イエス様の不思議な選択

エレミヤ書16章14〜21節
マタイによる福音書4章18〜22節
2009年2月22日
経堂緑岡教会  柳元宏史神学生


 昨年の12月まで、約三年間にわたり、神学生として伝道者となるための備えの時をこの経堂緑岡教会で過ごさせていただき、様々に支えられて、また、多くの経験と思い出を蓄えさせていただきました。そして、今朝はこのように、礼拝での説教奉仕の機会を賜り、心から感謝しております。
では、早速、今朝私たちに示された聖書の物語から、大切な福音を、敬愛するみなさまとご一緒に分かち合いたいと存じます。

1.「人」を求める

 18節から19節をご覧下さい。

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」といわれた。

とあります。「わたしについて来なさい」とは「私の弟子になりなさい」ということです。また、「人間を取る漁師にしよう」とは、「人間の魂に救いをもたらすものにしよう」、という意味です。
 イエス様が宣教を開始されてまず、最初になさったお仕事は、弟子を得ることでした。これは大変興味深いことではないでしょうか。イエス様は伝道を開始されるにあたって、まず、お弟子さんを必要となさいました。
 イエス様だけで伝道するのではなく、イエス様と寝食を共にする「人」を求めておられることにまず注目したいと思うのです。
 神さまはしばしば、人を用いて、自らのご意思をお示しになります。今日は降誕節の最後の主日ですが、記憶に新しいクリスマスの出来事においても、神様は、イエス様の誕生にあたっては、マリアを、イエス様の命をまもるにあたっては、ヨセフを、神さまはそれぞれ何の条件もなしに選び、その役割を示し、ご計画をあらゆる魔の手から逃れさせ遂行なさいました。
 神さまのご計画に、人が用いられているということ。これは、聖書の中のことばかりではありません。いまを生きる私たちの存在も、神さまによって用いられていることを忘れたくはないのです。どのような苦しい状況にあったとしても、付きまとう病に悲嘆に暮れそうになったとしても、それでも、イエス様は、「わたしには、あなたが必要だ」とおっしゃる。私たちは、神さまのご栄光をあらわすために、証しするために、用いられている存在であることを忘れたくはないのです。
 それゆえ、神様は「ひとり一人」、「ひとり一人」の人格を本当に大切に思っていてくださっている、愛してくださっている、信頼なさっている、たとえ間違ったとしても、根気強く招いてくださっている、ということではないでしょうか。神さまとはそのような恵み深いお方なのではないかと思うのです。
 ひとり一人です。「ひとり一人」を大切にしている聖書の姿は、今日の物語にも明らかです。なぜなら、イエス様が招かれた4人の名前が22節までに、しっかりと明記されているからです。聖書に書かれている事柄は、はじめ口伝といって、口伝えで受け継がれていました。紙や羊皮紙に記されるようになったのは後の時代のことです。口伝でさえ、忘れられることなく、今日ご一緒にお読みした22節までの4人の名前は「ひとり一人」、大切な名として伝えられていたことがわかります。その名は、ペトロと呼ばれるシモン、兄弟のアンデレ、ゼベダイの子ヤコブ、その兄弟ヨハネです。

2.生活の只中で

 イエス様がお声をかけられたとき、18節を見ますと、ペトロとアンデレは、湖で網を打っている仕事の最中でした。ヤコブとヨハネは、一日の仕事を終え、明日の仕事の準備のため網の手入れをしていたことが、21節を見ると分かります。
 イエス様は双方をご覧になって声をかけられました。ここが大切です。イエス様がご覧になって、声をかけられるところから「物語」は始まっていくということです。
 イエス様がご覧になり声を掛けなければ、この漁師たちの人生は最期まで漁師としての人生を全うしたことでしょう。
 しかし、彼らの人生に決定的転換が起こりました。それは、イエス様が、お声をおかけになった! ということです。
それは、「ちょっとおさかなおいしそうですね、ひとつわたしにもくださいな」というようなのんきな調子ではなく、「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしよう」という威厳に満ちた言葉でした。
 この決定的転換の言葉が発せられたのは、実に、かたや、漁をしている最中に、かたや、漁を終えて明日の準備をしている最中のことでした。日常生活の只中に入ってきてくださるイエス様の姿が、ここにはあります。このことは、今の私たちにもあてはまります。日常生活の只中で、イエス様はわたしたちをご覧になり、側にいてくださっている、ダイナミックに働いてくださっているということです。イエス様は、「ひとり一人」の生活をご覧になっていて、それぞれの生活の場で、生きて働いてくださっていて、そして時に声を掛けてくださっている! なんという恵でしょうか。
 わたしたちが側にいたい、一緒に食事をしたい、と思う相手は話していて楽しく、自分にとって大切な相手でしょう。同じく、イエス様は、あなたの事を大切に思っていてくださっているから、あなたの生活の場に共にいてくださるのではないかと思うのです。なんという喜びでしょうか。わたしたちは独りではないのです!
 私たちはイエス様によって選ばれている、なんという不思議な選択でしょうか。その恵みを心に留めたいと思います。

3.無条件

 さて、イエス様のお弟子さんは12人です。そのうち、最初の4人が漁師でした。人間の魂の救いのために、伝道のために、すべてのお弟子さんたちの三分の一が漁師ということになります。救いに「おさかな」がそんなに必要だったのでしょうか。もちろんそうではありません。
イエス様が弟子とされる対象は、何か特別な資質や能力をもっている人を、バランスよく招くのではありません。イエス様の招きに、選択に条件はありません。また、こちら側の状況が整ってからイエス様に従うのでもありません。
 状況が整うというこちら側の都合ではなく、イエス様の招きというイエス様の側の思いがそれぞれの形の召命となって、わたしたちに与えられるということです。
 先ほども触れましたように、決定的な言葉との出会いは、ペトロとアンデレは仕事の最中、ヤコブとヨハネは明日の仕事の準備の途中の出来事でした。双方にとってこのタイミングは、イエス様に従う絶好の状況でしょうか。そうではありませんでした。
 聖書は、四人の資質や能力や状況に何の興味も示しません。「もし、こうなら招きましょう」ではありません。「招く主の声」がまずあること。そこからすべてがはじまる。どこまでも主の側に主権があることを忘れてはならないのでしょう。

4.不思議なこと

 ここまで、イエス様の不思議な選択の意味についてご一緒に考えて参りましたが、もうひとつ不思議なことがあります。
 それは、この招かれたお弟子さんたちは、のちに、一度ならず失敗していることです。究極的には、最も大切な場面で、全員が失敗しました。それは、イエス様を裏切ってしまったことです。
 イエス様は、わたしたちの体と魂に、水あめのように絡みつく自己中心的で、人の意見に耳を貸さず、自分を絶対化して神を神としない罪の縄目を断ち切って、わたしたちが互いに神の家族として尊重しあい、本当に神の前に自由に生きるために、わたしたちの罪を一身に背負って十字架にはりつけにされ、苦しまれ、十字架によって罪を赦してくださいました。その壮絶な死を前に、お弟子さんたちは自分の命が危険にさらされることを恐れ、逃げてしまいました。イエス様を大事なところで裏切ってしまった。この姿は紛れもなくわたしたちの姿が透けて見える事柄ではありますが、そのような、大失敗をした弟子たちは、そののち、イエス様の十字架と復活を証しするために殉教するまでに用いられました。
 これは、どういうことかといえば、「失敗することは、イエス様のまえで不適格なのでは決してない!(2度)」 ということです。イエス様は、失敗することを問い詰めたりはなさいません。「失敗しようと、招き続けてくださっている!」「イエス様は忍耐して招き続けてくださっている!」 失敗することにビクビクしているとすれば、イエス様の招きよりも、自分自身を問題にしている。それは、イエス様の招きに委ねきってしまうことができない、ということではないでしょうか。

 5.委ねきれなかったわたし

 イエス様の招きに委ねきれなかった苦い経験を持つ私には、「失敗する事は、イエス様の前で不適格なのでは、決してない!」というメッセージは、深い慰めです。わたしは、一度、召命観が与えられ、大学卒業後、夜学の神学校に入学しました。洗礼を受けた高校2年の頃より温めてきた牧師になりたいという夢に向って、ようやく一歩踏み出し喜んでおりました。ところが、昼はアルバイトをし、夜に学ぶという生活に加え、唯一の休みである土曜日も教会の奉仕で、加えて神学校の中で人間関係にも悩み、いつの間にかへとへとになり、自分はいったいどこへむかっているのか、何をしているのか分からなくなってきはじめていました。あれほど牧師になりたいと願っていながら、わずか半年のことでした。幼い頃から、比較的恵まれた環境に育ち、両親が私に不自由させることなく、あるいみ守られ幸せに育って青年になった私が、はじめて、大学を出て学校という城壁を一歩出たところで、予想だにしなかった大きな荒波にさらされ、すっかりたじろいでしまいました。そんな弱い自分を認めなくはありませんから、石にしがみついてでも、とその生活を続けていましたが、風邪のような症状が何週間も続き、どの病院にいっても異常はみあたらないのに、身体は弱っていく一方で、先行きの不安と身体の不安が重なりついに限界を感じ、実家にしばらく戻り静養することにしました。
 今振り返ると、身体が拒否反応をしめしていたことに耳を傾けなかった結果でした。しかし、このことは、自分にとっては大きな挫折感として頭にかぶさり、神学校に復帰することに自信がもてず、召命観はズタズタになって、気持ちは暗くふさぎがちになり、朝の光が疎ましく、カーテンの間から見える通勤ラッシュの車やバスの姿が、自分とのギャップで胸に突き刺さるように苦しい光景にうつり、早く夜が来ないかと思う日々が続きました。そして教会にもいけなくなりました。牧師になることに失敗した恥ずかしさや、なさけなさが教会への道をふさぎました。あるときわたしに洗礼を授けてくださった今野善郎牧師(現・須賀川教会)が訪ねてきて、「教会は逃げないからいつでも待っていますよ」とおっしゃってくださった事は救いでした。
 あの時のわたしは、イエス様の招きよりも自分自身を問題にして自分ばかりを見すぎてしまったような気がします。ご復活のイエス様が必ずいてくださって、人知を超える主のご計画があるはずだと深く信じることができるならば、また、ちがった生き方が、できたのでしょう。しかし、今振り返ると、これも主の大きなご計画であったのだろうかと思います。わたしがこのような状況にいたとき、今野牧師が「今は彼にとって必ず必要な時なんだ」とある方に語っていたと、10年たった最近聞いて、本当にそうだったと思います。
 その後、上京して会社に勤め、5年ほど勤める中で、魂の渇きを感じ、教会の祈祷会や日曜、仕事が休みのときは礼拝にも出席するようになり、自分の中心にあるべきは、やはりみ言葉以外にない事を確信し始めました。
 そして、これから自分は本当のところ何をしたいのかを祈り始めました。祈る中で、もう一度牧師を目指したいと思うようになりました。まったくそのような選択肢は消し去ったものとおもっていました。しかし、イエス様は一度ドロップアウトしたものを捨て置かれる方ではありませんでした。もう一度招いてくださいました。牧師を目指すに当たり、ある牧師の紹介で松本敏之牧師に相談に乗ってもらいました。懐かしい思い出です。松本牧師は一言「牧師はいい仕事ですよ」とわたしたち夫婦におっしゃったことは忘れられません。松本牧師との出会いがなければ、経堂緑岡教会のみなさんとのお交わりもなかったかと思うと、不思議な神のご計画を感じます。
 そして皆様の祈りにささえられ、4月より、岡山県の蕃山町教会に担任教師として赴任することになりました。岡山の土地を愛し、妻を大切にし、娘をいつくしみながら、行く先どうなるかわかりませんが、主に委ねて、出会う、おひとりお一人と大切なまじわりをもち、福音宣教の業にお仕えしたいと願っています。

6.暗闇の中の光

 はじめに、イエス様の伝道の最初の仕事は、弟子を選ぶことだったと申しました。イエス様がお弟子さんたちを選んだその場所は、様々な病や多くの悩みにみちていました。その只中で、福音宣教のために、イエス様が言葉と業によって、神の国がすでに来ていることを人々に伝えたことは、まさに暗きに輝く「世の光」であったでしょう。
 暗闇の中、確かにイエス様は福音の明かりを用意してくださっている。その恵みをどうかいかなる時も忘れないで欲しいのです。そしてわたしたちを選んでくださっていて、それぞれの生活の中で主が「あなた」を、必要となさっています。今日の聖書箇所の少し後の5章14節で、イエス様はこのようにおっしゃいます。
「あなたがたは世の光である。」(マタイ5:14)
 最後に、今日の中心的内容である19節をご覧ください。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる(人間の魂を救う)漁師にしよう」。
イエス様は「不思議な選択」によって、わたしたちに声をかけて下さり、用いて下さいます。ここに救いがあります。ここに恵みがあります。
このお招きの恵みを、両手一杯に携えて、イエス様のお招きに、お応えする生涯でありたいと願います。

祈ります。
恵み深い主なる神さま、
あなたの招きの声が心にこだまいたします。どうぞ、私どもそれぞれの人生において、あなたの示してくださる道がどこにあるのか、急がず、お委ねして、祈りながらすすむ者とならせてください。あなたさまのご栄光のために私どもそれぞれをお用い下さい。
われらの主、イエス・キリストの御名によっていのります。アーメン。


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