大地のリズムと歌−ブラジル通信8

 1997年5月、私の住むペルナンブッコ州のレシフェ/オリンダにとって忘れ得ぬ人が、二人相次いで他界した。しかもこの二人の生と死は、さまざまな意味で際だって対照的であった。一人は、レシフェが生んだ世界的な教育学者、『被抑圧者の教育学』の著者、パウロ・フレイレである。5月2日サンパウロにて、心筋梗塞のため逝去。75歳であった。もう一人はイタリア出身のカプチン会修道士、ダミアン・デ・ボザーノ。19日間の意識不明の後、5月31日、98歳でレシフェにて逝去した。

 パウロ・フレイレは、1921年、レシフェの中流家庭に生まれたが、1930年、世界恐慌の波がノルデスチ(ブラジル北東部)にも押し寄せた時、フレイレ一家は、1931年レシフェ近郊のジャボアタンという町へ移り住むことを余儀なくされる。彼はこの地で飢餓と貧困に苦しむ農民と出会い、彼自身もまたその悲惨さを経験した。この出会いと経験が、彼の後の歩みを決定することになる。彼は法学を学びつつも、教育に携わり続け、革命的な識字教育方法を確立する。1963年、リオ・グランデ・ド・ノルチ州の地方都市アンジコスで、たった45日間で300人の農村労働者の識字教育に成功し、一気にブラジル中の注目を浴びた。彼の識字教育の理論と実践は、周知のごとく、ただ単に字の読み書きができることをめざすものではなく、抑圧され、搾取されている民衆に社会構造に対する批判的意識を芽生えさせ、社会全体の変革をめざすものであった。

 まさにこの教育学のゆえに、1964年、ブラジルが軍事政権になるや否や、彼は75日間拘留され、その後も厳しい監視下におかれた。彼は亡命を選択、チリ、アメリカ合衆国、スイスで活躍し、その教育学は更に普遍的なものに磨かれ、その名声は更に高まっていった。スイスでは、世界教会協議会のスタッフとして、設立されたばかりの教育部門を担った。1980年ブラジルに帰国し、晩年89年から91年には、サンパウロで初の労働者党(PT)市長のもと、教育長を務めている。

 世界教会協議会総幹事のコンラード・ライザーは、ブラジルのエキュメニカル新聞『コンテスト・パストラル』(第37号、1997年5月)に、早速追悼文を寄稿し、次のように述べている。

「パウロ・フレイレはエキュメニカル教育の方向付けと方法論に深い影響を与えた。<エキュメニカルな修練>(aprendizadoecumenico)という概念は、豊かに彼のアイデアから恩恵を受けている。・・・パウロ・フレイレはいつも自分のキリスト教信仰を明確にし、ローマ・カトリック教会の信者としてエキュメニズムに責任的にかかわった。彼はまたラテンアメリカの解放の神学の発展に、個人的には教会基礎共同体の生活に強い熱意を持っていた。世界教会協議会は、パウロ・フレイレの生とその輝かしい貢献に対して、神に感謝をする。」



(パウロ・フレイレが天国で天使に字の読み方を教えているところ。
「ぺー、ア、ウ: パウ;エレ、オー: ロー;エフェ、エレ、イ: フレイ;エレ、エー:レ..パウロ・フレイレ!」)
(『ディアリオ・デ・ペルナンブッコ』5月3日号より)

 一方、1898年イタリア生まれの修道士ダミアンは、パウロ・フレイレが大不況により引っ越しを余儀なくされた1931年に、あえてブラジルで最も貧しいノルデスチに宣教師としてやってきた。以来60年以上にわたり、広いノルデスチの奥地を伝道のためにくまなく歩き回り、司祭がだれも来ない地方で、ミサや結婚式や葬儀を無償で執り行った。彼もフレイレ同様、ノルデスチの貧しい民衆のために働いたが、その仕方と考え方は全く違っていた。フレイレは、進歩派カトリックの象徴的存在であったが、ダミアンは、中世から抜け出てきたかのごとく、超保守的な神父であった。説教も裁きのトーンが強かった。「罪人は地獄の火によって罰せられる。地獄の火はノルデスチよりも数億倍も熱い。」「離婚する者は地獄に頭から落ちる。」しかし彼の説教にはカリスマ的力があり、行く先々でおびただしい群衆が、集まったと言う。ダミアンは次第にノルデスチの貧しい民衆の間で「奇跡を起こす生きた聖人」とされていく。

 彼が意識不明になって以来、多くの人が病院前につめかけ、この98歳の老人が「死なないように」祈り続けた。亡くなった後は、教会に弔問客が長蛇の列となって押し寄せ、卒倒者も続出した。6月4日、レシフェのアフーダ・サッカー場において行われた葬儀は、司祭217人によって執り行われ、参列者は3万5千人にのぼり、ノルデスチ史上最大の葬儀となった。マスコミも彼の死の前後10日程は、これに関する報道で持ちきりであった。

 パウロ・フレイレが亡くなった時には、ペルナンブッコ州の州知事は3日間の公的な哀悼を宣言し、新聞こそ特集紙面を組んだが、一般民衆の間ではほとんど話題にならなかった。このこともまた対照的であり、現在のノルデスチ民衆の現実を象徴していようである。

 パウロ・フレイレは、まさに1950〜60年代のノルデスチの現実が生み出した希有の思想家であったが、ダミアンもまた、同時代のノルデスチによって生みだされるべくして生み出された「聖人」であった。フレイレのような人が民衆の意識改革をし、カトリック教会が解放路線を突き進んでいった時に、一方で、そうした激しい動きに抵抗を感じた民衆は、むしろ昔から変わらぬ言葉を権威をもって語ってくれる神父に心を引かれ、奇跡を求め続けたのである。ノルデスチは、そう簡単には変わりそうもない。



ダミアン「わたしが祈れば祈るほど...」
人々(雲の下から)「わが民!わが修道士!!」と叫んでいる。
(『ディアリオ・デ・ペルナンブッコ』6月4日号より)

(『福音と世界』9月号、1997年8月)

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