命を得させる

イースター礼拝
詩編30編1〜13節
ヨハネによる福音書11章17〜27節
2008年3月23日
経堂緑岡教会  牧師 松本 敏之


(1)「球根の中には」

 イースター、おめでとうございます。
 今日は、聖歌隊が「球根の中には」という『讃美歌21』に入れられた新しい讃美歌を歌ってくださいました(575番)。この曲は、メロディーもシンプルで歌いやすく、歌詞も深い内容をたたえております。『讃美歌21』の中でも、最も人気のある曲のひとつであります。この曲は、ナタリー・スリース(Natalie Allyn Wakeley Sleeth)という女性が作詞作曲したアメリカの讃美歌で、1986年に出版された後、幾つかの讃美歌集に加えられました。私たちが手にしている日本語歌詞はとてもすばらしいものでありますが、省略している部分もありますので、ざっと全体を直訳で紹介しましょう。

約束の讃美歌(Hymn of Promise)
1 球根の中には花があり、種の中にはりんごの木がある
  まゆの中には隠れた約束。まもなく蝶が飛び立つ!
  冬の寒さと雪の中では、春があらわれる準備をしている
  その時が来るまでそれは隠され、ただ神だけが知っている

2 すべての沈黙の中には歌があり、言葉とメロディーを探し求めている
  すべての暗闇の中には夜明けがあり、あなたと私に希望を届けようとしている
  過去は未来へと向かう、神秘を内に秘めて。
  その時が来るまでそれは隠され、ただ神だけが知っている

3 私たちの終わりの中に私たちの始まりがある。私たちの時の中に無限がある。
  私たちの疑いの中には信仰がある。私たちの命の中に永遠がある。
  私たちの死の中に復活があり、最後には勝利がある。
  その時が来るまでそれは隠され、ただ神だけが知っている。

(2)アメリカ大統領候補の愛唱歌

 説教の準備をしている時に、この曲について、インターネット検索をしてみますと、興味深いサイトにヒットしました。それは、つい数ヶ月前まで、民主党の大統領候補として、ヒラリー・クリントン、バラック・オバマと並んで戦っていたジョン・エドワーズのサイトでありました。なんとこの「球根の中には」がエドワーズ候補の愛唱歌だというのです。それなりの教会向けの戦略があったのかも知れませんが、「この曲を愛唱歌に掲げるような人であれば、きっと深い信仰をもった人なのだろう」と思いました。(別にもう落ちた候補ですので、応援演説をしているわけではありません。)ひょっとすると、「今はまだその時ではないが、すでに何かが芽生えている。その日、その時をただ神が知る」という歌の内容からすれば、エドワーズ候補は、すでに今回よりも次回をねらっているのかな、などと余計な詮索もいたしました。とにかくこうした讃美歌が大統領候補の愛唱歌となるというのは、日本ではありえないことでしょう。
 大統領候補がこれを愛唱歌に掲げているということから、私はあることに気づきました。それは、ここで歌われている内容は、優れて聖書的な内容、非常にキリスト教的なメッセージであるにもかかわらず、イエス・キリストとか、教会という言葉が全く出てこないということです。大統領候補が正式に「好きな曲」(Favorite Music)に掲げるには、排他的(exclusive)な要素があってはならないでしょう。つまりキリスト教以外の人が反感を買うような曲ではいけません。この歌は、聖書の信仰が土台となり、内実としてよくあらわれていますが、すべての人の心に訴える内容をもっていると思います。

(3)詩編30編

 本日は、詩編の第30編を読んでいただきましたが、この詩編は、先ほどの「球根の中には」の讃美歌に響きあうものをもっていると思います。

「主よ、あなたをあがめます。
 あなたは敵を喜ばせることなく
 わたしを引き上げてくださいました。
 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを
 あなたは癒してくださいました。」(2〜3節)

 「敵」というのは、何かの病かと思われますが、それは共通して、「民族の病」という風に理解すれば、もっと広い意味が出てくるでしょう。「あがめます」のというのは、「高くする」という意味ですが、この詩人は自分を、低いところから高く「引き上げて」くださった主を、「高くする」と語るのです。賛美というのは、自分を高くするのではなく、そのように自分を引き上げてくださった神様を高くあげることであります。

「主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ
墓穴に下ることを免れさせ
わたしに命を得させてくださいました。」(4節)

 「命を得させてくださる」。それがこの詩編のキーワードであります。そしてイースターとは、まさにそのことを祝うのです。新約聖書は、命を得るということは、イエス・キリストにつながっていることであると告げています。

(4)ラザロの復活の福音

 ヨハネ福音書の11章に、ラザロの復活の物語があります。マルタとマリアという姉妹に、ラザロという弟がいました。そのラザロが死にかけていたので、何とかイエス様に来て欲しいと願って、使いの者を送りましたが、イエス様が到着した折には、すでにラザロは息を引き取っておりました。マルタはイエス・キリストに向かって、「主よ、もしもここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21)と、少しうらみがましく訴えました。死んでしまったら、さすがのイエス様でもどうすることもできないであろう、という思いが感じられます。しかしマルタに対して、主イエスは有名な言葉を語られました。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(同25〜26節)。

 不思議な言葉であります。イエス・キリスト御自身が復活であり、命だというのです。この後、イエス様はラザロをお墓から呼び出して復活させられました。物語のクライマックスはそこにあるでしょう。しかし私は、内容的に言えば、それ以前の、先ほどのイエス様の言葉の中にこそ、最も大事なメッセージが語られていると思うのです。
 ラザロはこの時、肉体的に復活させられましたが、永遠にその肉体が続いたのではありませんから、やがてまた死んだということには違いないわけです。いっとき復活しても、再び死んでいくのです。
 奇跡的に病気が回復することがあっても、やがてまた死は近づいてまいります。その意味では、ラザロの復活ならラザロの復活をきっかけとして、まことの命の主であるイエス・キリストに連なっていくこと、その中に永遠の命を見出していくこと、そこで生き方が変えられ、イエス・キリストが死を克服してくださった方であることを知ることに中にこそ、最も大事な事柄があるのではないでしょうか。

(5)喜びの歌と共に朝を迎える

「泣きながら夜を過ごす人にも
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(6節)。
「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え
あら布を脱がせ、
喜びを帯としてくださいました。
わたしの魂があなたをほめ歌い、
沈黙することのないようにしてくださいました」(12〜13節)。

 これらの言葉は、まさに先ほどの讃美歌の次の言葉にぴったり来ます。

2 沈黙はやがて歌に変えられ
   深い闇の中 夜明け近づく
   過ぎ去った時が 未来を拓く
   その日、その時を ただ神が知る

(6)命の始め

3 いのちの終わりは いのちの始め。
   おそれは信仰に、死は復活に、
   ついに変えられる永遠の朝。
   その日その時を ただ神が知る

 この言葉から、私がいつも思い起こすのは、ヒットラー暗殺計画に加わったということで1945年4月に処刑されたドイツの神学者ボンヘッファーが最後に語ったと伝えられる言葉です。彼は、処刑台に上がる前に、すぐ近くにいた人に、次のような伝言を遺したと言われます。それは、「これが最期です。−わたしにとっては生命の始まりです」という言葉でありました。
 状況こそ違え、私たちにもいつか「これが最期です」という日が来ます。口には出さなくとも、いつかその現実と向き合わなければなりません。しかしそうした中にあって、私たちには、「わたしにとっては命の始まりです」と言うことが許されているのです。そのことをイエス様はご自身の復活をもって示してくださいました。私たちは、そうした信仰の中に置かれているということを感謝し、イースターをお祝いいたしましょう。


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