降誕のイエスを宣べ伝える

イザヤ書53章1〜3節
ヨハネによる福音書7章25〜31節
(2008年11月30日 待降節第一主日 経堂緑岡教会礼拝説教)
恵泉女学園中学高等学校校長 佐伯幸雄牧師


 教会の暦は今日から待降節(アドベント)を迎えました。牧師のガウンのストールも紫色に変わりました。アドベントは主の受難を覚えるレントの季節と同じように、来たりたもう主が、私たちの罪の贖いのためにこの世に御出でになった覚える季節でもあるのです。
 ローマ帝国のポンペイウスがパレスチナの地を占領統治したのは、B.C.63年でした。以後、A.D.132〜135年の第二次ユダヤ戦争でエルサレムが陥落するまでの200年間の期間を含めて、皇帝アウグストの治世以後、ほぼ二世紀末のマルクス・アウレリュウスに至る二世紀の間は「ローマの平和」(パクス・ロマーナ)といわれ、平和を謳歌した世俗的ローマの黄金時代でした。新約聖書に登場する「イエスの生涯」そして、「イエスの十字架上の死」はこの時代に起こりました。その後、イエスの復活、初代教会の成立、パウロの回心、地中海地方への伝動と続きますが、それと平行してクリスチャンへの迫害や殉教が続き、A.D.64年に起こったローマの大火ではクリスチャンが濡れ衣を着せられて、ポーランドの作家シェンキェヴィッチの小説「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、どこにおいでになるのですか)にもなった大迫害が起こっています。
 イエスの生きられた時代、キリスト教会が誕生した時代は「ローマの平和」とは裏腹に、パレスチナの地では、生きる権利をもぎ取られた人々が、貧富の差等の格差社会職業差別の中で生活苦に喘いで、生きる希望を亡くしていた時代でした。一方、片や、占領下というのに、エルサレム神殿を聖域としていたユダヤ教指導者、祭司、律法学者たちは、占領下の政治権力と迎合し、宗教を利用した特権階級であることを欲しいままにしていました。そのような時代のただ中に、イエスは生まれ、成人し、苦難に喘ぐ民衆の側に立って生きられたのでした。著者ヨハネが福音書を書いた時代も世の中は諦めの時代でした。すでに60年も過去の時代になっていた、あのイエスの生きられた時代のことを思い起こしながら、世俗社会に迎合せず、神の正義を死に至るまでその言動のうちに隠さず、語り行動に移されたイエスの姿を、信仰の目をもって書き綴っていきました。三つの共観福音書も同様に、単なる過去の思い出としてではなく、死から復活されたイエスによって、復活信仰の息を吹き掛けられた者として、「あのイエスこそ真にキリストであった」と告白し証言するために、福音書を編集していったのでした。
 私たちの信仰生活も、この信仰告白に基づいて営まれていなければなりません。今日、世俗社会に生きる私たちが、信仰をもって生きるということが尋常でないことをお互いに体験しながら、教会に集い、礼拝を守り、信仰をもち続けることの大切さを掛け替えのないこととして、今、ここに礼拝者として居ります。

 昨年の秋、娘から券をもらって久しぶりに親子三人で、劇団四季の演じる「Jesus Christ・Superstar」のエルサレムバージョンを京都駅にある「京都劇場」で観劇しました。この劇は異なる二つの表現で演じられていました。つまり、ユーロロックミュージカル版と歌舞伎版で演じられていました。
  [ストーリー]はローマ帝国の支配下にあるパレスチナで圧政と退廃に苦しむ民衆の前に彗星のように現れた一人の青年イエス。その不思議な魅力とカリスマ性を持つ彼に、人々は心を奪われ「神の子」と讃えて熱狂的に崇拝するようになります。しかし、彼は救世主として、人々から寄せられる期待と自己の無力さとの間で、一人の人間として苦闘し始めます。ここでの劇はユダとマグダラのマリアを登場させ、イエスのスーパー性に期待という愛を注ぐユダと、献身的な愛をもってイエスを愛するマリアの間にある愛と憎しみの相克を描き、その傍ら、イエスに救いを訴える虚ろな民衆の求めと、権力者たちの思惑の絡む中で、十字架にかけられていくイエスの姿を迫力を持って描き出していきます。
 お客たちは、劇団四季の演出と俳優さんの素晴らしい表現力に、その都度拍手をするのですが、私にとってはその度に違和感があり、白ける思いがしましたが、世俗の目でイエスを見つめようとする目との段差を感じていました。
 かつて八年前にドイツのオーバーアマガウで鑑賞した「イエス・キリストの受難劇」を鑑賞したときの感動を思い浮かべ、世俗の目と信仰の目で物語を捉えるその目の違いを比較していました。

 今日、与えられている聖書は、仮庵祭も半ばになった頃、イエスは神殿の境内に上っていかれて、隠れることなく人々の前で話をされていました。このイエスを目の当たりにして、エルサレムに詣でる人々は、イエスについて様々な論評を投げ掛けていました。その趣旨は「あのイエスは本物の救い主なのかどうか」ということでした。イエスはマタイ16:4「よこしまで神に背いた時代の者たちは徴を欲しがるがヨナの徴のほかには徴は与えられない」と言っておられます。また、パウロはローマ1:21に「なぜなら、神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって虚しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」と言っています。彼らはイエスのなかにキリストを求めるのですが、彼らの期待する徴は、この悪しき世をくつがえすようなスーパースターの姿では現れませんでした。
 世俗社会は一部の成功者、例えばオリンピックのメダリストや、ノーベル賞受賞だけをクローズアップさせます。群衆もその快挙に心奪われて「日本の誇り」と賞賛します。それは、受賞者の問題ではなく、メディアをはじめとする「勝てば官軍」意識が庶民のなかにも根深くあって、そのしわ寄せが庶民に重くのしかかっている現状から目を逸らしているのではないか、と思うのです。
 国際社会は、経済力、軍事力、国際的地位を求めようとしますが、現実には弱者切り捨ての現実は果てしなく続きます。暗い報道の続く裏に、聞かされていない自らを絶つ人の数が10年連続で3万人を超える現実があります。ローマの平和といわれたあのローマ時代の市民は、平和を謳歌するのとは裏腹に、格差社会が歴然としてあり、その時代と何ら変わらない時代が、今日も続いているのを感じるのです。
 メシアであるイエスは民衆が期待する輝かしい成功者ではありませんでした。むしろ、地上に生きる者の罪と苦悩を担うメシアでありました。なんだ「そんなメシアなら、私は期待しない」という声が世俗社会に生きる人々から聞こえてきます。さらには文化の先端を行く学校をはじめ職場や労働者や高齢者の中からも、そんな声が聞こえてこないでしょうか。技術革新、ハイテク、環境破壊、格差拡大、グローバル、国際化、という現代を象徴する言葉の裏に、そこから切り捨てられていく人々に、生きる希望を与えるのは、何なのか、だれなのか、そのことが今、この礼拝に集う私たち自身にも問いかけられています。

 はじめに申しましたように、今日から教会の暦は待降節(アドベント)に入ります。世俗社会は一斉にクリスマスツリーに灯りを点しています。「イエスの誕生を祝う日がクリスマス」くらいのことは誰もが知っています。しかし「イエスがキリストである」という出来事の真実はそこにはありません。恰も、イエスの生涯がそうであったように、教会の存在も無視されて「パックス・ロマーナ」を楽しんでいる時代です。しかし、神はこのような世界にもメシアとして、キリストとしてお生まれになり、私たち信仰者に、「この時代に生きるキリスト」を告げ続けるように求めておいでになることを信じて、今年のクリスマスを迎えたいと願っています。


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