主にある生と死

詩編84編11〜13節
ロ−マの信徒への手紙14章7〜9節
経堂緑岡教会  2008年6月22日
恵泉女学園中学高等学校々長  佐伯幸雄先生


 本日は青年月間特別礼拝にご奉仕できる機会を与えられましたことを、御教会のご好意と心から感謝しています。
 私は、今年4月より恵泉女学園中学高等学校の校長の任を受けました。私は、同志社大学を終えて、教会に遣わされてから今年で52年を迎えました。
 その間、22年間を杉並教会で働き、後の26年間を同志社大学の中にあります同志社教会に仕えました。牧師には定年はありませんから、自分が75歳になったときには辞表を提出して、隠退を決めていました。丁度、その時が、同志社教会の創立130周年記念の年、同志社教会に仕えて25年になるので、三つ揃ったこの年こそが、神が備えて下さった年と決めたのでした。やがて、自分善がりの計画は見事に「ノ−」という事態に阻まれ、次期牧師の着任まで、責任を負うことになり、その間に、恵泉女学園からの召しを受けて今日を迎えています。
 私は、コヘレト3:10〜11の言葉を知っていました。しかし、知っていることと、信じることの段差をまざまざと見せつけられたように思いました。信仰による認識は、頭で「そうなのだ、ア−メン」というようなものではなく、その現実に圧倒されるような形で、承服させられる「ア−メン」と唱和させられる、あるいは唱和するものだと、私は「信仰する」という生き方を理解しています。

 今日は「青年月間」というのに「生と死」とは何か、というお叱りを覚悟で、この説教題をつけさせていただきました。それは、生と死の問題は老人であろうと青年であろうとさらには、こどもの世界も含めて、共通の問題だからです。
 『こどもさんびか』の129番「どんなときでも」(『讃美歌21』533)は、『こどもさんびか2』の応募作品として採用された高橋順子ちゃんの歌です。1967年は彼女の亡くなる年でした。彼女は骨肉腫の患者として病床にありました。苦しい闘病生活の中でこの詞を作り、7歳という短い生涯を終えて天に召されました。彼女にはピアノの先生でもあり、教会学校の先生でもあった冷泉アキさんがおられ、その先生を通して、順子ちゃんとの交信を続け、賛美歌の誕生になったのです。1998年にお母さんが「学校へ行きたい」という題の、順子ちゃんの遺稿集を出されました。これがその本です。

 『葉っぱのフレディ−』〜いのちの旅〜という本があります。この本はアメリカの著名な哲学者レオ・バスカ−リア博士が「いのち」について子どもたちに書いた生涯でただ一冊の本だ、と本の帯封に書かれています。この世に生を受けた人間を始め、すべての生きものが死に向って生きているのだ、という言葉を聞きます。生あるものは何時か等しく死を迎えることは確かな事実です。にもかかわらず、人は極端に死を恐れます。一度しかない人生だから死を恐れるのでしょうか。人が死んでいくことは日常的に見聞きしているのに、それはあくまで第三者の死である時にだけ、僅かの同情をもって眺めても、日常的なこととして意識のなかから消えていくのです。しかし、いったん自分の現実との関わりあいのなかで経験すると、死の現実は自分の心に重くのしかかって来ます。「なぜ、どうして」という言葉が、言い知れない悲しみの中で、或いはぶっつける相手を持たない者のように神や仏に向って泣き叫ぶことがあります。          
 この本の著者は「この絵本を、死別の悲しみに直面した子どもたちと、死について的確な説明が出来ない大人たち、死と無縁のように青春を謳歌している若者たちに贈ります」と書いています。
 木の葉っぱが春には可愛い青葉を着け、夏には立派な葉っぱに育って人々に涼しい木陰を与え、秋には美しい紅葉の季節を迎えて人々の目を楽しませ、やがて木から離れて散っていく、つまり、葉っぱは死を迎えるのです。死を前にして心細くなったフレディ−は兄貴分のダニエルに、「散っていくというのは死ぬってこと」と尋ねます。ダニエルは「何でも経験したことのないことは誰も怖いと思うのが自然で、自分たちも時と共にみな変わっていくものだよ。変わることは自然の姿、死ぬということもまた変わることのひとつ」そして、さらに「木の葉っぱはいつか死ぬけれど、いのちは永遠に生きているよ」と説明します。フレディ−は「ね!ダニエル。僕は生まれてきて良かったの」。ダニエルは「そうだよ」と答えて、「さようなら、フレディ−」といって先に枝を離れていくのです。土に落ちた葉っぱはやがて腐葉土となって新しい若葉を生み出すかけがえのない栄養となるのだ、というのがこの物語のあらすじです。
 今日、世界的に地球環境の保全が大きく叫ばれています。人間の文化・文明が人間の一方的な便利や利益の追求のために、自然を破壊し、小さな葉っぱのつぶやきを無視して来ました。今や人間そのもののいのちの尊厳や生きるということがどういう意味をもっているのかを無視して、身勝手に生きる存在になってきた現代の人間社会に対して、この物語は大事な警告を送っているように思えるのです。         

 今朝、与えられました聖句は、「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(8節)と言っています。パウロは信仰によって生きることがどういう生き方を求めるべきかを教えています。ロ−マの教会には実につまらないことが原因でお互いを批判していたという現実があったようです。
 わたしたちの日常生活も必ずしも生死に関わるような局面をもっていないので、しばしば、どうでも良いようなことが原因で、感情的になり諍い(いさかい)が起こることがあります。喧嘩になると、一方的に相手を批判し、ついには相手を窮地に追いやるまで攻め続けようとします。このことが個人レベルで行なわれると、恨みになって殺人を犯してしまうような結果にまで至ることにもなりかねません。自己を絶対化することによって相手を人として、またいのちの尊厳を持つ相手として見られなくなるのです。
 このことが国家レベルになると民族闘争になり、宗教戦争になり、テロ支援国に対する一方的な非難攻撃になって戦争の悲劇を繰り返すことにもなります。
 パウロは、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」ここでは「信仰をもって生きる者はみな」、と取れる言葉なので、いささか自分の生きざまと照らし合わせると気がひける思いがいたします。
 しかし、この所をギリシャ語文から憶測すると、「ために」という前置詞はついていませんので、「主のために」という意味も含まれてはいますが、むしろ「主との関わりにおいて」「主と結びついて」「主によって」等の意味を含みながら読んだ方が意味が通じるように思うのです。つまり、「わたしたちは生きるにしても死ぬにしても、主と関係なしに生きられないし、主と関係なしに死ぬことはできない」と言っているのです。
 パウロがキリスト者となってからは「もはやわたしは生きていない、キリストがわたしの内にあって生きている」という言葉をしばしば用いています。この場合も、パウロの生と死に対する自分の位置づけというか、在り方を示しています。      
 そして7〜8節の言葉は次の9節の言葉を裏打ちにしていることが分かります。「なぜなら、キリストは死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」(口語訳)と訳されています。   
 復活のキリストに出会ったパウロはキリストの出来事に圧倒されて、今までの自分の生き方に方向転換をする、つまり、回心、悔い改めをしてキリストの弟子になるのです。
それ以後のパウロは、キリストが彼の全生活に関わりを持つ存在となるのです。キリストを信じるということは、キリストが私にしてくださった恵を信じて受け入れることによって、キリストとの関係をもって生きるものとなるのです。そして、人生の終わりも同じように、主にある生涯を感謝して受け入れて死を迎えるのです。

 私たちは、元気に、あるいは幸せに生きている時には、感謝こそすれ、その感謝は、信仰とは直接関係のない、自分の幸運を喜ぶ程度の浅薄なものであることに気づくことがあります。
 困難に直面したり、死に直面したりする人生のぎりぎりの局面に立たされて、はじめて、自分の力や思いの限界情況の中で、救いを求める、それは「苦しいときの神頼みじゃないか」と言われそうですが、その時、その苦悩からの脱出を願う神の顔・名を知って、依り頼んでいるか、その神に信頼して委ねているか、に関わることだと思っています。
 パウロはそのことを「生きるにしても、死ぬにしても、主と関係なしに生きられないし、主と関係なしに死ぬことはできない」と言っているのです。
 私たちは、その信仰的認識を、しばしば、事後に思い巡らして、「あの時、主が私と共にいてくださったのだ」と気づくようにして、信仰の世界に導かれることがあるのです。
 私自身、中学4年生の時、何も分からないまま、洗礼を受けたときのことを思い出します。しかし、そのことがいい加減なことではなかった、神のみ手の内に既にあったのだ、と信じられるようになったのは、色々な人生の厳しい局面に立たされ、大波小波を乗り越えてこられたのは、神の支えの下に生かされていたからだと、振り返って信仰的認識をもつことができるようになってからのことです。そこから、主に購われ、生かされている自分を神に感謝する生活、「生きるにしても、死ぬにしても私は主のもの」と、私はそのことを「信仰的楽観」と呼んでいるのですが、神の時の中に生かされている幸せ、平和をいただいていると、感謝の日々を送っています。


  祈り     
 愛をもって導きたもう御神様、今日、この経堂緑岡教会に導かれ、奉仕の任を与えられました御恵みを心より感謝申し上げます。あなたは、不思議なみ手をもって、私たちに時を与え、導かれ、生かされる主であることを信じます。今、自分がここにあること自身、想像もつかなかったことです。私たちの人生に何が起こっても、私たちの側に立ちたもう主に信頼し、私たちの生と死をみ手に委ねる信仰をお与え下さい。
 この教会の宣教の業を祝してください。互いに、信仰に生きることを喜び、共有し、感謝に満ちた信仰共同体として育ちゆく教会でありますように祈ります。この混沌とした時代に生きづらさを覚える青年を教会に導き、また、教会が受け入れ、彼らの人生にイエスを主と信じる信仰が与えられますように祈ります。愛する主のみ名によって祈ります。
                                   ア−メン


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