人間にはできないことも、神にはできる

  申命記5章6〜22節
  ルカによる福音書18章18〜30節
  2009年1月18日
  経堂緑岡教会  村上 伸牧師(代々木上原教会牧師)


 大晦日の『毎日新聞』<余禄>欄に、年末恒例の「いろはカルタ」が載っていた。昨年の世相を表現したもので、中でも「論より解雇に何も家ねえ」というのが強く印象に残った。「論より解雇」は「論より証拠」をもじったもの。それに北京オリンピックで二連覇を達成したときの北島選手の感想「何も言えねえ」を結びつけたらしい。「言えねえ」という所にはわざと「家がない」という字を充てている。「非正規労働者」の仕事や住居が有無を言わせず奪われている、その怒りを表現したのだろう。
 他にも、最近の腹立たしい現実を描き出したものが多くあった。「放棄高齢者医療制度」(後期高齢者医療制度)、「理不尽極まる<誰でもよかった>」(通り魔殺人事件)、「ルーズの権化、社会保険庁」、「温暖化止まらず洞爺湖の霧深く」、「悪知恵尽きぬ振り込め犯」、「世も末学府に大麻草」、「使い回して料亭消える」、「ならぬ入院足りぬ産科医」、「不慎銀行東京」(新銀行東京)、「採用無い定」など。「みちのく鳴動パンダ四川震撼」、「火の車産業」(自動車産業)、「税の上げにも三年」(三年後の消費税率アップ)、「崖の縁のタロ」(崖の上のポニョ、麻生太郎)、などというのもある。明るい気持ちにさせてくれたのはごく僅かで、「歴史を変えるクラスター禁止条約」、「源氏の光は千年不滅」、「夢のノーベル未曾有の四人衆」くらいだ。

 暦が新しくなったからといって世界が突然変わるわけでもない。昨年世間を騒がせた数々の問題は、当分はそのまま残るだろう。このような暗い現実の中で、我々は新しい年を迎えた。今日は『日々の聖句』(ローズンゲン)が選んだ今年の年間標語:「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ福音書18,27)に注目したい。
 この箇所は、ある金持ちの議員がイエスに「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(18節)と質問したことから始まる。イエスが「十戒」に書かれている神の掟を守ることが大切だと答えると、議員は、「そんなことは分かっていますよ!」と言わんばかりに、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(21節)と言葉を返した。そこでイエスは、この議員が今まで意識的に避けてきた問題を取り上げる。彼の弱点を衝いたのである。それが22節である。

ここを本田哲郎神父の翻訳で読んでみよう。「あなたには、し残していることが、まだ一つある。あなたが握っているものを貧しい人たちと交換し合い、さし出しなさい」。そして23節は、「その人は、これを聞いてすっかり落ちこんでしまった。たいへんな金持ちだったからである」。感じがよく出ているのではないか。
 このやり取りの後で、イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(24〜25節)とコメントされた。これを聞いた人々が、自己弁護をするような口調で「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)と反問する。それに対するイエスの応答が、「人間にはできないことも、神にはできる」だったのである。
 こうした経緯から明らかなように、イエスはここで「人間にはできないこと」(人間の無力)について、あるいは「神にはできること」(神の全能)について、抽象的な神学論を展開したわけではない。「人間にはできないこと」とは、「自分が後生大事に握りしめているものを貧しい人たちと分かち合うことなど到底できない」という考え方・生き方を指している。具体的な内容を持った言葉なのだ。

 ある注解者は、イエスの時代、金持ちは実際そういう風に考えていた、と説明している。彼らは、貧しい人たちがいつまでも貧乏から脱け出せないのは怠け者で頭も悪いからだと軽蔑していた、そんな連中に、自分たちが努力して手に入れた財産をむざむざと分け与えるなど到底「できない」相談だ、というのである。
 昨年、米国の金融不安から始まった経済危機は、瞬く間に全世界を呑み込んだ。経済の詳しい仕組みについては、素人の私には分からないことが多い。しかし、私にも分かることがある。それは、「働き者で頭のいい」人々が巨大企業を経営して想像を絶するほどの金持ちになったが、その栄華は脆くも崩れた、ということである。その影響は巨大な津波のように全世界に波及し、今もなお余波が続いている。
 このような危機に直面した時、企業の首脳部は、先ず手足として働いてきた労働者を大量に切り捨てる(リストラ)。この方法で企業本体を守ろうとする。今、ここで企業を潰すことは「できない」。利潤を生み出す頭脳と心臓部は、国民の税金を使ってでも保護されなければならない。この論理は分からないこともないが、そのために「トカゲの尻尾」のように切り捨てられた労働者は、あの「いろはカルタ」にもある通り、「論より解雇に何も家ねえ」と嘆く羽目になるのである。

 だが、困難の中で一緒に苦しみを負い、仕事を分かち合い(ワークシェアリング)、共に生きて行くことは本当に「できない」だろうか? 金持ちは「できない」と言う。金持ちほど利己主義のとりこになり易いから、自分が蓄えこんだものを貧しい人々と分かち合うなど、「そんなことはできない」と言う。イエスが「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われた通りだ。
 だが、イエスは続けて「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。これは真理ではないだろうか。年末から日比谷公園で、仕事も住まいも突然奪われた多くの非正規労働者たちに食事と眠る場所を提供し、生活保護申請の手助けをするなどの運動(年越し派遣村)を始めた人たちがいた。神は、このように善意の人々を起こし、その人たちを通して愛の業を続けられる。「神は生き給う」と信じよう。


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