捉えているという意味です。皆のために十字架上で死なれたキリストの憐れみは、そのような力をもって私たちを本当に慰め、迷いと不安から解き放ち、主の愛の御腕の中で私たちを憩わせてくださいます。
 ただ何もせず、他の宗教や思想が追い求める静寂さ、無為・無我の境地に安息の場を見出すのではないことを、私たちはこの動詞から言葉から知らされます。
 ところで、一般にどの人にとりましても、「愛によって生きる」ということは、人間が人間らしく生きるための重要かつ永遠のテーマであります。愛という言葉には重い意味がありまして、これを相手に向かって発信する時、人は自分の心を開き、相手に自分の存在をかけることにもなります。この言葉はまた魅惑的で、大変魔術的な力を持っているとも言えます。愛という言葉が文学、映画等において無造作に安っぽく使われているのも事実ですが、愛という言葉のこのような氾濫は、逆に、現代人が愛に飢え乾いていることの表われと考えることもできます。
 何よりも、愛するということを真実に理解するためには、例えば、私自身が誰かを愛する生活に身を置いているのでなければ、実感としてまた真剣に考えることはできず、私自身が愛するということを知らないことになります。愛を定義するだけではダメなのです。むしろ実存的なテーマです。
 このように、人の生き方として問われる愛」は、どのように結ばれているのかによって様々な様相を呈してきます。特に私達の社会では、愛という美名の陰で、実は愛とは似ても似つかないことがなされる場合が多いのです。そこで、愛とは何であるかを問う前に、愛とは何でないかを逆に問うてみる必要があります。
 不真実な愛一切をひっくるめて、仮装的(仮想的)な愛、うわべの愛と申したいと思います。それは、いろんな相を帯びた人間の態度として現れてきます。それは、男女の愛を例にして考えてみることもできます。仮想的な愛として、四つほど挙げることができます。
 第一に、所有的な愛です。それは相手を自分の物にする愛です。所有欲は人間社会において否定し得ないものですが、物ではなく人を所有することになりますと、相手を人格でなく物件として客体化してしまっています。所有欲の行き着く所が独占となれば、そこに愛するという行為が成り立つ筈はありません。
 第二に、条件付きの愛があります。それは、「私はあなたが好きです。なぜならば」と言って、その理由がつく愛のことです。要するに愛する値打ちがあるから愛するということで、値打ちがなくなったりもっと高い値打ちのある対象が現われたりしますと、対象を入れ替えることになります。この愛は、必ずしも人間を物件として考えているものではありませんが、人間の中の価値に関わる愛です。その意味では、人間をやはり客体としてしか取り扱っていません。主体は自分であり、自分の好みや主観的な価値観によって相手が決まるものですから、そこでは自分にとってどれほど価値が高いかが問題になります。
 明治時代後半と大正時代に活躍した白樺派の小説家であった有島武郎は、『惜しみなく愛は奪う』という小説の中で、愛とは基本的に自分に欠けた部分を相手から自分の内に獲得する高度な行為・手段であると、鋭く愛の本質を突きました。
 第三に、憐憫の愛があります。「本当に君のことがかわいそうでならない」と言われると、相手はなんだか愛されているかのように思いがちです。しかし憐憫の背後には同情が潜んでおり、ニイチェという哲学者は、この同情ということほど自分勝手な感情はないと語ったことがあります。確かに憐憫の愛においては、どのように他者の不幸に対する憐れみが証明されても、結局こちらは傷ついておらず、他者の不幸のどん底にまで降りていって、共に悲しみを担うということはありません。情をかけるということがしばしば恩を着せることにもなり易いのです。つまり、憐憫の愛が必ずしも真に他者を愛することにはならないのです。
 第四に、憧れとしての愛があります。それは結局、自己中心の愛です。憧れの人が目の前に現われた時に、私達は限りなくその人に惹きつけられます。しかし、それは必ずしもその人を愛することにはなりません。それでも、「憧れの人です」などと告白されると、その人は自分が愛されているような錯覚を起こします。そこに憧憬の愛の魔術性があり、人を魅惑させてしまいます。
 今まで、四つほどの愛を挙げましたが、これらは結局、一言で申しますと、自己中心の愛に集約されます。自分では自覚していなくても、実相としては他人を愛するように見えて、自己の欲望や好みを充足させようとする「自己中」の愛がそこにあります。自己が主体であって、他者は客体的な存在、即ち物として扱われてしまいます。こういう形の愛は自己の中に納めていく愛ですから、その愛が複数の人々に注がれ、広がっていくような交わりをもとうとすることを拒み、むしろ憎しみや分裂をもたらし、さらには自分の幸福のために他者を犠牲にしたりする方向に作用したりします。
 最近、ある中年の婦人から突然電話がかかってきまして、是非相談したいことがあるというのです。そこで、後日、定めた約束時間に教会に訪ねてこられました。2時間ほどお話を聞いてあげて、少し助言をいたしました。子育てを終える頃に夫と別れ、子供らを残して一人で家を出たあと、独立を目指したその方の生活はまことに惨めなものです。身近にいる人との関係からすでに亀裂が生じていました。上でお話ししましたように、心を開いて交わることがほとんどなされないまま、別れと孤独、不信と憂い悩みが彼女をつきまといました。愛の欠片すら感じとれない生活が続いたようです。もうこれ以上、お話することはできません。
 いすれにしましても、世間にあるこうした様々な愛の相を見てきますと、本当の愛というものはあるのだろうかという率直な疑問が生じてきます。そもそも本当というものの追求は可能でしょうか。いや、そう追求している私という存在は確かに生きてはいるが、それは本当に生きていることなのか、あるいはあるべき存在となっているのかと問われますと、まことに怪しいのです。
 そこで、本当の愛があり得ないとしたら、「私」の人生はもうそれ程意味がなくなってしまいます。なぜなら、真実の交わりの中で生きるという、人間として最も大事なことが起こらないからです。そうならば、私達は自分と他者とを適当にだまして、日々の生活をどうにか取り繕って生きていく他はないことになります。
 「私」という存在をよく見つめると、真実に相手に向かっていない私、誰かを愛することができない自己を見出します。それならば、果たして自分自身を愛しているのだろうかと、自問してみる必要があります。自分を正しく愛する事ができなければ、他者を真に愛することもできないからです。自分自身が嫌いなのであれば、それは自分自身をも人格として認めず、物としてしまっており、この点が解決されないと他者に向かう事もできないことになるのではないでしょうか。
 しかし、今朝の旧約と新約の聖書の御言葉によって、神からの語りかけが私の魂の奥深くに届きます。「わたしはあなたを愛している」と。新約聖書は、主イエスの生涯を描きながら、こう証言しています。人生に破れた人々が主イエスの元に来、イエスの愛の眼差しの中で神の支配、神の国に招き入れるために、私たちに呼びかけ下さる神がおられると。その神に丸抱えにされて愛されて、期待されている事を知らされる時に、私たちは、まず自分自身を本当に見つめることができる者へと変えられていくのです。そこに、真に自分自身を愛することを知った人が、さらに隣人を愛する人へと押し出される道を、聖書は指し示してくれます。
 今お話したことを肯定的に申しますと、人間が「我とそれ(物)」という支配・被支配の関係ではなく、「我と汝」における人格的な交わりの存在となるという基本的人間観がそこにはあり、その根底には、それを可能にするイエス・キリストによる神の愛があるということに他なりません。この愛はまったく無条件の愛であり、私達にある種の価値があるから愛されるのではありません。なぜなら、私達はむしろ神に背を向け、神なしに生きていたからです。
 今朝の旧約聖書の申命記の言葉において、すでにそのような神であることが、はっきり告げられていました。その7〜8節をお読みします。

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。

 旧約聖書の中で、これほどはっきりイスラエルの民に対する神の一方的かつ無条件の選びの愛が語られるのは、この個所が最初です。
 実にこの語りかけは、十字架にかかったイエスの中で、最後決定的な仕方で起こりました。このキリスト教のメッセージは、はたから見ますと、まったく不合理な愛、高い犠牲を伴う愚かな愛を説いているように思われます。
 しかし、この愛の愚かさについて、キリスト教文学評論家の佐古純一郎は、ある興味深い譬え話をもち出して、次のように述べました。人が誰かを愛するという生活の中では、それが本当の愛かどうかは別にして、損得勘定に合わないことでも何の苦もなくやってみせるということがある。つまり愛の心は人を愚かさに耐えさせるのであり、これは愛の愚かさと言ってよい。愛の愚かさは、人のために平気で愚かに徹するのである。できの悪い子に対する親馬鹿な愛、約束の時間を守らない恋人への切ない思い、これらはみな、愛することの切なさ、大切さが人を困難に耐えさせ、そのように導くことを言い表している、というのです。
 新約聖書の第1コリント書18〜25節で使徒パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と語ります。当時、宗教的に自民族を誇っていたユダヤ人も、また古代以来の文明人であると自分の知恵を自負したギリシャ人も、イエスの十字架を弱さと恥を象徴する無価値なものと考えていたが、信じる者にとっては神の力、神の知恵であると確信しています。そしてこの段落の25節は、次のように締めくくっています。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」と。
 神はかけがえのないひとり子を十字架の苦しみにかけてまでも、人間をその自己中心的な罪と呪いから贖い出してくださったというのが喜ばしい知らせ、すなわち福音なのですが、パウロはそれを「神の愚かさ」と言います。「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネによる福音書3:16)とあり、そこに、私たち人間への愛のゆえに御子を十字架の死に渡した「神の愚かさ」を見るのです。
 私たちは、人々の間にしばしば見られる愛の愚かさの譬えを手がかりにして、イエスの十字架に秘められた神のまことの愛を理解することができるのではないでしょうか。そして、神の真実な愛を知ることによって、逆に見かけの立派さとは異なる私たちの心の内が照らし出され、暴き出されることになるわけですから、それは神のみ前で畏れの念を私たちに抱かせます。それが、今朝与えられた第2コリント書5章の11節で、使徒パウロが語っていることです(ギリシャ語のフォボス、φοβο?)。次の12節の中程で、「内面ではなく、外面を誇っている人々」と言っていますが、それは、コリントの教会にやって来て、信徒たちを扇動する悪しき人々(偽りの使徒たち)の態度を指しています。
 使徒パウロはここで、真実な神の愛を前にして怖がっているのではありません。また、コリントで外面を誇る悪しき人々を単に非難しているのでもありません。そうではなくて、キリストにおいて提供された神の真実な愛に捕らわれて、自己をもう誰に対しても隠し立てすることのない明瞭さ、清純な心、公明正大さをもって生きていることを、コリントの信徒たちに訴えています。そして、彼らが悪しき人々に惑わされず、パウロと同じように、心の内からキリストの愛にしっかり捉えられ、もう自分中心に生きるのでなく、自分たちのために死んで復活なさったお方のために生き、他者のために生きることをしてほしい、いや、そう生きることが許され、可能になったのだと、力を込めてそう呼びかけているのです。 
 14節はもう一歩踏み込んで、不思議な言い方をします。キリストが私たちすべての人のために十字架で死なれたことを知った瞬間に、意識的にあるいは無意識的に自己本位で生きていた私たち自身とそのような生き方そのものが終わりを遂げ、死んでしまったのだと言い切るのです。
 なぜ、彼はそう言い切ることができるのでしょうか。それは、キリストの愛、そしてキリストを通して差し出された神の愛が彼に強く迫って、新しい生き方へと造り変えられたからです。それは、ちょうど明るい光が射し込む時に、暗闇が一瞬にして追い払われてしまうのと同じです。かつて若かった頃、エリートのユダヤ教徒として自信に溢れていたパウロは、古い人間としてもう滅び去ったのであり、今はただキリストの愛にのみ生かされ、その愛を他の人々に伝えて共に生きる新しい生き方が、彼に許されています。使徒パウロがここで「私たち」とか「あなたがた」と言う時、それは当時のコリント人のみでなく、今その言葉を聞いている私たちをも、そのような生き方へと招いている言葉です。そして同時に、この聖書の言葉は、耳を傾けて聞く私たちすべてに向かって、もう二度とその新しい生き方から他の生き方へと惑わされないようにと戒めるのです。
 キリストによる神の愛を知った人の生き方は、いつも出会っている身近な人々との交わりや向き合いを新しいものに変え、その人を前進させていきます。
 それは、キリストの愛に強く押し出されて歩いていく人生の道のことです。それは、行く手を阻む大きな死の川の上にかかった一つの橋を通って永久の天国にまで通じている不思議な小道です。神の憐れみによって、私たちがこの小道を今ここで歩み出すことが許されていますことを覚えて、神に感謝を捧げましょう。


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