創造の御業

創世記1章1〜13節
ルカによる福音書15章4〜7節
2008年7月27日
稲城教会牧師  内坂晃先生


「父ありき その父ありき 共々に胸にて死にき 今子が病めり」

 この短歌について高橋三郎先生の下で共に聖書を学んだ仲間の一人である高橋宏さんが、次のように書いておられます。

 「これは結核症を患って13年間不治の病床に伏し、喀血の苦しみに耐えながら短歌によって福音の深い証言をなしてこの世を去った我らの友人、松尾道晏(みちやす)兄の残した一首です。彼の父君は彼が生まれ落ちるとまもなく結核症のためこの世を去られた由であります。彼の祖父もまた同じ病でなくなり、今自分も同じ病を患って不治の病床にあり、父君や祖父様がなくなられた年令に近づきつつあるという感懐がこの歌の中にこめられています。また聴くところによりますと、お兄さんも結核を病み、長き療養生活の中で信仰を与えられ、「祈りの友」に加えられながら若くして世を去ってゆかれたとのことであります。恐らく道晏兄の家系には結核に対して抵抗性の少ない体質遺伝があったものと想像されます。一方、自分は生まれつき身体が弱く、いろいろな病気を経験したけれど結核にだけは不思議とかからなかったと述懐する人も多くいます。」

 結核はむろん結核菌によって発症するのでありまして遺伝病ではありません。しかし結核菌に対して抵抗性の強い体質か弱い体質かということは、遺伝性があるようであります。ところで薬理学の専門家であられた高橋宏先生は、結核について、こんなことを書いておられます。

「およそ感染症の流行におきましては、病原菌と人間との最初の出会いの場ほどにすさまじく、悲惨なものはないのであります。その人たちにとって全く新しい病原菌との接触が最初になされたとき、人はそれらの菌に対する免疫を獲得していませんから、発病と流行の猛威は押し止めようもなく、地域住民の大半の生命を奪い去ってゆくことはしばしば起ることであります。北アメリカ、クアペル渓谷のインディアン部落において白人との接触が始まった時、部落の中では結核の激しい流行を経験しなければなりませんでした。集団内の大半の若者があい次いで奪い去られ、結核菌に対して感受性の高い(感染しやすい)者の大部分がいち早く犠牲となり、生来病原菌に少しでも抵抗性を有していた者のみが選択的に生き残るという厳しい自然淘汰の法則によって、数世代の後には、この集団内に結核菌に対する抵抗性が遺伝的に蓄積されてゆき、今日では欧米人なみの抵抗性をこの集団は獲得するにいたりました。
またその時の病像を詳しく観察しますと、結核の流行の始まった最初の世代及び二代目の住民では腺組織がいちじるしく侵害せられ、結核菌による脳膜炎や全身的な粟粒発疹、骨、関節の強い侵害など、現在のわれわれにとって想像も出来ないような全身にわたる激烈な感染の症状がみられ、当然の如く高い死亡率が示されました。これは結核菌の侵入、感染を身体の局所において阻止出来ない無抵抗の状態を示すものであります。しかし、三代目に入った頃では結核菌の感染は、ようやくにして肺にのみ局限されてゆき、初代や二代目にみたような急性の激しい全身的症状はなくなり、病像は慢性的経過を示すものへと変化してゆき、死亡率も急速に低下しました。そして数世代の後には西欧人と同じ、静かで極く緩慢な経過をたどる結核症へと移行していったのでした。この事実は世代を重ねるごとに病原菌に対する抵抗性が徐々に獲得されていった状況を教えてくれる貴重な資料です。このインディアンたちはほぼ三世代(100?150年)にわたる激しい感染の嵐の中で、おびただしい人命の犠牲を踏み台として、ようやくにして結核に対する抵抗の姿勢をとりえたのでした。現在のわれわれがもっている結核に対する抵抗性は実はこのような幾世代にもわたる長い長い結核菌との戦い、その間についやされた数え切れない多くのいのちの犠牲によって、やっと獲得されたものであることを決して忘れてはなりません。
(「病気と社会」より)」

 われわれが持っている結核に対する抵抗性、仮に結核になったとしても、かつてのアメリカインディアンの人々が体験したような激烈な病状を示さずにすむ背景には、数知れない多くの人々の犠牲があってのことなのだというのです。この事実は、私達のキリスト信仰に、どのようなメッセージを告げているでしょうか。
 ところで白人がアメリカインディアンの人々にもたらしたものは、結核だけではなく、不当な搾取や差別や戦いの歴史がありました。私が高橋宏先生の書物から学んだことは、病気の流行と人間の罪が如何に深く関わっているかということであります。このことは公害病といわれるものを考えてもすぐおわかりいただけると存じますし、結核でいえば、結核の流行は産業革命以後のことでありました。日本でも例えば細井和喜蔵の『女工哀史』を思い浮かべていただければわかりますように、過重労働、不衛生な労働環境、栄養不足、こういった劣悪な労働条件の下で多数の者が工場という一定の空間の下で働かされる時、結核は爆発的に広がるのです。病気の流行は、その社会のゆがみを写す鏡である。もっと言えばその社会の罪を告発する天の声である、私はそう思います。 コロサイ書に次のような言葉があります。コロサイ書1章24節、「わが身をもて、キリストの艱難の欠けたるを補う」と。病気にはむろん本人の不摂生が原因ということもありますから、全てとは申しませんが、病気の犠牲には、本人の意識の如何は別として、その社会の罪の贖いということがあるのではないか。
 かつて原爆の犠牲者の死に対して、「彼らは軍国日本の罪をその身に負わされて、私達の身代わりとして死んで行かれたのだ。だからこそ、単に同情という言葉をもってしては足らぬ深き思いを、キリストにあって自分は抱く」と言われた無教会の伝道者の方の言葉を、今思い出すのです。同じような思いをもって、もっと広く病人の方々を私達もキリストにあって見るべきではないか。そういう目が少しでもあれば、日本の医療政策はもっと変わってくるでありましょう。
 先日はまた岩手北部にM6クラスの地震がありました。このところミャンマーのサイクロン、四川大地震、そして岩手、宮城内陸地震と天災のニュースが続いています。アメリカでもミシシッピー川の氾濫で、アイオワ州で幾人もの死者や行方不明者が出る深刻な洪水の被害が出ていますし、中国南部の広東、湖南、浙江など20の省で大規模な洪水が発生していまして、127万人が避難、被災者は3,800万人にものぼるとのことであります。そして軍政下のミャンマーはいうまでもなく、これら天災のニュースに伴い、四川省大地震での校舎の崩壊に見られるように、人災ともいえる面が次々に明らかになってきています。そこにも人間の罪の問題が深く関わっています。人の命や人権よりも、経済的利益を優先させ、貧しく弱き立場に置かれた人々のことを省みない姿であります。いや一見天災といわれているもの自身が、実は人間の果てしない欲の追求、兵器の開発、戦争等が深く関わって引き起こされていると言える面が多々あることが明らかにされつつあります。だとすればこれら天災の犠牲者もまた、その犠牲をもって社会の罪を告発し、また罪を贖う存在とされておられるのではないでしょうか。
 旧約聖書には「ノアの箱舟」の話があります。そこでも大洪水と人々の堕落、悪とが関連させられて語られています。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記6章5〜6節)
この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。(創世記6章11〜12節)

 ここで6章5節、6章11節から12節に述べられている「堕落」とか「悪」とか呼ばれているものの内容は何でしょうか。この記事の直前にネフィリムという巨人伝説の話があり、その前には「私の霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから(6:3)」という主の言葉があるところから、ここで悪とか堕落とか言われているものは、人が被造物たる自分の領域を越えて、神の如き者たらんとする意志、自分の思いや欲を絶対とする姿を指していると解せるでしょう。私にはこのノアの箱舟の話と現在の地球温暖化の現実が重なって見えます。
 同じ思想はパウロの中にも見られます。パウロは、人間の罪によって、この世界の全体が「虚無」にのみこまれていると見ていて、被造物の全体がそこからの救いを待ち望んでうめいているというのです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ロマ書8章22節)

 創世記1章1節から2章4節aの天地創造の記事は、この世界がどのようにしてつくられたかを説明している記事ではなく、バビロン捕囚下にあってバビロニアの天地創造の神話に対抗して、ユダヤ人の祭司階級の人々による信仰告白として記されたものであります。ところで、祭司資料の天地創造の記者は、バビロン捕囚というパウロとは全く違った歴史状況においてでありますが、この世界の姿を、次のような言葉で表現いたしました。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
(創世記1章2節)

 地上は混沌としており(即ち朝鮮総督府下の朝鮮民族にとっては、日本の支配が混沌としか感じられなかったように、ユダヤ人にとっては、バビロニアの支配と秩序は混沌としか受けとめられなかったということ)、闇が深淵の面をおおっており、いつ自分達もその深淵に飲みこまれてしまうかわからない、虚無の淵に落ち込んでしまうかわからない。実際このバビロン捕囚期には、イスラエル12部族の内、すでに10部族によって構成されていた北イスラエル王国は滅び去っていたのであり、自分達も同じ運命をたどるのではないかという不安が彼らの心を満たしていたでありましょう。今辛うじてそこから免れているのは、「神の霊が水の面を動いていた」(1:2c)からである。ここの関根正雄訳は「神の霊風が大水の面に吹きまくっていた」であります。虚無の深淵へとずり落ちそうになるのを、神の霊が暴風のように吹きまくり、ユダの民を支えているというのです。そして1章3節、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神の創造の御業がなされる。バビロニアの支配、バビロニアの秩序の只中で、神の創造の御業が開始される。この神の創造の御業への信頼こそ、約半世紀にもわたるバビロン捕囚下にあってユダの民を支えたものでありました。そしてこの神の創造の御業は、この世の混沌の勢力に打ち勝ち、ついにはこのような神の国を来たらせると、イザヤは預言したのです。

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。
(イザヤ書11章1〜5節)

 メシアとはこういう存在だというのです。
エッサイはダビデ王の父で、農民であり、牧畜家でありました。そのエッサイからダビデが生まれ、ダビデ王の子孫からやがてメシア(キリスト)が誕生すると信ぜられたのであります。そのメシアによって、ついにこの混沌の世界は打ち破られて、このような神の国(正義と平和の国)がもたらされるのだとイザヤは預言したのであります。

狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
(イザヤ書11章6〜9節)

 先程のパウロの言葉で申しますならば、被造物のうめきからの解放であります。
ではそれは、どのような道筋を通ってもたらされるのでしょうか。それは意外なことに、イザヤが預言したような、メシアが「その口の鞭をもって逆らう者を死に至らせる(11:4b)」というのではなく、逆にこの世の権力(サンヘドリンの宗教権力、ローマ帝国の権力)によって見るも無惨な死を遂げるという道筋を通ってでありました。混沌の勢力による敗北を経由してでありました。イエスの死はそのことを私達に示しています。主イエスの復活は、この世の勢力に対する敗北を経由しての神の勝利の出来事であります。人間の罪に対する神の勝利、復活とはまさにこういう出来事であり、メッセージでありました。だとすればこの世にあって直接的勝利を目指すあり方は、キリスト者の取るべき道ではないと言わねばなりません。
あの混沌の闇の中で、神が「光あれ」と言われた。その光の創造こそ、新約においては主イエスの復活であった。この意味で、復活こそは、神の新しい創造の御業であります。
混沌を極めたこの世界のどこに、そんな神の創造の光などあるのかと、この世の人々は言うでありましょう。それに対して聖書は、いやそれは今はからし種一粒ほどの、取るに足らぬ小さな存在かもしれないけれども、やがてそれは、神の国において大木として成長するというのであります。(ルカ13:18〜21)
水俣病の問題に深く関わり生きてこられた石牟礼道子さんのことを描いた「海霊の宮」というドキュメンタリー映画をみました。石牟礼道子さんという方は、日本の土俗的な信仰に根ざして生きてこられた方だと思いますが、彼女はこんな風に書いておられます。

水俣病の患者さん、「毎日祈らずには生きていけない。今日を生きていけない。自分たちの魂が生きていけない」って、声をつまらせておっしゃって。「何に対して祈られますか」ってお尋ねしてみると、「人間の罪に対して祈る」とおっしゃるんですよ。「我が身の罪に対して、人間の罪に対して祈ります、毎日」。あの方々とてもお苦しいわけですので、一切、心身共に苦悩の中におられますから。壮絶な苦闘しておられるわけですから。チッソの罪とか、政府の罪とか、市民たちがいじわるするから市民たちの罪とか、おっしゃらない。人間の罪、我が身の罪に対して祈るということをおっしゃるのは、人間たちの罪を、今自分たちが引き受けていると、お思いになるんでしょう。
祈るしかないんですよ、水俣の患者たち。それで治るわけじゃないんですけど。人の分までも祈って。チッソの人たちも助かりますようにと言って祈ってますからね。そうしないと、自分たちも助からないって、チッソの人たちも助からない、と。
やっぱり精神の位がちがうという、あの人たちの精神の位が高いというか深いというか、純粋ですね。
(石牟礼道子「海霊の宮」本編より)

 如何でしょうか。私は、こういう祈りは生まれながらの肉の人間の中からは生まれるものではないと思います。石牟礼さんは、水俣病の患者さん達の「あの人たちの精神の位が高い」と言われるのですが、私はここに神の創造の御業を見ます。混沌の世界の只中で、「光あれ」と言われた神の創造の御声を聴きます。患者さん達はチッソへの怨みを風化させまいとして、「怨」という文字を紙に書いて柱にはりつけておられた時期もありました。水俣の患者さん達も、チッソの人達のためにも祈るという境地に達するまでには長い年月を必要としたのでした。長い年月を必要とはしましたが、そこに驚くべきことが起こっているのです。神の創造の御業は何もいわゆるキリスト教世界の中でだけ働くのではありません。
 目をおおうばかりの混沌の闇の現実というものがあります。人類は滅亡するその当日まで、この世界では一方で飢え、他方では飲めや歌えのどんちゃん騒ぎがなされていることでありましょう。しかしその中にあっても、私達は混沌を突き破って、光を創造して下さる神の現実のあることを信じ抜きたいと思うのです。主イエスの復活はその保証であります。そして一見無駄に無意味に思える犠牲や死も、神の国のいしずえとして神様は用いて下さる、そのことを信じたいと思うのです。
 宗教改革者マルティン・ルターの言葉に「たとえ明日、世の終りが来ようとも、今日私はリンゴの木を植えよう」というのがあります。普通に考えれば、そんなことは全く無意味なことに思えます。しかし神はそれを意味あるものに変えて下さる。意味あるものとして用いて下さる。そのことを信じて私達は小さなわざに励む者でありたい。
 自らをも含めた罪の現実を冷静に鋭く見つめつつも、それにとらわれ切ってしまわないで天を仰いで、つつしみ深く、しかし着実に進み行く者でありたい、そう願います。一言祈ります。


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