「神のもとに立ち帰れ。
愛と正義を保ち、
常にあなたの神を待ち望め。」
(ホセア書12:7)
今年(1993年)サンパウロ福音教会では、このホセア書の言葉を教会標語として歩むことになりました。ホセアというのは紀元前8世紀にイスラエルで活躍した預言者ですが、彼は神さまの深い愛について語りました。私たちは、この標語のすぐ前の11章を見ながら、まずそのことに目を止めたいと思います。
11章4節にはこう書いてあります。「わたしは……彼らのあごからくびきを取り去り、身をかがめて食べさせた」。「くびき」とは、家畜同士をつなぐものですが、食事をするためにはそれをはずさなければなりません。神さまは自らそれを取ってくださり、人に食べさせるために身をかがめられたというのです。全地を創られたお方が、人を生かすために身をかがめられる。人間にあわせて、身を小さくされる。これはクリスマスを差し示しています。とてつもない程大きな神さまが、人を愛するあまり、それに自分の体をあわせていると、とうとう人間にならざるを得なかった。それがクリスマスの物語だからです。
しかし人間の方では、まだそれ程の神様の愛がわからず、自分の罪によって今にも滅びようとしています(11章5〜7)。そこで神様はこう言うのです。「ああエフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。……わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(11章8)。「激しく心を動かされる」というのは、元の言葉の表現では「私の心は、私に反して向きを変える」となります。神様の中で「罪は裁かれ、正しさが貫かれなければならない」という思いと、「どうしても人を見捨てることはできない」という思いがぶつかり、葛藤し、真っ二つになっています。人間のために身を小さくしてかがまれた神様は、とうとう人間のために引き裂かれています。これはイエス・キリストの十字架を差し示していると思います。
私たちは、そういう「憐れみに胸を焼かれる」ほどの神様のもとに「立ち帰れ」と呼びかけられているのです。これは「あなたもその愛に生きよ」という招きではないでしょうか。
先日、日本の小高利根子さんが、ジルベルト・ディメンスタインというブラジル人の書いた『風みたいな、ぼくの生命−ブラジルのストリートチルドレン』(現代企画室)という本(現題は "A Guerra dos Meninos" )を送って下さいました。この本によるとブラジルには推定2500万人の貧困状態の子供がいて、そのうち700万人から800万人の子供たちが路上生活をしているということです。
いつもこの子供たちの頭を占めているのはサバイバル、つまりどうやって食べ物を手に入れるかということです。食べ物を手に入れるために、子供たちは物乞い、駐車場での見張り、靴みがき、万引き、すり、旅行者からの強奪など、何でもします。空腹を紛らわせたり、現実をしばしの間忘れて夢見心地になるために、シンナーを吸う子供もたくさんいます。この本を読んでいて一番ショックであったのは、この子供たちを闇から闇に葬る殺し屋(死の部隊)がいるということです。町の住人たちはこの子供たちを非常にやっかいな、迷惑な、社会のだにのように思っている。警察もどうにもできない。それで「死の部隊」が彼らにかわって、子供たちを「始末」しているのです。警察もそれを見逃している、あるいは警察官もそれに加わっているということです。この子供たちの人権を守ってくれるものは何もなく、彼らの人権には、誰も興味をよせないというのです。彼ら自身が「ぼくの命なんて、風みたいなもんさ。ふいっと消えちゃうんだ。止めようったって、どうしようもない」と言っています。
私たちはそういう町に生きています。こうしたことは、私たちの社会のもつ問題のほんの一例に過ぎません。激しい貧富の差が多くの問題を生み出しています。そういう町に教会が建てられ、そういう町で私たちは神様に向かってひざまずき、祈っているのです。これは一体何を意味しているのでしょうか。神様は愛に満ちあふれた方であり、私たちへの愛のためにご自分を引き裂かれた方だと言いました。その神が今も生きて働いておられるということを証しするとは、一体どういうことかを改めて考えさせられます。
こうした社会の問題に目を向けると、めまいがするほど気が遠くなる思いがします。非常に根は深い。社会構造的な問題です。私たちが何かをしたところで、自己満足か、気休めにしかならないと思ってしまいます。
旧ソ連のタルコフスキーという監督の映画『サクリファイス』にこういう場面があります。アレクサンデルという元俳優と口のきけない息子が一本の枯れ木を植えています。アレクサンデルはこう言いました。「あのね、ずっと昔のことだが、パンベという、正教のある長老が、山の中にちょうどこれと同じように枯れた木を差し込んで、イオアン・コーロフという弟子の修道士に、その木が生き返るまで、毎日水をやるように命じたことがある。何年もの間、イオアンは毎日、朝になると桶に水を汲んで出かけていった。ひとつの桶を山まで運ぶのに、日の出から日没まで丸一日かかった。毎朝、イオアンは、水桶を持って、山に行き、木の株に水を掛け、夜、もう暗くなった道を修道院まで戻ってきた。こうして丸3年が過ぎた。そしてある日、イオアンが山に登って行くと彼の木に、花が咲き乱れているのを目にしたんだ」。アレクサンデルは続けて言いました。「もし、毎日同じことを、同じ時刻に行うならば、……世界は変わるだろう。何かが変わる。変わらないはずはない」。『サクリファイス』は、タルコフスキーの最後の作品であり、私はこのアレクサンデルの言葉の中にタルコフスキーの遺言を聞くような思いがします。「もし、毎日同じことを、同じ時刻に行うならば、……世界は変わるだろう。何かが変わる。変わらないはずはない」。
タルコフスキーは無神論者であったと伝えられていますが、私はむしろ信仰を持って生きるとは、こういうことではないかと教えられる思いがします。現実はどんなにしたって変わらないように思える。この社会において、愛と正義を保って生きようとすることは、枯れた木に水をやり続けるようなことかも知れません。何をしたって変わらない。しかしそこで私たちがどちらに向かって歩き始めるのか、ということです。ただ社会の流れに身をまかせて、この社会はなるようにしかならないと、あきらめるのか。この世界にまことの神様がおられることを信じて、愛と正義が実現するように、地道な働きをするのか。私たちの信仰は、そこで真価が問われています。神に絶望することは罪です。神は無から有を生み出し、できないことはないお方です。私たちも愛と正義を保ち、常にこの神を待ち望んで、その神を証しするために働きたいと思います。「もし、毎日同じことを、同じ時刻に行うならば、……世界は変わるだろう。何かが変わる。変わらないはずはない」。
(松本敏之)
(1993年1月3日、新年礼拝説教より。)
(1993年8月、『ジャカランダのかおり』第4号)