ジュアゼイロ・ド・ノルチは、入るなり貧しさが伝わってくるような町であった。かろうじてシセロ神父の威光によって支えられているように思える。それを象徴するかのごとく、町のどこからでも町外れの丘の上の真っ白なシセロ神父像を「拝む」ことができる。1969年にできた身長27メートルの、この真っ白なシセロ神父像は、ニューヨークの自由の女神像、リオデジャネイロのキリスト像に次いで、世界で三番目に大きいコンクリート像である。
(シセロ神父像)
「奇跡の神父」の恵みを求めて、毎年100万人以上の人々がブラジル中、特にノルデスチ(北東部)一帯から、ここへ巡礼にやってくると言う。その大多数は、奇跡を信じて生きる、素朴な、貧しい人々だ。私たちがとった宿も、そうした巡礼客を受け入れる粗末なホテルであった。6畳もない小さな部屋に4人分のベッドがひしめきあい、さらにその上に三つのハンモックがかけられるようになっていた。
シセロ神父像のある地域一帯は、ファベーラ(スラム街)である。これもあたかもシセロ神父の精神を引き継いでいるかのようだ。私たちが車で丘にのぼると、次々に貧しい子ども達が集まってくる。誰かが私たちのために「シセロ神父の生涯と死」という歌を歌い始めるや否や、報酬を期待してか、次々と加わっていき、あっという間に大合唱となった。
シセロ神父像の背後には「奇跡の家」がある。ひんやりとした室内の、暗い奥の部屋には、小さなシセロ神父像が二つあり、そのまわりに、何百という色褪せた写真がかけられていた。また棚の上には、頭、手、足、乳房など、体の部分の模型が、並べきれずに積まれている。材料も、石膏、木材、プラスティックなどさまざまである。私には壊れたマネキン人形がうごめいているように見えて、気味が悪かったが、これらはすべて、シセロ神父に願をかけて奇跡的に病気が治った人々が、感謝のしるしとして、あるいは証しとして、捧げたものであった。
(シセロ神父像のまわりにささげられた体の部分の模型)
セルタォン(ノルデスチの乾燥地帯)の聖人、シセロ・ロマン・バチスタは、1844年3月24日にセアラ州の内陸部クラートに生まれた。1870年セアラ州の州都フォルタレーザの神学校を卒業し、叙階を受けると、すぐに彼は故郷クラートの司祭になった。翌年12月24日、隣村ジュアゼイロで、彼はミサを執り行い、将来、彼が運命を共にする人々に出会う。前後して、彼は不思議な夢を見た。イエス・キリストが、ジュアゼイロの飢えに苦しむ群集を、彼に見せつつ命じた、「シセロ神父、彼らの世話をしなさい」。数ヶ月後、彼はこの召命に従い、ジュアゼイロへ引っ越す。
ジュアゼイロに着くと彼は、地域に蔓延していた酒浸りや放浪などの悪癖をやめさせ、社会の秩序と規則正しい生活習慣を回復させていった。シセロ神父は、公正で、思いやりのあるふるまいにより、土地の人々の共感と尊敬を得、その評判は広まっていった。
1889年3月6日、最初の「奇跡」が起きる。熱心なカトリック信者であったマリア・デ・アラウージョが、シセロ神父より受けた聖体が、血に染まったと言うのである。このような現象が公衆の面前で何度か起こり、これが報道されると、たちまち各地より巡礼者がジュアゼイロへ押し寄せるようになった。セアラ州のドン・ジョアキン・ジョゼ・ヴィエイラ司教は事態を収拾するため、査問委員会を招集した。しかし委員会が「奇跡」に好意的な判断を下したため、司教は別の委員会を組織し直して、即刻、「奇跡はなかった」という決定を下させた。シセロ神父は1892年、聖職位階を剥奪され、説教することも、告解を聞くことも、ミサを行うことも禁じられた。彼はその後ローマへ行き、時の教皇レオ13世に訴え、処罰が取り消されることになったにもかかわらず、セアラ州の司教は、シセロ神父を許すことはなかった。人々は教会の決定に怒り、反発し、迫害を受けるシセロ神父にますます心を寄せ、彼を崇拝するようになっていった。彼は自宅で、巡礼に来る人々を分け隔てなく受け入れ、霊的なカウンセリングを続けたという。
1911年シセロ神父は、ジュアゼイロの独立に伴い、ジュアゼイロの初代市長に就任する。彼以外に人望を集められる人は、いなかった。1934年、90歳で亡くなった際は、ジュアゼイロ市民だけではなく、ノルデスチ中の人々が悲嘆にくれたと言う。
彼の遺したものは数多く、しかも驚くほど多岐にわたっている。彼の説いたロザリオの祈りの習慣は、今日ノルデスチ中のカトリック信者に広がっている。また薬草を中心とした家庭民間薬を普及させ、その薬は大きな効果をあげた。市長としては、教育に力を注ぎ、学校をたくさんたて、農業・牧畜を奨励し、地元産業も育成した。
シセロ神父を聖人として崇拝し、その恵みの奇跡を信じて多くの人々が巡礼までするのは、いかにも貧しいノルデスチならではの現象であろう。それは今回の旅行を通しても、つくづく感じたことである。しかし同時に、今回彼の伝記を読んでみて思ったことは、彼が極貧の人々のただ中で、確かに非凡な、しかも非常に実際的な社会改革、精神改革のリーダーであったということである。そうした業績がなければ、いくら例の「奇跡」があっても、「聖人」にはならなかったであろう。
(『福音と世界』4月号、1998年3月)