1992年11月17日、私たちは,ブラジル・メソジスト教会、第3教区(サンパウロ周辺)の本部を訪ね、ビスポ(ビショップ、監督)ジョヴァル師にあいさつをして来ました。「日本から遣わされている宣教師として、日本の教会とブラジルの教会が意味のある交わりが持てるように橋渡しのような働きができないかと考えている」と話をすると、早速12月の牧師会に招待されました。私は英語まじりのたどたどしいポルトガル語であいさつをしたのですが、牧師たちは大歓迎してくれました。ブラジル人は、すぐに打ち解けてアミーゴ(友達)になります。
また11月24日には、メソジスト教会の運営する「ストリート・ピープルのコミュニティー」へ案内してもらいました。それは東洋人街近くの大きな陸橋の下にあります。私はいつもその陸橋を通っていながら、その下に大きなコミュニティー・センターがあるなどとは、想像もつきませんでした。
これは昨年(1992年)7月に開かれたばかりですが、毎日約150人の家のない人々がこのコミュニティーを利用し、シャワーを使ったり、洗濯をしたり、髪を切ったりしています。ゲーム室や読書室もあります。またランチが食べられ、3時には毎日礼拝をします。その他、彼らの荷物や身分証明書などの貴重品を預かってあげたり、彼らがやがて自立できるように読み書きや漁師、簡単な手仕事などを教えたりもしています。ちなみにこのコミュニティーを利用する人の95%は男性、その80%は30〜40代です。私たちが訪ねた時、ちょうど礼拝の時間となったので、私たちもサンバ顔負けの元気な讃美歌をみんなといっしょに手拍子で歌い、楽しくなりました。
なお私は参加できませんでしたが、12月23日にはここに300人以上の人たちが集まり、クリスマスの礼拝とパーティーをしました。礼拝後には、彼らの中の何人かが、自分たちの物語を降誕劇と結びつけて、劇をしたそうです。テーマは「どうして故郷を捨ててサンパウロへ来なければならなかったか、そしてどのようにしてストリート・ピープルになっていったか」というもの。スタッフたちは、準備の一つとして、イザヤ書52章13〜53章12の「苦難の僕」の箇所について、聖書研究もしていました。
彼らがストリート・ピープルになったのは、彼ら自身の責任と言うよりは、もっと構造的な問題であり、彼らはいわばその犠牲者と言えるでしょう。このコミュニティーで働くスタッフたちが彼らをただあわれんだり、見下したりするのではなく、彼らの状況を「苦難の僕」の物語と重ね合わせて理解し、奉仕にあたっているのは、大事なことだと思います。
「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」
(イザヤ書53:4)
彼らはクリスマスプレゼントとして、布のかばんと石鹸、歯磨き、歯ブラシ、くしに鏡をもらいました。家のない彼らにとっては大切なものばかりです。
(松本敏之)
(「ジャカランダのかおり」第3号、1993年2月)