教会に生きる

(2008年度年間標語による)
詩編84編1〜13節
ペトロの手紙一 2章1〜6節
2008年4月20日     経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之


(1)創立78周年記念日

 本日は、経堂緑岡教会の創立78周年記念日であります。経堂緑岡教会は、もともと日本メソジスト教会によって生み出された経堂教会と、青山学院の創立と共に始まった青山学院教会が1969年に合同して、経堂緑岡教会という名前になったものです。その創立は経堂教会の創立の年、1930年と定めています。3年前に発行しました『経堂緑岡教会七十五年史』には、次のように記されております。

「1930(昭和5)年3月の『メソジスト教会年会』で設立された『東京郊外伝道会』の主任に任命された藤沢教会の木原外七牧師は、各地、特に当時開通したばかりの小田急線沿線に『伝道地』を得ようと毎日藤沢から出かけて来て探し求めていたが遂に、経堂町46番地に北門銀行所有の家宅を見つけ、家賃月額49円で借りることとし、東京郊外伝道所として「経堂伝道所」を設立、4月20日、復活祭の日、最初の礼拝を守った。出席者16名。」

 これは、もともと『経堂緑岡教会五十年史』に記されたものを、昨年天に召された古井貞方兄が要約してくださったものです。毎年、この最初の礼拝の日である4月20日前後を創立記念日としていますが、今年はまさに4月20日に祝うこととなりました。創立記念日にあたって、この『七十五年史』を改めてひもとき、3年前のことをなつかしく思い起こしました。
 こうした教会の『五十年史』や『七十五年史』を見てみますと、「教会の歴史」は「神の恵みの歴史」であるということを改めて思います。神様のゆるしなしには、始まり得ませんでしたし、存続し得ませんでした。いかにそこに神様の恵みが注がれ続けたかということがあらわれております。そしてそれは同時に、そこへ呼び集められた者たちの「神の恵みへの応答の歴史」でもあります。そこには牧師・信徒、さまざまな人々の信仰が息づいています。「教会に生きた人々」「教会に生きる人々」がその担い手であります。

(2)キリストにより召された者の共同体

 教会とは不思議なところです。社会学的に言えば、「イエス・キリストを信じる人々の共同体」ということになるかと思いますが、神学的に言うならば、もう一つ遡らなければならない。それは、「イエス・キリストによって召し集められた人々の共同体」です。最初に神の意志があり、イエス・キリストの意志がある。私たちは、いつもそこへ立ち帰って行かなければなりません。
 もちろん、教会もこの世にある限り、当然、この世の組織として一面をもっており、この世の組織としてきちんと成立していく(認識されていく)必要があります。時に、教会にも人間関係の危機や経済的な危機が訪れます。そこで私たちはいかにしてその危機を乗り越えるか、知恵を出しあいます。恐らく神様は、その時に何かを私たちに問いかけ、考えさせ、自分たちの立っているところを再確認させようとしておられるのでしょう。
 しかし私たちは、そうした時しばしば、いかにその危機から脱するかということに気を取られ、神様は今何を問いかけておられるのだろうという聞く姿勢を忘れがちです。何とかしなければならないという焦りのあまり、私たちの使命感が神様を追い越してしまうことがあるのです。そうした時に、教会は本来の形、教会に生きる喜びを忘れがちになるのではないでしょうか。
 この教会も過去に何度かそうした危機を経験し、そこから多くのことを学んできました。そのような時に、私たちが最初になすべきことは何か。それは、礼拝をし、共に神に祈ることでありましょう。これが教会の原点です。そのことをいつも思い起こしたいと思うのです。

(3)教会の基礎づくり

 私がこの教会に着任して6年が過ぎました。2年目から4年目は、「開かれた教会」という年間標語を掲げました。5年目、6年目は「神の家族」という標語を掲げ、その中で6年目、つまり昨年度は「世の痛みを覚えて」という副題を掲げて歩んできました。教会を風通しよくする。社会に目を向ける。いろんな人に対して、またいろんな意味で開かれた教会形成をする。私自身もそうしたことに、注意を払ってきました。
 そのような姿勢は、今後も続けていきたいと思いますし、行くべきだとも思います。ただこの6年間を振り返ってみて、特に昨年の1年間の歩みをする中で思い浮かんだことは、じっくりと教会の基礎固めをするということは、あまり自分の視野になかったということであります。私が就任する以前は、教会全体修養会にはかなりレベルの高い、がっちりとした学びをしていたようです。今必ずしももう一度そういうことをするのがよいとは思っていませんが、最も基本的な学びをできるだけ多くの人々と共にすることによって、どんなことがあっても揺るがないような教会の基礎づくりをしたいと思うようになりました。
 そういうことを考えながら、どういう教会標語にするか、年末あたりから考え始めました。最初に考えたのは「教会共同体を形成する。」どうも硬い。何か義務的になり、重く感じられる言葉です。そうした時に、楠本史郎先生の『教会に生きる』という本の題にふと目が留まり、「これだ」と思いました。ただ単に、「教会形成をする」ということだけではなく、自分自身もそこで喜んで養われていくような事柄が、この言葉は入っていると思いました。
 改めてこの本を読んでみますと、なかなかの優れもので、教会生活の基本について最も必要なことが、実にコンパクトに、しかも網羅的に書いてあります。今、私たちの教会に必要なことは、こうした基本的なことを学び、それを確認することだと思いました。
 「教会に生きる。」いい言葉ですね。長老会でもこの言葉はどういう意味があるかというような質問があり、よりわかりやすい言葉を探しました。「教会生活をする。」味気ないね。「教会で生きる。」何か教会に住んでいるみたいですね。結局この「教会に生きる」という言葉はかえって広がりがあり、いろんな意味を含んでいていい言葉だということになりました。この言葉には喜びの響きがあると思います。

(4)教会を愛し、慕う

 今年の年間聖句は、この『教会に生きる』という書物にも出てくるものですが、「教会に生きる」とはどういうことかを、よく表している聖句を二つ掲げました。まずは旧約聖書、詩編の84編5節の言葉です。

「いかに幸いなことでしょう。
あなたの家に住むことができるなら
まして、あなたを賛美することができるなら」(5節)。

 この詩編84編は、元来、エルサレム神殿詣でをする時に作られた詩編のようです。詩人はこのように始めます。

「万軍の主よ、あなたのいますところは
どれほど愛されていることでしょう。
主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです」(2節)。

 恐らくこの詩人は、地方からエルサレムへやって来ました。エルサレム神殿を見て、深い喜びに満たされるのです。
 私たちの状況に置き換えてみれば、いかがでしょうか。これは、「教会で礼拝する喜びを歌っている」と言ってもいいかも知れません。ただ毎週、毎週来ておりますと、それが当たり前のことになって、その感動も薄れてきます。しかし、行きたいのに、病気や家族や仕事の都合により教会に来られなくなった方が、教会に来ることができた喜びは、まさにこういうものではないかと思います。
 「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。」
すごい言葉ですね。礼拝というのは、そこで神様と向き合う場所と時間であることを思えば、本当はいつもそれ位の感動があってしかるべきなのだろうと思います。もっとも言葉には出さなくても、そのような思いをもって礼拝に出ておられる方も何人もおられることは承知していますし、それはうれしいことであります。
 あるいはどこかへ引っ越したり、旅行に行ったりして、教会を訪ねることができた時、私たちは、この詩人の思いを実感することができるのではないでしょうか。

(5)礼拝のために体調を整える

『教会に生きる』の本の中で、楠本先生がこんなことを言っておられます。

「年輩の人は、主の日の礼拝に出席するために、一週間の生活を調整しています。年をとれば、突然『明日、教会に行こう』と思い立っても、そう急に体が動くものではありません。何日も前から、主の日に備えて体調を整えます。リズムを作っていきます。そうして教会に来ているのです。礼拝に出席するために時間をかけ、努力しています。だから礼拝への姿勢が違います。一週間の生活の中心に礼拝を置いていることがよくわかります。」

 私は、これを読みながら、この教会にもそういう方は何人もいるだろうと思いました。今朝方も、渡辺栄さんから、「今日は行くつもりでしたが、ひざが痛くて行くのをあきらめました。申し訳ありませんが、お休みさせていただきます」というお電話をいただきました。この渡辺さんも「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです」というお一人でありましょう。
詩人はこうも言います。

「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる喜びです。
主に逆らう者の天幕で長らえるよりは
わたしの神の家の門口に立っているのを選びます」(11節)。

 先ほど申し上げましたように、この詩人は異教の地に、しかし信仰をもって住んでいるのでしょう。だからこそ、この礼拝する場所がいかに大事な場所であるかを知っているのです。それはクリスチャンが極端に少ない日本に住んでいる私たちにとっても同じではないでしょうか。ここにいる一日は、外にいる千日にもまさる喜びである。なぜか。それは、主が共におられることを身近に感じることができるからです。そしてまた、ここで信仰の友と見えることができるからです。

(6)さまざまな石が用いられる

 新約聖書の年間聖句は、次の言葉です。
「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(一ペトロ2章5節)。
 これも『教会に生きる』の中で引用されている言葉であります。楠本先生は、この言葉を引用した後、こう述べておられます。

「いろいろな形をした石が組み合わされ、結び合わされて、教会という一つの家が立てられています。そのためには、かならずしも大きくてきれいにそろった石ばかりがいいとは限りません。隙間なくきちんと組み上げていくには、小さな石やまっすぐでない石も必要になってきます。いびつであったり、多少ゆがんでいるほうが、壁にぴたっとはまることだってあるのです。いや、神はどの人のためにも、教会の中に居場所を作っていてくださいます。どんな石であっても、教会を立てるために必要としてくださっているのです」(p.25)。

 これは大事なことです。私たちの基準で、「この人は役に立つ人。この人は困った人」と決め付けてはいけないということです。実際、会社のような基準でいえば、お荷物に思えたり、障害に思えたりする人のおかげで、みんなが協力し合うことの大切さを学ぶことがしばしばあります。その時にはしんどい思いをしていても、後になって、あれは必要なプロセスであったのだということがわかるのです。
 なによりもイエス・キリストご自身がそういう存在であったと言うことを忘れてはならないでしょう。ペトロは、この直前の箇所で、こう言っています。
 「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」(4節、マタイ21:42、詩編118:22〜23参照)。
 ですから、私たちは「人を非難せず、自分を卑下せず」ということをモットーにしましょう。もちろん積極的建設的批判は必要なことです。ただ言い方には配慮しなければならないでしょう。そうでないと大事なことも伝わらなくなります。逆に誰かがわかりにくいこと、受け入れがたいことを言っている時にも、真意は何なのかという風にポジティブに受け止める努力は必要であると思います。ペトロは、この手紙の第2章の冒頭で、こう言っています。
「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(1〜2節)。
 さらにこう続きます。
「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい」(3〜4節a)。
 これが教会の原点です。いつもここに立ち帰って行かなければならない。私たちは自分で集まったのではなくて、この主の招きを受けて、ここに集まった。この群れの中にあなたがおられるということは、すでに主の招きがあったということを意味しています。私たちが意識していようといまいと、私たちは主に招かれてここに来ることができました。教会は、そこからのみ始まることができる。何かしら教会で問題が起きた時にも、いつもそこへ立ち帰って、主が喜ばれることは何か、主の御意志はどこにあるか、と考えていかなければならない。大事なことは場所を共にし、共に同じ主を見上げて、共に祈ること、また祈りあうことだと思います。ぜひ牧師のためにも祈っていただきたいと思います。
 「教会に生きる」喜びを分かち合いつつ、この1年、共々に成長していきましょう。


HOMEへ戻る