私は、昨年8月日本基督教団の宣教師としてブラジル・メソジスト教会に受け入れられ、ブラジル北東部ペルナンブッコ州の州都レシフェの隣接都市オリンダにある二つの教会で働いています。
レシフェ/オリンダは、南緯8度の熱帯海岸に位置し、小井沼先生ご夫妻と親しい堀江節郎神父が昨年まで働いておられたジョアン・ペソアから南へ120キロのところにあります。オリンダはブラジルで最も歴史のある街の一つで、1537年ポルトガル人入植者によって建てられ、17世紀はじめより20年間、オランダ人によって事実上占領されていました。そのため、旧市街の一画には、ポルトガル、オランダ双方のコロニアル様式建築が残され、それぞれ独特のスタイルの20以上の教会や修道院が今も静かにたたずんでいます。オリンダという名前は、初代知事が丘の上からの眺めを「オー、リンダ(ああ美しい)」と感嘆したことに由来すると言われ、その美しい街並みはユネスコの「人類の文化遺産」にも指定されています。
またレシフェ/オリンダは、カトリックの基礎共同体運動の創始者の一人であるドン・エルデル・カマラが大司教を務めた街として有名です。彼は、軍政時代、国内では言論活動を禁じられていましたが、世界中を飛び回って、囚人の拷問や社会不正義を告発してきました。また今年5月2日に亡くなった『被抑圧者の教育学』の著者パウロ・フレイレもレシフェの出身で、彼はこの地で民衆の識字教育と意識改革の運動を始めました。もっとも時代が変わり、現在では街もすっかりおとなしくなってしまいました。
さて私の働いているアルト・ダ・ボンダーデ教会とカイシャ・ダグア教会は、オリンダのはずれの貧しい地区にあります。私はブラジル人の牧師と共働牧会をし、二教会において交代で説教もします。ポルトガル語の説教では、まだまだ言いたいことの三分の一も言えず、もどかしい思いをすることが多いのですが、話す方も聞く方も忍耐しつつ、がんばっています。
毎週木曜日の聖書研究も、なかなか大変です。私のつたない聖研に欠かさず出てくれるトーニャという婦人は、これまで教育を受ける機会がなかったので、字も読めません。私は彼女にも通じる話をしなければなりません。準備したことが全く役に立たないことは、しばしばです。また彼女のポルトガル語は、私には半分もわかりません。他の教会員がいるときには、時々「通訳」してもらいますが、二人だけのときなど、どうしようもなくなって、よく二人で笑ってしまいます。
その他、私の主な責任は、教会を活動母体としつつ、教会という枠を超えて、これら二つの地区の人々の生活をサポートするコミュニティーセンターと共に歩むことです。このセンターで、かつては識字教室をしたり、ボランティアの医師の協力を得て、無料の診療をしたり、木工所で家具などを作る職業訓練をしたりしていましたが、幾つかの困難な課題を抱えて、活動も縮小しました。現在は、小さなグループで、再生紙のクリスマス・カードを作ったり、婦人達が手芸教室をしたりしています。妻のかおりもこの手芸教室に参加して、彼女ができることを教えています。6月初めには、女子中高生30人を対象に髪飾りを作る教室を開きました。
教会付属の無料の保育所と学校(幼稚園から小学校一年生程度)は、コミュニティーセンターの活動の一環として、今も地域で大きな役割を果たしています。私はこれらの学校で、日本の紙芝居を用いて、週日子ども礼拝を始めました。午前部と午後部をあわせると、それぞれの学校に200人近い子どもがいますから、6回くらいに分けてしていますが、かなりの肉体労働です。言葉の足りない分、体全体で気迫で押します。家で子どもといっしょにテレビを見ながら、子どもの言葉や迫力のある表現も大分「勉強」しました。子どもたちも、紙芝居をとても楽しみにしているようです。
アルト・ダ・ボンダーデ教会は、今信仰的な危機を経験しています。私たち日本人の想像を超えた貧しさの中にあり、自分たちには何もできないという思いが、何もしないということに直結しています。援助に慣れてしまっていることも問題です。ある支援を得ながらも、自分たちでできるだけのことをし、自分たちのビジョンと責任をもって決断していかなければ、教会は立たないでしょう。昨年初め、アメリカのあるメソジスト教会のグループがワークキャンプにやってきて、共に礼拝堂の壁を造ってくれましたが、その後1年以上、放置された状態になっています。最近、教会員と「ぜひ屋根と床をつけて、礼拝堂を完成しよう」と話し合いました。どうぞ会堂建築再開によって、信仰が新たにされるよう、お祈りください。
(松本敏之)
(小井沼宣教師夫妻と共に歩む会会報「サンパウロ通信」原稿、1997年6月)