旅人を迎える

レビ記19章33〜34節
ルカによる福音書11章5〜8節
2008年3月16日(日)
なか伝道所 牧師 渡辺英俊


1.外国人・野宿者・病人

 ルカによる福音書11章5〜8節の譬えは、「祈り」というコンテクストにはめ込まれています。もちろん、祈りの話として読んでもいいのですが、ルカがここに編集してはめ込む以前には、独立の伝承として口伝えされていたはずなので、ひとまず独立した話として読んでみることが必要です。
 ストーリーは単純で、ある晩、貧しい暮らしをしている1人の人のところへ、もっと貧しい友人が転がり込んできたというのです。
「旅行中の友達が……」(新共同訳)と訳すと、スーツにコート姿でキャリーケースでも引きずっていそうですが、当時の庶民にとって「旅」とはそんなものではなくて、食い詰めて夜逃げ同然に旅に出るわけで、「旅人」は生活保護が必要な3大困窮状態の一つとされていたのだそうです。迎えはしたものの、こちらも何の蓄えもない貧乏暮らし。仕方なしに隣りの友人を夜中に叩き起こしてパンを3つ借りてきた……という話なのです。
 私はこの20年間、不思議な導きで移住労働者の支援に関わるようになり、この譬えに支えられて走ってきました。
 その一例として、8年前にぶつかった一つの事件についてお話ししてみたいと思います。少し古い話ですが、これくらいすべての問題を典型的に含んでいる事件はめったにないので、今、日本で何が起こっているかを理解していただくのに適切だと思います。
 2000年の秋、私の属している市民団体(NGO)「カラバオの会」の仲間が、中村川のそばで野宿している韓国人が重い病気にかかっていて、このままでは死んでしまいそうだと知らせてきました。さっそく訪ねてみるとKさんという人で、下半身が腫れ上がって動けない状態でした。一見してただならぬ病気であることがわかりましたが、この時わたしたちの前には、2重3重の厚い壁が立ちはだかっていて、とうてい一NGOの手には負えない状況でした。
 まず、野宿者だということ、つまり、仕事も家も家族もない人だということです。次に、在留資格のない外国人で、いっさいの社会保障から閉め出されているということです。そして、当然ながら、自費で入院治療を受けるお金はどこからも出てこない、ということです。わたしたちは、見舞ってきたものの、途方にくれるほかありませんでした。その夜、帰宅途中の自転車の上で私は祈りました。神さま、助けてください……と。
 結果としては、それまでの14年の運動で作り上げてきたネットワークがものをいって、入院治療ができ、無事帰国させてあげられたのですが、日本の土の上で、何でこんなことが起こるのかということを、みなさんにわかっていただきたいのです。

2.「寿」という町

 JRを石川町北口に降り、さらに中華街と反対側に5分ほど行くと、「寿地区」(扇町、寿町、松影町)に入ります。ここは、300メートル四方くらいの場所に110軒の簡易宿泊所(いわゆる「ドヤ」)が密集しています。キャパシティは約7000人、一晩2000円前後の宿賃で、3〜4畳ほどの部屋と布団が借りられます。かつては日雇い労働者の町でしたが、今は人口の四分の三が生活保護受給者です。男性単身高齢者が半分を越え、ほかに体の不自由な人、心を病む人、アルコール依存症の人などがいます。日本社会のほかの場所から閉め出された人たちが、最後にたどりつく場所です。そして、ここで一晩のドヤ賃が払えなかったら、路上に野宿するほかなくなります。
 30年越しの闘いで、日本のほかの場所よりも福祉の適用が受けやすくはなっていますが、60歳以下であれば病気にならない限り生活保護が受けられず、失業すれば即野宿ということになります。日本社会の冷たさをイヤというほど見せつけています。

3.「外国人出稼ぎ労働者」

 次に、Kさんは在留資格のない外国人だという問題がありました。日本に住む外国人は、2007年末現在で約210万人余。そのうち40万人余りが、日本に植民地にされた結果、日本に住まざるをえなくされた在日韓国・朝鮮人、中国人です。それ以外の約170万人は、ほとんどが1980年代以降、日本に働きにきた人やその家族など(移住労働者・移住外国人)です。
 日本の経済は、敗戦で貧困のどん底に陥りましたが、1950年代の朝鮮戦争でしこたま儲けて一挙に復興し、1960年代のベトナム戦争で資本をため込み、1970年代に怒濤のようにアジアやラテンアメリカなどに侵出して、現地の経済や生活や環境を破壊しながら儲けまくって、1980年代の円高日本を作り上げました。だから、奪われて貧しくされた地域から、奪って富裕化した日本へ、生活の資を求めて、人々が渡航して来るようになったのです。壁に投げたボールがバウンドして戻ってくるような当然の現象でした。
 ところが、日本政府も日本社会も、こういう現実を踏まえた受け入れ体制を作るという考え方を持っていません。外国人がたくさん移住してきたら「単一民族国家」の純粋性が乱されるとか、安い労働力がたくさん来過ぎたら将来の労働力市場が不安定になるとかいう、自分側の都合だけを考えて、「外国人労働者は入れない」という立て前を変えようとしません。そのため、入管法(出入国管理及び難民認定法)の枠からこぼれた人たちは、観光ビザで入国して法に違反して働く、という方法をとらざるを得ません。当局は「不法就労」という呼び方をしていますが、本人に悪意はなく、法や政策が現実に合っていないために違法状態になってしまうのです。
 そして、在留資格のない外国人は、働けば税金をとられているにもかかわらず、いっさいの社会保障から閉め出されています。だから、病気になったら高い医療費を自費で払わなければなりません。みすみす病気を悪くしてしまう人が少なくないのです。Kさんもそういう在留資格のない移住労働者の一人でした。

4.突破口

 こういう日本社会の閉鎖性に対して、全国各地でたくさんのNGOが作られ、移住労働者・移住外国人の人権支援をボランティアで行って来ました。カラバオの会もその一つで、全国で最初にできた支援団体でした。1997年からは、「移住労働者と連帯する全国ネットワーク」が作られて、全国的に連絡を取り合いながら支援の輪を広げています。
 一見絶望と見えたKさんのケースでしたが、それまでの運動の成果として、ひとつの手がかりが見つかったのです。それは、神奈川県下では、在留資格のない外国人にも「行旅病人法」が適用されているということでした。この古い法律は、いわゆる「行き倒れ」状態の人がいたら、最寄りの市町村が保護して、その費用を県が支弁するというものです。戦後、生活保護法などができてからはあまり用のなくなった法律ですが、在留資格のない外国人を健康保険から閉め出している国の政策に対抗して、支援運動が、現場で困ってしまっている地方自治体を突っついて、これを使うようにさせて来たのです。
 野宿で病気というのはまさに「行旅病人」ですから、仲間と相談して、救急車で病院に送り込んで、この法を適用させようということになりました。さいわい外国人医療に理解のある病院があり、そこの医療ソシアルワーカー(MSW)のみなさんも頑張ってくださって、Kさんの入院治療ができたのでした。病気は肝硬変の末期で、このままいけば命に関わる病状でした。
 年末、退院できるところまで回復しました。そこで、やはり運動の仲間のつてでソウルの施設が身よりのないKさんを引き受けてくれることになりました。同国人の仲間の募金で航空券も買え、無事送り返すことができたのです。

5.扉をたたく

 こんな活動を、私は20年間続けてきました。その体験から、冒頭に掲げたイエスのたとえは、人間の真実を突いていると思うのです。
 真夜中に、夜逃げ同然のヨレヨレの姿で旅をしてきた友人に転がり込まれ、途方に暮れる……。ちょうど、Kさんのケースにぶつかった当初のわたしたちのように。仕方がないので近所の知り合いの家の扉をたたくのです。そうして、しつこく叩いてとうとう戸を開けてもらい、必要なものをもらってくるのです。わたしたちがKさんを入院させてあげ、帰国のお世話をしてあげたように。
 自分にはまったく人を助ける力なんてありません。だからこそ、堅く閉ざされた日本社会の扉を叩いて必要なものを出させるのです。棚の上で埃をかぶっていた法律を引っ張り出してでも。労働法を盾に入管法を蹴っ飛ばすこともやってきましたし、国連に日本政府の政策の差別性を訴えたりもして来ました。
 これは純粋に「他者のため」の行為で、自分の利益を求めたことはまったくありません。しかし、この20年を振りかえって、人を助けながら、結果的に自分が元気をもらい、幸せをもらってきたと思うのです。他者の苦しみに必死に取り組んでいる自分が元気と幸せをもらう……。自分の幸せだけを考え、自分のことだけに関心を持っていたら、逆に自分を失ってしまう……。それが人間というものなのだと思います。神は、人間を他者に向けて造られたのです。
 そこで、さっきのイエスのたとえは深いユーモアを含んでいることに気づきました。パンを「三つ」借りてくるのですが、ひとつは今夜、旅の友に食べさせ、明日の朝、もう一つを彼に食べさせる……。そこまでは異存ないでしょう。で、残った1個はどうするのでしょう? 明日の朝、弁当に持たせる……という考え方もありますが、食べさせてもらう方から言うと、朝は1個ずつ、いっしょに食べてほしいと思うのが普通なんじゃないか……。そうすると、蓄えがまったくなくて、明日の朝食は食べられないはずだったのに、旅の友を抱え込んだお陰で、食べられないはずの朝食が食べられてしまう……。人を助けるついでに自分も助かってしまう……。ちゃっかりというか、したたかというか……、思わずクスクス笑ってしまうようなユーモアを含んだ話だと思うのです。
 私がこんなふうにこの話が読めるようになったのは、この20年、私自身がそのようにして食べてきたからなのです。20年前、なか伝道所(当時中村橋伝道所)を始めたとき、10数人の仲間たちがいっしょに頑張ってくれました。しかし、私の生活を支えることはできません。それで私は、友人たちに「托鉢宣言」をしたのです。これからは托鉢で食べていくのでよろしく……と。昔の托鉢は、鉢を持って一軒一軒廻るので大変だったでしょうが、今の托鉢は厚かましくて、郵便振替口座を作って振替用紙をばらまいてしまう……。でも、大勢の方々が応じて下さって、実に20年という半端じゃない期間、支えて下さり、今もそれが続いているのです。人を助けるついでに自分が食べられてしまう……というのは、私自身の話なのです。神のなさることは、実に絶妙だと思わされます。
 イエスが語られた、旅人に転がり込まれた人の話は、イエス自身の経験だったでしょうし、私自身の物語でもあるのです。聖書を読むということは、こんなふうにそこに語られている物語の中に自分を読み込み、それが自分自身の物語になるということではないでしょうか。そして、そういうふうになっていく生きざまそのものが「祈り」なので、この物語は深い意味で祈りの物語なのだと思うのです。


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