見えない者は見えるように

イザヤ書29章18−19節
ヨハネによる福音書9章35−41節
2008年9月28日 
安城教会牧師 武岡洋治先生


(1)目が開かれたために

ここに一人の若い男の人が立っています。あるいは うずくまっていると言うべきかも知れません。先ほど会堂から追い出されたばかりなのです。その会堂で、彼の目が癒されたことについて彼は厳しく尋問されたのでした。生まれつき目の見えなかった彼は、イエスという方によって目が癒され、ものが見えるようになった。その日は安息日でした。それが問題とされたのです。両親も呼び出されて聞かれました、「これはお前たちの息子か」と。「あの子に聞いてください。もう大人ですから」と言って、両親は回答を避けました。ユダヤ人たちの追求を恐れたのです。この息子と両親を裁いたユダヤ教ファリサイ派の人たちは、モーセの弟子を自認し、律法の戒律と規則を厳格に守ることを要求します。彼らにとって、安息日にナザレのイエスが目を癒したことは、明白に神を冒涜し、律法に違反したことでした。しかも生まれながらの盲目ということは、本人もしくは両親、先祖の罪であると古くから考えられていました。
 そうしたことから、彼は罪ある者として会堂から追放されたのです。会堂は安息日の礼拝だけでなく、裁判、教育など信仰と社会生活全般にわたる中心的な存在です。会堂からの追放はそうした関係のすべてが断たれたということであり、自分と他者との関係性の死を意味しています。これまでの知人たちも例外ではありません。彼の目が開かれたとき、彼を知る人たちは、「あの人は道で物乞いをして男ではないか」と言って議論し、審判を求めて彼を会堂に連れて行ったほどでした。失明という「視力の死」から解放された一方で、生きるべきこの世での対人関係の断絶という「もう一つの死」に、彼は直面することになりました。知人に疑われ、両親に見放されて、社会から閉め出されただけでなく、ユダヤ教律法という絶対的な権威と規範、それを守る限り許される生活の安全圏から放り出されて、この先どうしたらよいのか。彼は今、得たことによって失ったものの大きさの前で途方に暮れています。今彼は「失われた者」となったのです。

(2)失われた人に出会われた方

イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになりました。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われました。この失われた人は、再びイエスに見出され問いかけられたのでした。イエスはどこでその噂を耳にされたのか。どのように彼を求めて捜されたのか。聖書は何も答えていません。しかし、二度にわたる二人の出会いがあり、そこで主イエスの決定的な問いがあり、これまた決定的な彼の応答があった。それで十分です。それまでの経過などは、福音書記者には大した事柄ではなかったに違いありません。
 今日道を通りかかったとき、道端で物乞いをしていたこの人に目を留められた主イエスは、この人の上に神の業が現れることを既に見ておられたのです。「この人が生まれつき目が見えないのは本人の罪であるか、それとも親の罪であるか」という問いのどちらも否定して、「神の業が現れるため」と、主は弟子たちに明言されていたのです。主がその人の目を癒したとき、目に塗った泥をシロアムの池で洗うよう指示されたのは大変象徴的です。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4・18〜19)。
 その失われた人に再会されたイエスは、彼のそうした疎外と孤独とは無関係なほどに尋ねられました。「あなたは人の子を信じるか」(35節)。自分の目を開いてくれたのはイエスという方で、神から来たことを彼は知っています。だからこそ、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」(36節)という言葉が口をついて出たのです。「イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ』」(37節)。
 ここには、町中の雑踏や世俗の思惑のあれこれから隔絶した世界があります。「イエスのまなざしに捕らえられること、それが信仰である」と言った人がいます。この人は今まさに、イエスのまなざしに捕らえられ、神の救いの業、神の国の真実を目の当たりにすることができたのです。だからこそ彼は、「主よ、信じます」(38節)と言って、ひざまずいたのです。それはイエスのまなざしと言葉からあふれ出た神の真実に打たれた人だけに開かれた決定的に新しい世界であります。また自分の身に実現した神の業に対する感謝の応答と、人間の側から発せられた真実の告白があります。

(3)失って開かれた新しい世界

「イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』」(39節)。
目が開かれたために追放の憂き目に遭い、疎外と孤独のただ中に投げ出された彼は、今目の前におられるイエスという方が救い主キリストであることを、はっきりと信じ告白することが許されたのでした。生まれながらの古い自分に死んで、イエス・キリストが開いてくださった新しい世界に引き入れられたのです。肉眼が開かれたのを第一の開眼とすれば、今彼が経験したのは、神の真実に対する信仰の目が開かれたという意味で第二の開眼と言えるでしょう。「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(39節)。
 彼が第二の開眼で見えるようになったものは何だったのでしょうか。見えるとはいったい何でしょうか。「イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」(40節)と言ったのは当然でした。彼らが見えると自認していたのは「戒律と規則ずくめ」の律法の世界であり、神殿に象徴された律法の権威と社会秩序を守る管理意識の世界だったからです。神を愛し、隣人を自分のように愛する。新しい律法の世界、疎外と孤独に打ちひしがれた人を捜して癒す救いの世界は、彼らの目には視野の外であったのです。
 今日、失われた人とは誰のことでしょうか。また、その人にはどんな世界が見えているのでしょうか。
 「わたしの目は何も見えないけれど、わたしの心は何でも見えます」と語ってくれたのは、ナーラ・ハムザというスーダンのエルヌール国立盲学校の生徒です。私自身、薬害事故に遭うまでは、人並みにものが見え、見えるのが当たり前と思っていました。しかしその頃、彼女の見ている世界は何も見えていなかったことに気づかされました。こうして見るのに不自由な身体になると、少しは分かって来たような気がしますが、彼女には到底及びません。貧困と栄養不足で失明する子供が多い国スーダン。ハムザもまた失われた人の一人です。視力をなくしたスーダンの子どもたちを思いつつ書いた詩を紹介して終わります。

「たとえ眼が見えなくても」
       作・ 武岡洋治
眼はたとえ見えなくても
あなたたちには明るさがある。
あの照りつける太陽の下
暑さと乾きに耐える根強さがある。
おだやかで親切で
相手を思いやる心を
あなたたちは教えてくれた。
神の救いへの信頼と忠実によって
厳しさに耐え、
その試練の中で豊かな人間性が
はぐくまれたのだろうか。
わたしの眼は何も見えないけれど
わたしの心は何でも見える。
そう語ってくれた女子生徒の言葉が心を打つ。
眼がたとえ見えなくても
人間の真実を見抜く心のまなざしが
あなたたちの中に輝くのだ。
視力の乏しさが
かえって人間を豊かにする。
その逆説が深い真理へと
私たちを導く。
「心の貧しい人たちは幸い」と言われた主イエスのお言葉どおりに。


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